※本稿は、高森明勅『愛子さま 女性天皇への道』(講談社)の一部を再編集したものです。
元宮内庁長官の踏み込んだ発言に見る「深刻な危機感」
注目すべき記事を紹介します。毎日新聞がネット配信した記事(令和6年=2024=3月15日配信)の中で、福岡市で行われた羽毛田信吾元宮内庁長官の講演内容が紹介されていました(「毎日・世論フォーラム」毎日新聞社主催)。
羽毛田氏は講演の中で「(皇室制度の)改正に向かって具体的な動きを起こすことは待ったなしだ」と強い危機感を強調されたようです。そのうえで「皇室に女性がいなくなれば、女系に広げる選択肢はそもそもなくなる」と呼びかけたと言います。
なぜこの記事に注目すべきかといえば、皇室に最も近くでお仕えした宮内庁長官経験者が、皇位継承問題に対する政治の取り組みが実際に進んでいる時期に、このように踏み込んだ発言をすることは、異例だからです。それほど、羽毛田氏の危機感は深刻だということでしょう。
しかも羽毛田氏は平成時代に、上皇陛下、天皇陛下、秋篠宮殿下のお三方によるいわゆる“三者会談”がスタートした時点での長官です(平成24年=2012=春から開始)。その後、長官を離れていますが、退任後も長く天皇陛下のご相談にあたる宮内庁参与を務めていました。ですから、三者会談の内容については当然、承知すべき立場でした。
三者会談の最大のテーマは、皇位継承のあり方に対するお三方の基本的な合意を図ることだったと、拝察できます。その年の2月に上皇陛下が心臓の冠動脈バイパス手術を受けられ、皇室の行く末へのご懸念がより深まったと想像できるタイミングでした。当時は野田佳彦内閣による、皇室制度に関する有識者ヒアリングの取り組みも行われていました。
《三者会談は(上皇)陛下のご意向を察しられた皇后(今の上皇后)陛下のご示唆があり、陛下が「それはいい」ということで始まった》と言います(羽毛田氏『文藝春秋』平成31年1月号)。御所にお三方だけが集まられ、それに宮内庁長官も陪席するという形でした。
「女系」は合意事項と考えるのが自然
もちろん、今の制度では皇室典範の改正は政府・国会が対処すべき政治案件であって、ご自身にかかわる法律であるにもかかわらず、皇室の方々は直接タッチできません。しかし、政治の場における検討のプロセスにあって、当事者である皇室の方々のご意向に配慮すべきことは、当然です。
したがって、あらかじめ当事者としてお三方のお考えを調整しておかれることは、必要だったでしょう。そうであれば、この時の羽毛田氏の発言はお三方の合意事項を踏まえたものだった、と受け止めるのが自然ではないでしょうか。
ならば、「女系」という選択肢もお三方のお考えに含まれていると思われます。「皇室典範に関する有識者会議」の報告書にも、次のような指摘がありました(平成17年=2005=11月24日)。
皇室の方々におかれても、おそらくこの「判断」を共有しておられることと、拝察できます。この報告書が出されて以降、政府・国会においても、安定的な皇位継承を可能にする現実的、具体的な提案は、ほかには残念ながらいっさいなされていません。「皇室の伝統」に対する上皇陛下のお考えに照らしても、ここで示された結論に賛成しておられると見るべきです。
愛子さまが天皇になるべき理由
これまでの議論を再整理する意味で、敬宮(愛子内親王)殿下が将来の天皇になられるべき理由について、簡単にまとめておきましよう。
その「1の理由」は、「女性天皇」を排除している今の皇位継承ルールを維持していては、皇室そのものが存続できなくなる、ということです。
側室不在の「一夫一婦制」で、しかも“少子化”を食い止めることができない状況なのに、明治の皇室典範で初めて採用された「男系男子」限定という歴史上最も窮屈な縛りに、いつまでもしがみつくことはほとんど自殺行為と言わなければなりません。
だから皇室の存続を願うのであれば、そのような無理で無茶なルールを変更して、女性天皇、女系天皇を可能にする以外に、方法はないのです。
皇室の聖域性を損なう“禁じ手”
それでも古いルールにしがみつこうとすれば、いったいどうなるでしょうか。厳格であるべき皇室と国民の区別をあやふやにして、皇室の「聖域」性を損なう“禁じ手”のプランに逃げ込むしかなくなります。すでに国民になっているいわゆる旧宮家系子孫の男性を、「婚姻」という心情的、生命的な結合もなく養子縁組などの法的措置だけで、民間から皇族に迎え入れるというプランです。
これは万が一にも首尾よく(?)ことが運んだ場合、歴史上かつてない、“国民出身”の天皇を登場させることに道を開く愚挙です。広い意味では「皇統に属する男系の男子」であっても、歴史上の人物でいえばすでに臣下になった平将門や足利尊氏などを皇族に迎えて、その子孫が即位できるようにするに等しいでしょう。かの道鏡も皇胤(皇室の血を引く子孫)説がありました。もし道鏡が皇胤だったら、その子孫を天皇にしようというプランです。
皇統が断絶してしまう
もともとは皇室の血筋から分かれていても、親の代からすでに国民です。その子孫はもはや“国民の血筋”になっています。そうである以上、旧宮家系の天皇がもし将来に現れたら、そこで皇統は断絶し、国民の血筋による“新しい王朝”に交替します。
さらに、男系男子限定ルールのままであれば、やがて養子縁組の対象を旧宮家系子孫だけに限定することも限界にぶつかるでしょう。あるいは養親のなり手がいなくなれば、養子縁組という手順自体も限界に達するでしょう。そうすると、広い意味で「皇統に属する男系の男子」は旧宮家系のほかにも多く実在するので、次々と対象を広げて、しかも法律一本だけで皇族の身分を取得するという、乱暴このうえない最低な末路をたどることになりかねません。
こうなると皇室と国民の区別も、皇室の「聖域」性も、ほとんど顧みられなくなってしまうはずです。
油断できない危ういプラン
もともと「皇位の世襲」というのは、長年にわたって国民から信頼を集めてきた特定の血統=“厳密な意味での皇統”によってのみ天皇の地位は受け継がれるべきだ、という考え方に立脚しているはずです。しかし、その基礎を掘り崩す暴挙でしょう。
もっとも、自ら養子縁組などで皇籍取得に同意する国民男性が実際に現れたり、それを受け入れて「養親」になられる皇族が出てこられたりする場面は、リアルには想像しにくいでしょう。幸い、机上の空論に終わる可能性が高いので、おそらく最悪の事態は避けられるでしょう。しかし、油断できない危ういプランであることは否定できません。
天皇陛下にすでにお子さまがいらっしゃるのに「女性だから」除外して、民間人の子孫でも「男性だから」天皇にするというプランは、皇室の尊厳を重んじる立場とは考え方が逆立ちしていませんか。そもそも旧宮家養子縁組プランなどで、「国民と苦楽を共にする」という高貴な精神が、果たして正しく受け継がれるのでしょうか。普通に考えて民間で生まれ育った人物に、そのような精神を期待するのは至難でしょう。それで、真の「皇室の伝統」は守られるのでしょうか。
天皇は「国民統合の象徴」なのに
また、このプランは国民平等の理念に反して、国民の中から特定の家柄・血筋=門地の人たちだけが、ほかの国民には禁止されている皇族との養子縁組による皇籍取得が認められるという、明確な“差別”を持ち込むことになります。
そうすると、皇室の方々のお気持ちとはかかわりのない政治の判断による方策ですが、国民からは皇室の存在があたかも国民の中に不平等を持ち込む元凶のように見えてしまいかねない、という問題があります。それは結果的に、国民の皇室への素直な敬愛の気持ちを損なうおそれがあるのではないでしょうか。
なお、敬宮殿下が将来、もし即位されても、それで皇位継承の安定化が約束されるわけではない、という意見を見かけました。しかし、これは順序が逆です。これまでの男系男子限定という無理なルールを止めて、皇位継承の安定化を可能にするルールを確立すれば、その結果として直系優先の原則により、敬宮殿下が次の天皇として即位されることになる、という順序です。したがって、愛子天皇の登場は間違いなく安定的な皇位継承の指標となります。
天皇は「国民統合の象徴」
「2の理由」は、天皇という地位は「国民統合の象徴」である、ということです。代表するものと代表されるものの関係は同質です。それに対して、象徴するものとされるものの関係は異質である、という違いがあります。だから国民の代表ならば国民ですが、国民統合の象徴ならば“国民ではない”という関係になります。
しかし、そのように象徴する天皇、皇室と象徴される国民とが異質であっても、国民は男女によって構成されています。当たり前ながら国民の約半数は女性です。にもかかわらず、その半数を女性が占める国民の統合の象徴に“男性しかなれない”というルールは、いびつではありませんか。
もちろん、男性天皇でも男女を含む国民の統合を象徴することはできます。実際にこれまではそうでした。昭和天皇も上皇陛下も今上陛下も、皆さま男性です。しかし、それで象徴として何かが足りない、ということではありません。
しかし、個別の天皇の象徴性ということではなく、国民統合の象徴になれる方が男性だけに限られている“ルール”自体の妥当性には首をかしげます。やはり見直すべきではありませんか。
天皇に最も近い後継者がふさわしい
男女によって構成される国民統合の象徴から、あらかじめ女性だけが、ただ「女性だから」というだけの理由で排除される……というルールは、やがてそのルールを前提とした象徴という地位そのものの正当性(理にかなって正しい)にも、疑問を生じさせるのではないでしょうか。
そもそも男性天皇ならば国民統合の象徴になりえても、女性天皇では国民統合の象徴にはなりえないという、客観的な根拠があるのでしょうか。
天皇、皇后両陛下にお子さまがいらっしゃっても、そのお子さまが女性ならば国民統合の象徴にはなりえない、という理由がどこにあるのでしょうか。
天皇陛下のお子さまでも女性ならば国民統合の象徴になれないのに、民間に国民の子どもとして生まれ、たまたま養子縁組で皇族の仲間入りをしたら、もう「男性だから」国民統合の象徴にもなりえる。そんなルールは、果たして人々の納得を得ることができるでしょうか。
血縁が近く感化・薫陶を受けてきた方がふさわしい
「3の理由」は、天皇の後継者はやはり天皇との血縁が最も近く、おそばで長年にわたり感化・薫陶を受けてきた方が最もふさわしい、ということです。世襲の核心は、単なる血筋の継承ではなく、“精神の受け継ぎ”です。今の皇室の中でも、「国民と苦楽を共にする」という精神を、敬宮殿下以上に天皇、皇后両陛下から身近に学んでこられた皇族が、ほかにおられるでしょうか。
敬宮殿下こそまさに正統な(最もふさわしい)後継者というほかないでしょう。
「国民の総意」を軽視すべきではない
「4の理由」は、天皇という地位は「国民の総意」に基づくべきだ、ということです。
もちろん、政治家のように人気投票によって左右される軽い立場ではありません。たとえば、私たちはこれまでに首相にふさわしい政治家として、マスメディアなどで取り沙汰されるさまざまな名前を見てきました。田中眞紀子氏、舛添要一氏、橋下徹氏など。そのような人気の移ろいははかないものです。天皇という重い立場はそれらとは区別しなければなりません。
しかし一方で、国民の気持ちをまるで無視してよいかといえば、それも違います。皇室自体も、これまでの各種の世論調査で長年にわたり、高い支持を集めてきました。瞬間最大風速的な支持とは明らかに異なります。女性天皇についても同様です。長年にわたりコンスタントに7割、8割、9割といった高い支持が集まっています。これをまったく無視してよいかといえば、そうではないでしょう。とくに近年の女性天皇への高い支持は、敬宮殿下への共感によるところが大きいでしょう。
もともと「天皇は男子」という考え方自体が、今の皇室典範が制定された当時の「国民感情」による、というのが政府の説明の仕方でした(昭和41年=1966=3月18日、衆院内閣委員会での関道雄・内閣法制局第一部長の答弁ほか)。
いつまでも男尊女卑的な感覚にとらわれて、思考停止を続けているひと握りの人々への過剰な配慮から、圧倒的多数の国民の願いに背を向け続けていては、天皇、皇室を支える国民的な基盤を危うくする結果になりかねないでしょう。
ジェンダー平等という価値観
「5の理由」は、現代の普遍的な価値観です。さきに秋篠宮家が「ジェンダー平等」という価値観を大切にしておられる事実を紹介しました。このジェンダー平等は、まさに現代における普遍的な価値観ではないでしょうか。
長年の歳月の中で、多くの人々にゆるやかに受け入れられてきた男らしさ、女らしさを短絡的に否定するということではありません。与件としてある生物的な男女の性別とは区別される、文化的・社会的に形づくられた性差を根拠とした不当な差別はあってはならない、という考え方です。このジェンダー平等という理念に照らして、天皇陛下のお子さまが「女性だから」というだけの理由から、皇位継承資格を否定されるというルールは、とても支持できないのではないでしょうか。
もちろん天皇、皇室については、憲法が保障する「国民の権利」の枠外にあると考えられています。しかし、それはあくまでも「世襲制」「象徴制」という憲法が設けた制度上の要請のほうが、より優先されるという話です。やみくもに例外扱いが認められるということではありません。
天皇、皇室への“別枠扱い”について、憲法学者の佐藤幸治氏は次のように限界づけています。
《それが世襲の象徴天皇制を維持するうえで最小限必要なもの(に限る)》(『日本国憲法論』)と。
ところが、皇位継承資格を男系男子に限定するというルールは、これまで述べてきたように、逆に憲法が設けた「世襲制」を至難にしてしまいます。さらに、先にも述べたように「象徴制」とも齟齬するおそれがあります。
そうであれば当然、ジェンダー平等という普遍的な価値観が優先されるべきでしょう。
以上、ここに掲げた5つの理由によって、次代の天皇が敬宮殿下であられるべきことに、疑問の余地はないでしょう。