なぜ安倍晋三元首相の国葬に国民は猛反発するのか
岸田文雄首相の「決断」によって踏み切られた安倍晋三元首相の国葬が、9月27日に実施される。しかし、日増しに国民の反発は増すばかりだ。各社世論調査では「反対」が「賛成」を上回っている。安倍国葬をテコにして政権浮揚を狙いたかった岸田首相の思惑は、裏目に出てしまった格好だ。
前回の国葬が1967(昭和42)年10月31日に開かれた、吉田茂元首相のケース。時の政権は、佐藤栄作首相だった。吉田国葬では、今ほどの激しい逆風は吹かなかったとされている。
安倍氏の国葬に反発が高まっている理由はどこにあるのか。当時の新聞報道を基に、吉田氏の弔いを振り返りなから、考察してみたい。
吉田元首相は1967(昭和42)年10月20日午前11時50分、心筋梗塞によって神奈川県大磯の自宅で死去した。享年89だった。
同日付の各紙夕刊は一面トップで吉田氏の訃報を伝えた。朝日新聞の前文には、「吉田氏の葬儀を国葬としておこなうかどうかについて協議した。官房長官によれば、(佐藤)首相は国葬を希望しているといわれ、首相の(訪問中のマニラからの)帰国を待って臨時閣議で国葬とすることに決る見通しである」と述べられていた。
記事本文でも「(国葬は)10月末か、11月のはじめとなろう」「国葬委員長は佐藤首相がなる」「国葬の場所としては、日本武道館、国会議事堂、国立劇場などが候補としてあがっている」と、かなり具体的な記述が認められる。日経などの他紙をみても、同様の内容だった。
吉田氏死去の時刻は先述の通り11時50分。そこから、全国紙夕刊の締め切りまでは1時間程度しかない。
死去を待って詳細を取材し、どのような葬式にするか、などの記事に仕上げるには時間が足りない。したがって、新聞各紙は、吉田氏生存中から国葬を既定路線とした政府方針を基に「死亡予定稿」をつくっていたはずだ。既報の通り死去から11日後の10月31日に、日本武道館で国葬が行われることになった。