※本稿は、今尾恵介『地図バカ』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
全国に普及した「自由が丘」的ネーミング
東京の都心から見て南西の郊外に位置し、畑の中に農村集落が点在していた荏原郡碑衾町大字衾字谷権現前という土地。ここに電車が走り始めたのは昭和2(1927)年の8月28日のことである。
渋谷と神奈川(横浜市)を結ぶ東京横浜電鉄(現・東急東横線)で、ここには九品仏という駅が設けられた。西ヘ600メートルほどの名刹・浄真寺に安置されている9体の阿弥陀如来像を意味し、それが寺の通称になっていたのだ。
ところがこの駅は2年後に改称している。浄真寺にさらに近い場所に目黒蒲田電鉄(現・東急)大井町線の現九品仏駅ができたためであるが、旧九品仏の新駅名は自由ヶ丘(現・自由が丘)となった。
この「通称地名」は舞踏家の石井漠の命名、もしくは自由ヶ丘学園に由来するというが、やがて昭和7(1932)年に碑衾町が東京市に編入されて目黒区となった際(厳密にはその数カ月前)、大字衾の界隈は正式に自由ヶ丘という町名になった。
「モダン文化」を象徴するようなこの地名に憧れる人は多かったようで、その証拠に『新版角川日本地名大辞典』(DVD-ROM版)によれば、目黒区の「本家」の他に18もの自由ヶ丘(自由が丘)が全国に存在する。「○○が丘」は高度成長期の新興住宅地の名に広く採用され、普及していく。そういう私も南希望が丘という町で子供時代を過ごし、横浜市立さちが丘小学校を卒業した。
歴史的由来よりもキラキラネーム
「○○が丘」に新味が薄れてくると、今度は「○○台」、やがて「○○野」などと流行は移るのだが、既存の歴史的地名との差別化を図りたい宅地開発業者と、カッコ良い地名の町に住みたい新住民の利害は一致し、この手の新地名は新駅名とともに増えていった。
しかし決めた瞬間から少しずつ古びてしまうのは新地名の宿命で、子供の名前に「オンリーワン」のキラキラネームが目立ち始めた頃、駅名にも新手のキラキラがじわじわと増えていったのである。
その中でも鮮烈だったのが、平成17(2005)年開業のつくばエクスプレス(秋葉原~つくば)だ。特に南流山駅から先は、既設駅の守谷を除いて流山セントラルパーク(前平井)、流山おおたかの森(西初石)、柏の葉キャンパス(若柴)、柏たなか(小青田)、みらい平(東楢戸)、みどりの(萱丸)と連続する。
ちなみにカッコ内は従来の地名で、いずれも江戸時代から続いてきたものだ。しかし新住民にはこれら歴史的地名は歓迎されなかったようで、すでに駅名と同じ名称や別の新町名に改称されつつある。