転職ロマン2

安定とやりがいを求めた転職の試行錯誤

ゆとりをもって生活するだけの収入を得ながら、好きな仕事で気の合う人たちと働き、プライベートも充実させる――。多くの人が夢見る社会人像だけど、現実にはなかなか難しい。組織人の場合は、自分の意に沿わない業務も担当しなければいけないし、嫌味な上司や無気力な部下に当たってしまうこともあるだろう。

都内の人材系ベンチャー企業で正社員の広報担当として働きながら、趣味が高じて設立したアート関連の会社を友人と一緒に経営しているのは松山久美子さん(仮名、43歳)。正社員であっても堂々と副業ができる会社が多い現在、彼女のように優秀でやる気のある人にとっては安定とやりがいを追求できる理想の労働環境が整いつつあるようだ。

このインタビューは東京・門前仲町にあるビストロで行っている。ワイン好きだという松山さんは喉の調子が悪いと言いながらもシャンパンをうれしそうに飲んでいる。細身でショートカット、ノースリーブのブラウスと大きな金色のイヤリング。いかにも精力的で洗練された女性だが、本連載のタイトルを伝えると「私はロマンとムードが大好きです」とすかさず賛同。素朴に感じるほど率直な振る舞いが親しみやすさを醸し出している。

勤務先では顧客を集めたコミュニティのマネージャー業務も兼ねている松山さん。まずは相手に寄り添う姿勢が身についている。しかし、現在のように生き生きと働けるまでには複数の転職先での試行錯誤があった。

「好き」を仕事にしたら業界のヒエラルキーの底辺に

松山さんは東海地方の地方都市で生まれ育った。進学先は東京にある有名私立大学だが、仕事をするイメージがわかずに就職活動はしなかったという。

「遠くの大学にまで行かせてあげたのに、と親はカンカンでしたけどね(笑)。卒業した春に彼氏と一緒にボートに乗っていたら、同級生たちがスーツを着て入社式に出ている映像が頭に浮かんだんです。慌てて仕事を探しました」

ただし、松山さんには「組織に染まるのは嫌。好きなことを仕事にしたい」という若者らしいこだわりがあった。筆者にも覚えがあるが、社会経験のないうちにそのような発想で仕事を選ぶと、見栄えだけがいいブラックな企業や業界に入ってしまいやすい。松山さんの場合は映画の宣伝会社だった。

「映画好きなので入ったのですが、業界のヒエラルキーの底辺に置かれました。新聞やテレビを頂点とするメディアが圧倒的に上、配給会社も上、劇場も上。仕事もヘマばかりでしかられてばかり。1年で逃げ出してしまいました」

初めての正社員。経営陣の入れ替わりで社風が一変

次はスターバックスコーヒーでのアルバイトを始めた松山さん。当時、20代独身。接客に向いている自分に気づいたのだろう。あり余る時間と体力を使って、英会話学校の受付のアルバイトも掛け持ちした。

「フラットでオープンな社風が好きになったので、スタバを辞めて正社員になりました。英会話学校の受付は見込み客への営業も兼ねています。私はいい上司に恵まれたおかげで売れる営業になれました」

人当たりの良さと聞き上手を仕事に生かすことを覚えた松山さん。6年間は楽しく働いていたが、勤務先が経営不振に陥り、経営陣が入れ替えとなった。自由な社風がガラリと変わったことが松山さんにとっては耐え難く、退職を決意する。

松山さんはこのときも転職先を見つけないまま退職。自分がやりたいことを見つめ直し、アートや映画と同じぐらい「家(住宅)が好き」だと思い至る。

「インテリア業界に行きたいと思って、30万円ほどの学費を払って学校に通いました。基礎を学べたし、イラストレーターやCADを使えるようにもなりましたが、内定をくれた会社の人が厳しい現実を教えてくれたんです。月収16万円で家に帰れないような忙しさが続く、と」

それでは生活が成り立たないと思った松山さん。内定先への就職を断わり、初めて転職エージェントに登録した。このエージェントが松山さんの視野を広げることになる。

大手ディベロッパーで見た「本物のエリート」

「紹介されたのはインテリア会社ではなく、日本を代表するような大手ディベロッパーでした。ベンチャー企業を集めるコワーキングスペースのコミュニティ・マネージャーを探していたので、私のような浮ついた経歴の人間を契約社員として採用してくれたのだと思います。この会社で、私は生まれて初めて本物のエリートを見ました。他の大企業、東京都、日本政府と折衝して、国を動かしているような人たちです。私は完全に浮いていました。トイレで泣いていた時期もあります(笑)」

任された業務には実直に取り組む松山さん。次第に周囲の信頼を得るようになり、契約社員としての期限が終わりを迎えた5年後には正社員登用試験を受けないかと打診された。

「とてもいい会社でしたが、私は正社員になってずっと働きたくはないと思いました。伝統もある大企業なので、様々なお作法とルールにのっとらないと何も動けない苦しさがあるからです。常に論理的に正しいことが求められる分だけ、判断も行動も遅くなります。業務で様々なベンチャー企業の人たちと触れていたので、『私も好きなことをしたいな』という気持ちがまた強くなりました」

アートな感性よりもロジックと建前が優先、そつがないけれど動きが遅い――。日本の大企業の強みと弱みを肌で感じながら、松山さんは再び転職活動を始めた。

まだ33歳じゃん。今から何でもできるよ

松山さんは当時33歳。10年間の社会人経験を経て、ようやく自分の軸が定まったと振り返る。

「好きな人たちと好きな分野で80歳まで働くことです。そのためにはスキルが要ります。自立して暮らすためにはお金も必要です」

お金も必要だと言いつつ、一度は断念したインテリア業界に入ることを決める。自宅を改装した経験から「やっぱり家が好き」だという想いが高まり、仕事で知り合った「8歳年上のカッコいい女性」からは背中を押してもらったのだ。

「私が『キャリアのことで迷っているんです。好きなことをやってみたいけれど、もう33歳だし』と言ったら、『まだ33歳じゃん。今から何でもできるよ!』と励ましてくれました」

数度の転職経験があり、様々な業界の企業が集まるコミュニティのマネージャーとして真剣に働いてきた松山さん。自分に合った会社を選ぶ感覚と知恵が身についていたのかもしれない。転職先は個人宅のリノベーションを手がける新興企業A社。年収は100万円ほど下がってしまったが、良い転職だったと松山さんは明言する。

「主に広報を担当したのですが、リノベーション前後のお宅撮影に同行するのがとにかく楽しかったです。上司もビジョナリーなひらめきタイプで、私の提案もどんどん受け入れて素早く決断してくれました」

新倉さん(2)
イラスト=新倉サチヨ

副業も転職もいとわないフリーランス・サラリーマン

正社員であっても勤務先に強い帰属意識を持たず、組織内で実績を上げながら会社と対等な関係を保ち、機会があれば副業も転職もまったくいとわない。筆者は、そういう働き方を好む人を「フリーランス・サラリーマン」と呼んでいる。彼らにとっての勤務先は単なる「太客」に過ぎず、忠誠を誓う見返りに保護してもらうような相手ではないのだ。 

筆者の見立てでは、松山さんは33歳でリノベーション会社A社に転職した頃にはフリーランス・サラリーマンになった。実際、A社への転職2年目には人材系ベンチャー企業B社での副業を始めている。

「A社では給料アップは見込めなかったからです。好きな仕事を長く続けるためのお金が足りない、と思いました」

そのうちにB社での業務のほうが忙しくなり、年収も20%ほどアップするこの会社への転職を考えるようになる。「本業」だったA社での広報業務は案件ごとの切り出しが可能だと松山さんは判断。正社員ではなく、業務委託契約にすることを打診する。本業を副業にするという発想だ。しかし、A社からは明確な理由は示されないまま断られてしまう。

「今の勤務先であるB社の社長からも『自分の会社を作るのはいいけれど、うちを副業にしないで。二番目の男みたいで悲しい』と冗談交じりに言われています(笑)」

すべてがつながって今がある

雇用主から嫉妬されるほどの実力と自由を手にしている松山さん。B社では正社員として顧客企業の担当者などが参加するコミュニティのマネージャー業務を手がけている。一方で、自ら経営するアート関連会社では様々な企画を立案・実行。新規顧客の営業活動にも励んでいる。今回のインタビューを通して、「キャリアの伏線回収ができた」と松山さんは総括してくれた。

「英会話学校では、共感をベースにして相手の話を引き出して営業にもつなげることを体得できました。インテリアの学校で学んだ基礎知識はリノベーションの会社で大いに役立ち、私のスキルの一つになっています。大手ディベロッパーでは世の中の仕組みを少し見ることができました。41歳のときに立ち上げた自分の会社はまだまだ細々とやっている段階です。でも、気持ちとしては副業ではありません。こちらが私の本業です」

今までの転職経験に無駄なものは一つもなく、すべてがつながって今に収れんされている、とまとめる松山さん。それが客観的な事実であるかどうかはどうでもいい。松山さん自身が「無駄な経験はなかった」とかみ締めて、前を向き続けることが重要なのだ。

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