葛藤や不安……転職は唯一無二の物語だ
自分にとってのベストなキャリア選択、年収が平均100万円以上アップ、自分の市場価値を確かめる……。街中やテレビ、ネットで転職サイトの宣伝文句を毎日のように目にする。様々な業界で人手不足が指摘されているので売り手市場なのだろうし、転職への心理的なハードルがどの年代でも下がっているように思う。1976年生まれの筆者の同世代でも、新卒入社の会社に勤め続けている人を見つけるほうが難しい。転職市場の活況は当然だ。
しかし、転職した人の話をじっくり聞くと、「キャリア」とか「年収」とか「市場価値」といった自分中心のわかりやすい言葉だけでは表せないことが多い。家族と一緒にいるためのやむにやまれぬ理由があったり、勤務先を愛しながらも目の前の人間関係や業務に疲弊していたり、懸命に働いて世間を見た先に「大人としてやるべきこと」を発見したり。勤務先を退職して別の勤務先に就職することは単純ではないと感じる。
転職には葛藤や不安もあり、小さな失敗や後悔は避けられない。だけど、リスクを取って環境を変えた人だけに見える景色もある。一見するとありふれているようでも、当事者にとっては唯一無二の物語なのだ。筆者はそこに人間味と醍醐味、すなわちロマンを感じる。一人ひとりと向き合い、そのリアルな事情や想いを聞き取り、転職を考えているかもしれないあなたと共有したい。
管理職になるタイミングで退職
日系の大手金融機関で14年間勤務して、今年の春に同業界での転職をしたばかりの男性がいる。俳優の向井理をやや小さくしたような風貌の沢田淳平さん(仮名、36歳)だ。以前の勤務先ではスタートアップ企業との協業を目指す出向先に5年間いて、本体に戻って管理職になるタイミングで退職。新天地は、別の日系大手金融機関での新規事業開発部門だ。
今は転勤のないエキスパート職であり、前の勤務先で全国転勤をする管理職になっていた場合と比べると、年収は10%ほどダウンしたという。同じような大組織で同じような仕事をするのに、収入だけが減っているように見える。沢田さんはなぜこのような選択をしたのだろうか。音楽バカだったけれど金融や会計の勉強は性に合っていた、という学生時代からの振り返りから始めることにしよう。
都内の有名私立大学に通っていた沢田さん。全国大会でも名の知れた音楽サークルで3年生のときに念願のレギュラーになれたが、プロのミュージシャンになることは考えなかったと振り返る。
「先輩たちの中にはプロになった人もいます。でも、いわゆるスタジオミュージシャンやレッスンプロがほとんどです。音楽で食べていくのはそれだけ大変なのでしょう。私はお金のために音楽をしたくはありませんでした」
幸いなことに、沢田さんはお金そのものを扱う仕事にも適性があった。金融のゼミナールに入り、「バチッとハマる説明ができる論理的な」世界への興味を深めたのだ。
金融機関同士の合併に奔走
「リーマンショックの余波が残っていたので就職活動は厳しかったです。ゼミの同期の半分ぐらいは就職浪人をしました」
いろいろな業界に関わりたいという志向がある沢田さん。物腰が柔らかく、接客業にも向きそうな雰囲気をしている。金融機関とインフラ企業を中心に就職活動をし、第一志望の会社から内定を得た。ある分野で圧倒的な存在感を誇る金融機関である。
「100兆円ぐらいの資金を海外で運用するような部門もあれば、現場の支店を経営指導したり企画を立てて実行したりするような部門もあります。私は現場のほうに回してもらえました」
初めての赴任地では、「金融機関同士の合併業務」という難度の高い仕事が待っていた。他に人がいないという理由で新人にして担当者になった沢田さんは「常に100個ぐらいあるタスクを『ヤバい順』につぶしていく」という毎日に突入した。
「20年前の不良債権が出てきたりして、裁判所にも通いながら処理していきました。前例踏襲が基本の金融機関なのに、本店に問い合わせても前例が見つからないケースばかりなんです。頼れる上司もいましたが、『まずはお前が自分で考えてやってみろ』と言われていました。今から振り返ると、あの3年間が私の糧になっています」
お前らの高い給料を削ればいいだろう
地方での活躍を認められたのか、次の3年間は東京の本店営業部で働くことができた。
「営業系では本店が偉いわけではない」と沢田さんは解説するが、有能でない人に「最低ロットが1億円」という企業融資の業務は任せられない。沢田さんは幹部候補の1人だったのだろう。この時期に沢田さんは結婚。今も共働きの奥さんと一緒に娘を育てている。
次の3年間はまた地方の現場だった。沢田さんが所属していた金融機関はやや複雑な成り立ちをしており、エリア全体の営業方針を決めたりリスクを管理したりする司令塔に様々な母体からの出向者がいた。
「地元出身の人がほとんどで、私のような全国転勤者は1割程度です。いろんな派閥があって、人間関係の勉強になりました(笑)。当時は金融機関への規制が強化されていった時期です。ひとつ間違えると経営が怪しくなるという緊張感があり、職場の雰囲気はギスギスしていましたね。地元出身の人から『資本が足りない? お前らの高い給料を削ればいいだろう』と言われたこともあります」
修羅場をくぐりながらも愛社精神が揺らいだことはなかったと沢田さんは振り返る。日本にとって大事な金融機関だという信念があり、だからこそ古くなったビジネスモデルを根本から変えないと立ち行かなくなってしまうと危機感が募った。
「中枢にいる人たちはもちろん優秀です。でも、上から降りてくる課題をこなすのに精一杯。古民家に例えると、私なんかは思いつかないようなすごいロジックと精度で外壁を塗り直しています。家が崩れそうなので、本当は今すぐにでも基礎工事をやり直すべきなのですが……」
社内公募でスタートアップを支援する関連会社へ
社風だけが問題なのではない。金融機関には法律のしばりもあり、本体でやれる業務範囲には制限がある。その会社にも人はいて、グループ会社から出資を募って子会社ですらない関連会社を設立。小回りの利く30人ほどの規模で、フィンテックなどのスタートアップ企業との協業を通して、新しいビジネスを模索したり外部からの刺激による人材育成を図っていた。30代になったばかりの沢田さんは社内公募で手を挙げて、その組織に飛び込んだ。
「本体は典型的な年功序列だったので、36歳ぐらいで管理職になることは見えていました。その前に、ビットコインやDXなどの新しい分野を学べる経験がしたいと思ったんです」
資金と人材の両面でスタートアップ企業を支援することが主な業務だったが、実際には与えられたもののほうが大きかったようだ。特に、30代前半の自分よりも若い経営者が多いことに沢田さんは衝撃を受けた。
「極めて合理的にビジネスにまい進している人もいれば、やりたいことへの熱量がすごくて寝る時間を削っている人もいました。私が勤務しているような大企業にも優秀な人はたくさんいます。でも、それだけに4、5割の力を出すだけでなんとかなってしまうんです。もっと頑張ろうとすると、上から『余計なことはやるな』と潰されてしまったり……。もったいないと思いました」
沢田さん自身は悔いのないような働き方をしてきたつもりだ。年功序列は受け入れるが、上司や本店が言うことに安直には従わない。むしろ、現場にいる自分のほうが正確な情報を持っているはずだと、言うべきことは言って上司とぶつかったことも数えきれない。それが会社と顧客のためだと信じてきた。大企業のサラリーマンだって空気を読み過ぎずに100%の力を出していいのだ、と。スタートアップ企業との交流で、そんな気持ちをさらに強くした。
「スタートアップに留学するプログラムも作り、勤務先から合計20人ぐらいは送り込みました。若い人も年配の人もいますが、みんな考え方がすごく変わって戻ってくることは共通しています」
本体に戻っても組織を変えられるのか
しかし、何千人も働いている巨大な組織が変わる兆しは見られなかった。その頃、時流を捉えた新しい人事制度が導入された。沢田さんはファーストペンギンになろうとして利用申請をしたところ、不可解な理由で却下されてしまった。
「世間的にとりあえず制度を作っておけ、と上から言われたのでしょう。でも、前例がないので実際に使って何かあったときにどうするのか、誰も責任を取りたくないのでとりあえず却下、という流れだったのだと思います」
この組織が変わるためには少なくともあと10年はかかると沢田さんは痛感。ちょうど本体に戻ることを打診されていたタイミングだった。これから中間管理職の一人になったとしても、組織を変えるような仕事はできそうにない。ならば、外に出て経験を積み、そのまま外部から組織改革に協力するか別の立場で戻ってくるほうがいいのでは――。
「かつては退職者は裏切り者扱いされていました。でも、今では出戻りOKの制度があります。実際に利用した人はまだいないようですけど(笑)」
あなたが転職することは想定していなかった
転職サイトに登録すると、様々な会社や転職エージェントからオファーがあった。「いろんな会社を見ること、いろんな人の話を聞くこと」が趣味でもある沢田さんは20人以上のエージェントと会い、誰と何を話したかをスプレッドシートで管理していたと笑う。沢田さんのほうがエージェント業務に向いていそうな行動である。
「エージェントの方の性格も様々なんですね。私の話をしっかり聞いて寄り添ってくれる人もいれば、『この会社に行けるのは今しかない!』と押し付けてきたのに丁重に断ると返事すら来なくなった人もいます。エージェントは企業からの成果報酬がすべてなので、大変な仕事だなと思いました」
自分の置かれた状況を客観視して楽しめるところが沢田さんの強みかもしれない。自信家であり楽天家なのだ。ただし、家族はそうはいかない。結婚11年目の奥さんからは「あなたが転職することは想定していなかった」とはっきり言われ、スタートアップ企業に転じるという選択肢はなくなった。年収が大幅にダウンするからだ。
「前の勤務先は経営状況の厳しさが報道もされています。持続的に給料をもらうことを考えると、一度は転職をしていたほうが安全だと妻に説明し、『それなら応援する』と言ってもらいました。あのまま50代になったら組織にしがみつかざるを得なかったでしょう」
後悔をしないように人生を充実させたい
結果として同じく大手金融機関の新規事業開発部門に転じることになった沢田さん。同業種で同職種の現役バリバリなので、プロ野球選手の移籍のようなものだ。
実は、沢田さんにはもう一つの選択肢があった。雇用が安定している日系の経営コンサルティング会社だ。「いろんな会社のいろんな人に関わりたい」という学生時代からの一貫した欲求を満たせるし、年収もかなりアップする。なぜ選ばなかったのか。沢田さんには「JTCと揶揄される会社で新規事業を成功させ、組織を変え、働くみんなに『俺たちもできるじゃん』と思ってもらいたい」というこだわりがあったからだ。JTCとは「ジャパニーズ・トラディショナル・カンパニー」の略で、そこで働く若手社員たちも自嘲気味に使っている言葉らしい。
「以前の勤務先でも経験しましたが、そのコンサルティング会社は本体からは切り出された出島組織でした。今の勤務先は本体の新規事業部門です。スピード感も勢いもある会社ですが、何をやるにしても会社全体を巻き込むことが必要です。小さな組織に比べると動きづらいことは否めません。でも、何か生まれたときに社内や社会に与える影響は大きいと思っています。強い言葉になってしまいますが、JTCをバカにしている人たちを一度は見返してやりたいんです。僕の信念、ですか? 青臭いことを承知で言えば、死ぬときに後悔をしないように人生を充実させることです」
コーチングやスタートアップ企業支援の副業やプロボノもやっているという沢田さん。フラットな感覚の持ち主で、ほぼ初対面の筆者のインタビューにも関心を持って協力してくれた。第三の道である日系の経営コンサルティング会社が最も適職だと筆者は感じたし、奥さんもそのほうが納得すると思う。
しかし、自分が「やりたいこと」「やれること」と「やるべきこと」が一致するとは限らない。ふんわりしているように見えて負けず嫌いな沢田さん。日本の大手金融機関にはやるべきことがまだ残っていると思っているのだろう。今後もそのロマンを楽天的に追求してほしい。
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