本能寺の変で織田信長を殺害したことで知られる明智光秀。いったいどんな人物だったのか。歴史学者の山本博史さんが監修した『日本史の有名人たち ホントの評価 偉人たちの「隠れた一面」から、歴史の真相が見えてくる!』(三笠書房)より、その人物像を紹介しよう――。

※本稿は、山本博文(監修)、造事務所(編集)『日本史の有名人たち ホントの評価 偉人たちの「隠れた一面」から、歴史の真相が見えてくる!』(三笠書房)の一部を再編集したものです。

京都の福知山城の風景
写真=iStock.com/MasaoTaira
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織田信長を殺害した光秀の光と影

“謀反人”の代名詞とも呼べる明智光秀。2020(令和2)年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公であったことからも注目された歴史上の人物だ。

光秀が主君である織田信長を殺したことは誰もが知っているが、その人物像の解釈はさまざまだ。

江戸時代から現代までに創作された物語では、みずからの野望のために信長を殺した大悪人、信長の横暴に堪えかねてやむなく謀反におよんだ悲劇の武将、信長の持つ革新性との対比から、幕府や朝廷といった既存の権力・支配体制の守護者として描かれてきた。

しかし、人間の顔はひとつとは限らない。光秀にも光と闇、双方の側面がある。

通説によれば、光秀が最初に仕えたのは美濃(現在の岐阜県南部)の守護・土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三であり、道三が嫡男・義龍に倒されたのちに光秀は美濃を出奔し、越前(現在の福井県東部)の大名・朝倉義景の下で10年にわたって仕えたとされている。

だが、この通説は江戸時代中期に成立した『明智軍記』など後世の軍記物が元となっており、信憑性が高いとはいえない。

光秀の名が初めて登場する一次史料は肥後(現在の熊本県)の細川家に伝わる『米田家文書』であり、その中の『針薬方』に「明智十兵衛尉高嶋田中籠城之時口伝也」との記述がある。

これは十兵衛こと光秀が、近江(現在の滋賀県)高島郡の田中城に籠城していたことを意味する。田中城の城主である田中氏は近江守護・六角氏の家臣であり、当時の六角氏は浅井氏と抗争をくり広げていた。