「謝罪は求めない」広がった市民の声

悲願とは、いつかは達成されるものなのか。私はそんなことを考えながら感動のシーンを見つめていた。

2016年5月27日午後6時6分。予想を遥かに超える17分のスピーチ(※1)を終えたオバマ大統領は、まっすぐ坪井直さん(91)、森重昭さん(79)という2人の被爆者に歩み寄り、言葉を交わした。

被爆者の森重昭さんを抱きしめるオバマ米大統領(広島、5月27日/時事通信フォト=写真)

私はその場面を、息を呑んで見つめていた。いや、感動で言葉を失っていた、という方が正しいかもしれない。それは、2人目の森重昭さんが、「オバマ氏を広島に呼び寄せた」まさに、“最大の立役者”とも言える人物だったからだ。

感極まった森さんを抱いたオバマ氏が、森さんの背中を優しく撫でた時、私はしばらく声を出すことができなかった。アメリカ大統領の広島訪問という“あり得ない出来事”と、この森さんの存在は決して切り離して考えることはできないのだ。

そして、その森さんの活動をホワイトハウスに伝え、さらには、伊勢志摩サミットのあとでも、「広島訪問が可能であること」をアピールした人物もいた。私は、そうした広島の“名もなき人々”がアメリカの現職大統領を広島へ呼び寄せたこと自体に、心を動かされたのである。

周知のように唯一の原爆使用国アメリカでは、現職大統領の被爆地訪問は大きなタブーの1つだった。

71年間も大統領の広島訪問が実現しなかったのは、「原爆投下は、その後の日本本土上陸作戦で失われる多くの米兵の命を救った」という論が今もアメリカで大勢だからである。つまり、米社会では、原爆投下に対する“謝罪”など許されない。どんなかたちであれ、広島を訪問することは、「謝罪」と受け取られかねないため、それは「実現するはずのない」出来事だったのである。

しかし、かの核廃絶を呼びかけたプラハ演説でノーベル平和賞を受賞したオバマ大統領に、広島市民は「オバマへの手紙」という地元メディアのキャンペーンの中で、こんな呼びかけをおこなっていた。

「広島では、米兵も原爆犠牲者として追悼の対象になっています。彼らを含めた全犠牲者の追悼の意味でも、核廃絶への祈りを広島から発信してください」

原爆による米兵犠牲者――ほとんど知られていないこの悲劇は、オバマ大統領が抱いた森重昭さんその人によって発掘されたものだった。

 森さんがサラリーマン生活のかたわら、20年以上にわたってこつこつと調べつづけたのは、被爆死した「12名」の米兵のことである。

昭和20年7月28日、広島・呉軍港への攻撃の途中、日本軍の高射砲によって2機の大型爆撃機B24と20機の艦載機が撃墜された。パラシュートでの脱出で生き残った乗員たちは、広島城内にある憲兵隊司令部など3か所に分散留置され、取り調べを受けた。だが、8月6日に至近距離で原爆が炸裂。捕虜となっていた12名のうち10名が即死し、残り2名は2週間近く生存したが結局、死亡。その2名は憲兵隊によって広島の宇品(うじな)で葬られ、墓標が建てられた。

森さん自身も、8歳の時に被爆している。自分の友だちをはじめ多くの死者を出した広島原爆の調査をライフワークとした森さんは、被爆死した米兵たちのことを知り、1人1人の名前と遺族を特定し、アメリカの遺族とも接触していく。それは執念と表現するしかない調査だった。

同胞が投下した原子爆弾によって自国の人間が死ぬ。それは、アメリカ側も隠したい事実だったに違いない。長期間にわたる森さんの努力は、やがて『原爆で死んだ米兵秘史』(光人社)として、身を結ぶ。

「私たちは大統領に謝罪を求めているわけではありません」

この米兵の秘話と共に、その広島の人々の意思が、やがてホワイトハウスへと届いていくのである。