学生貧乏旅行で体験した本場のビール文化

ビールのうまい季節になった。

その昔、正確には1977年7月、私は欧州を放浪した。当時、学生貧乏旅行の定番は、新潟から船便でウラジオストクへ渡り、シベリア鉄道でモスクワから西下するルートであったが、大韓航空の南回りコースで行けば、料金も若干安上がりで、時間も短縮できる、と聞き、さらに怪しげな格安航空券販売業者を紹介してもらって、羽田から飛び立った。韓国、フィリピン、バーレーンなど経由して、飛行機は無事、チューリヒ空港に着陸した。

旅の大半を野宿する予定で、ツェルトとシュラフを背負っていたが、初日はちょいと豪勢にユースホステルなんぞを利用することにして、ドイツへ移動、ケルンのユースホステルで荷を解いた。ふと、向かいを見やると、居酒屋らしき店があるではないか。

ドアを開けると店内はもう満員で、わいわいがやがやと雰囲気は日本のそれと変わらない。どこのテーブルを眺めても、ソーセージに酢キャベツ(ザウアークラウト)で、ビールをあおっている。私も、

「ビア ミット ブルスト ビッテ」

若い自分に怖いものなどない。『六カ国語会話』ポケット帖なるもの片手に、日本語発音で注文すれば、不思議と通じて、ビールとソーセージが運ばれてきた。

店員は真新しいコースターを置き、それにシュッと鉛筆で一本、線を引き、グラスを置いた。なんだろう、と少し気になったが、かまわず、ビールを飲む。なんとなめらかな咽喉ごしか。一気に飲み干し、2杯目を注文。すると、店員はコースターにシュッと線を一本、引いた。つまり、その線の数が杯数を示し、勘定されるという仕組みであった。

私は10杯でもう満腹、ほろ酔いになったが、隣卓の大男はもうコースターが黒く塗りつぶされ、いったい何杯呑んでいるんだ、という酒豪ぶりであった。