江戸幕府開府から13年、徳川家康が75歳で死去した後、二代将軍の秀忠はどうやって権力基盤を固めたのか。歴史学者の藤井讓治さんは「秀忠はまず家康を神として祀らせ、大軍を率いて上洛して軍事指揮権が自分にあることを誇示し、大名たちにも領地宛行状を発行して最高権力者であることを認めさせた」という――。

※本稿は、藤井讓治『シリーズ 日本近世史1 戦国乱世から太平の世へ』(岩波新書)の一部を再編集したものです。

徳川家康肖像画
徳川家康肖像画〈伝 狩野探幽筆〉(画像=大阪城天守閣蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

75歳まで生きた家康の死因は「鯛の天ぷら」だったのか

元和2年(1616)正月7日に駿河田中辺りに鷹狩りに出かけた家康は、21日夜遅くたんがつまり床に伏す。家康の発病については、ポルトガルから伝わったキャラの油で揚げた鯛のテンプラを食したのが原因ともいわれているが、確かなことは分からない。家康の病状は、いったん回復するも一進一退が続き、秀忠は、年寄衆の安藤重信や土井利勝を駿府に派遣し、2月2日には自ら駿府を訪れ、その後家康の死まで駿府にとどまる。

家康の病気は2月5日ころには京都にも伝わり、後水尾天皇は諸寺社に家康の病気平癒祈願の祈薦を命じ、勅使を駿府に派遣する。病状が悪化するなか、家康を太政大臣に任じるようにとの奏請が駿府滞在の伝奏からなされ、3月21日、家康は太政大臣に任じられる。

家康の死後起きた「権現」か「明神」かという神号問題

3月も終わろうとするころ家康は、多くの大名に形見の品をわける。そして翌4月2日、本多正純・南光坊天海・金地院崇伝を枕許に呼び、死後遺体は駿河久能山に葬り、葬礼は江戸の増上寺で行い、位牌は三河の大樹寺だいじゅじに立てるよう命じ、最後に1周忌が過ぎたら下野日光にっこうに小堂を建てて勧請かんじょうせよ、「関八州の鎮守」となるであろうと申し渡す。そして4月17日みの刻(午前10時)、75年の生涯を駿府城本丸に閉じる。

元和5年の大坂の直轄化にともなう大坂城の大普請が「御代替みよがわ御普請ごふしん」と称されたように、徳川の「御代替り」は、天皇による将軍任官ではなく、秀忠自らが天下人であることを衆人に認めさせねばならなかった。

秀忠が、最初に取り組んだのは、家康の神号問題である。家康が死去した4月17日の夜、家康の遺体は久能山に移され、吉田よしだ神道しんとうに従って埋葬される。そして本社を「大明神だいみょうじん造」で建てるとしたように、家康は「大明神」として祀られることになっていた。