格差社会・日本においては、死にすらも格差がある。「死は誰にでも平等に訪れる」とは虚構にすぎない――。『死体格差 解剖台の上の「声なき声」より』(双葉社)の著者で、現役の法医学解剖医である兵庫医科大学の西尾元教授はそう指摘します。何が「平穏な死」と「異状な死」を分けるのか。今回、プレジデントオンラインでは西尾教授にインタビューを行いました。著書の書き出し部分とあわせてご覧ください。

※以下は『死体格差』の「はじめに」からの引用である――。

「3年ほど前のことになるが、関西に住む40代の女性が自宅で倒れて死亡しているところを発見され、私たちの法医学の教室に運ばれてきた。

遺体の発見現場となった自宅は、市営団地2階にある一室。無職だった彼女は母親との2人暮らしで、これといった既往症はなかった。その朝も普段と変わらない様子だったが、外出先から母親が帰宅すると、彼女はすでに冷たくなっていたという。室内はすべて施錠されており、第三者が侵入した痕跡はなかった。

『死体格差 解剖台の上の「声なき声」より』西尾 元著(双葉社)

警察によって検視が行われたが、やはり、部屋の中が荒らされたり、誰かと争ったりした跡も見当たらない。警察は「事件性はない」と判断したものの、その死の原因――死因がわからず、私たちのところに解剖の依頼が届いたのだ。

運ばれてきた女性は、40代という年齢のわりにはずいぶん老けて見えた。白髪交じりの長い髪は伸ばしっぱなしだ。“痩せている”というよりは、“やつれている”という表現のほうがしっくりくる。

解剖室に入ると、私たちはいつものように遺体の表面の観察を始めた。

この女性には、頭部の左側と左肩の外側、さらに左腰のあたりにも赤黒い打撲痕が確認できた。特に左腰のそれは大きなもので、部屋の中で転んだ程度でできる痕ではない。

「家の中で、こんなに強く腰を打ち付けることがあるだろうか……」

さまざまな疑問を頭の中で整理してから、私たちは解剖に取り掛かった。

彼女のお腹をメスで開いた時、同僚の先生と一瞬、顔を見合わせた。腹腔の下のほうにある骨盤腔に、大量の出血がある。さらに胸を開くと、驚くことに彼女の肺は左右とも真っ白だった。

皆さんも何かの教材などで一度は見たことがあると思うが、肺や心臓、肝臓といった臓器はみな赤っぽい色をしている。その赤は、そこに流れる血液の色だ。それが真っ白になっているということはつまり、流れていた血液が失われたことを意味している。 

現場検証を行った警察の話によれば、自宅の中に出血の跡は見られなかったという。だが、彼女の血液は、体内で大量に出血していた。骨盤腔に広がっていた血液が、その証拠だ。

骨盤腔を詳しく調べていくと、骨盤を構成する骨に折れた痕が見つかった。そこから出血を起こして、周りの組織や筋肉に広がっていたのだ。

「骨盤骨折による出血性ショック」。これが、彼女の“とりあえず”の死因だ。

しかし、死因がわかっても、この女性がなぜ“ショック死”するほどの多量の出血を起こすに至ったのか、わからない。

結論を先に言えば、彼女は交通事故に遭っていたのだ。

右膝の外側に1カ所、目立たないが、打撲の痕があった。この痕を見た時、すべてがクリアになった。

彼女の体には、頭部、肩、腰にはっきりした打撲痕があったが、私はそれらがすべて左側に生じていたことに当初、あまり意味を見出せなかった。一方で、体の右側には右膝の外側1カ所にしか打撲の痕はない。これが、重要だったのだ。

この女性はおそらく、歩行中に自分の右側から走ってきた車に衝突されたのだろう。右膝の打撲痕は、車のバンパーがぶつかったことでできた傷だ。左方向に飛ばされて転倒した際、彼女は腰の左側を路面に強く打ちつけたことで、骨盤骨折を起こしてしまった。「左腰打撲による骨盤骨折に基づく出血性ショック」。これが、彼女の最終的な死因だった。

しかし、ここまでクリアになっても、謎は残る。なぜ、交通事故に遭った彼女が、市営団地の2階にある自宅で亡くなっていたのか。 

解剖結果を受け、警察が調べたところ、すぐに該当する交通事故が判明した。ひき逃げ事件などではなく、事故を起こした運転者は、きちんと警察に届出をしていたのだ。事故直後、病院に連れていこうともしたが、彼女自身がそれを断ったという。そのかわりに「自宅まで乗せてほしい」と頼まれ、運転者は彼女を市営団地まで送り届けていた。

衝突した車を運転していた男性が、駐車場から部屋まで女性を背負って上がったそうだ。骨盤骨折の痛みで、ひとりで歩くのが困難だったのだろう。それなのになぜ、彼女は病院に行くことを拒んだのか。

女性はこの日、母親の外出後、近くのスーパーに酒を買いに出かけていたという。その帰り道で、事故に遭っていた。

実は、彼女はかなりの酒好きだったため、ひとりで酒を飲むことを母親からきつく禁じられていた。そのため、病院に運ばれることで、酒を買いに行ったことが母親にバレてしまうことを恐れたのだ。

骨盤骨折の場合、出血はゆっくりと広がっていく。おそらく自宅に連れ帰ってもらった時点では、まだ彼女の意識もしっかりしていたはずだ。だが、出血が続くとともに徐々に意識は遠のき、ついには絶命してしまったのだろう。

後になって聞いた話だが、彼女は事故に遭う数年前、自身のアルコール依存が原因となって離婚していたのだという。彼女の人生は、酒によって二度、壊されてしまった——。

※『死体格差』からの引用ここまで。