「ワイパー1本」の車が既存メーカーの脅威に

新車が日本円換算で約22万円――。インドのタタ自動車が発売した世界最安車「ナノ」である。運転席側にしかドアミラーがなく、ワイパーは1本。コストを抑えるため簡素な作りになっているのが特徴である。

「ナノ」は今後、自動車業界において、既存メーカーにとっての脅威となるだろう。クリステンセンが述べた「破壊的イノベーション」となる可能性があるからだ。

クリステンセンは、優良経営として称賛された多くの企業が新興勢力との競争に敗れ、凋落していった事実に対して、「すぐれた経営こそが、業界リーダーの座を失った最大の理由である」と指摘した。顧客の意見に耳を傾け、最も収益率の高いイノベーションに投資配分したからこそ失敗したのだ、と。

つまり、一般に考えられている優良経営の原則は通用せず、新興勢力に市場を奪われる場合があるというわけだ。

クリステンセンはイノベーションを「持続的イノベーション」と「破壊的イノベーション」に大別して、失敗した優良企業は前者に資源を投下し、後者には投下しなかったことが、そうした事態を招いた理由としている。

持続的イノベーションとは性能の向上を伴い、常に主流市場、つまり大多数の顧客を満足させる技術開発である。

「低性能・低価格」製品の技術アップが 主流市場をのみこむ!
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「低性能・低価格」製品の技術アップが 主流市場をのみこむ!

図で示すように、持続的イノベーションが繰り返されると、技術の性能向上が市場のニーズを追い越す場合がある。その傾向が長く続くと、技術の性能と市場ニーズとの間に、大きなギャップが生じることになる。

そうすると、性能が低くても構わないので、価格の安い技術を求める層が現れる。この下位市場に根付いた技術が、改良を経て、やがて下位市場が求めるニーズを追い越すことになる。さらに改良が続くと、上位市場をも満足させる技術に発展する。

既存の技術が破壊的技術に置き換わる。これが破壊的イノベーションである。

タタ自動車の「ナノ」は日本車と比べれば、品質はかなり低い。そんな製品が既存メーカーの脅威となる可能性を秘めているのは単なる価格の安さではなく、その背景に新しいバリューネットワークが構築されるかもしれないからだ。

製品の製造や販売は1社だけでは完結しない。1つの製品は様々な材料や部品を調達して組み立てられる。さらにそうして完成された製品は他の会社によって調達され、別の製品の部品として組み込まれていく。この入れ子構造の商業システムがバリューネットワークである。

例えばブリヂストンはゴム市場から原料を仕入れてタイヤを作り、トヨタ自動車はタイヤ市場でブリヂストンのタイヤを仕入れて自動車を組み立てる、という具合である。

このようなバリューネットワークができているから産業は安定し、そこに関与している企業はハッピーになれる。だが取引構造が変わると誰かがダメージを受け、全体が崩れてしまう。

仮にタタ自動車が技術改良に成功し22万円で充分な品質の自動車を作れるようになったとしたら、おそらく日本の自動車メーカーは対応できないだろう。バリューチェーンが全く異なるため、同様のコストで同様の品質を実現できないからである。

つまり、低価格で一定の品質の製品を作れる新興企業の取引構造と既存製品のそれが全く異なるため、優良企業が新興企業に太刀打ちできなくなる可能性が出てくるのだ。

※すべて雑誌掲載当時

(構成=宮内 健)