SNSの対極にある「考える」ことの身体性

この本が話題を呼んで売れに売れていることはうれしい驚きだが、その根底には東浩紀という人のすごさがある。一言で言うと「考える」ということの身体性を獲得していることだ。それは、SNSで見られるような脊髄反射的な意見表明の対極にあるものだ。

東さんが本書で述懐している通り、ゲンロンにホモソーシャルな部分があった、というのは本当だろう。ゲンロンカフェに初めてお邪魔したときには(東さんは不在だった)、観客や放送中に流れるコメントの圧倒的多数が男性のものであることに圧を感じたのを覚えている。ある意味で、「朝まで生テレビ!」にもあるプロレス的なものがあった。論壇的なもの、文壇的なものに権威主義的要素やプロレス的要素があることは否定できないし、ゲンロンカフェもまたそうした特徴をまとっている。

しかし、それでいてそこには明確に違うものがある。東さんの持つプロレス性や熱量が、派閥や敵味方感情ではなく「知」そのものに向けられたものであるということだ。東さんが話し手としてだけでなく、聞き手として優れている、ということも重要な観点だ。これほど多様な人を呼べる場はないし、論壇や文壇と違って実体としての「観客」がそこにいる。

東さんの幅広いつながりと、同時代性、それに東さん個人の強いこだわりや主観性がなければ、ゲンロンは今日のような存在にはならなかっただろう。同書で聞き手と構成を担当した石戸諭さんの高い能力が発揮された結果、本書にそれがよく表現されている。

動画配信システム「シラス」もキックオフしたところ。これからのゲンロンの活動が楽しみだ。

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