※本稿は、高森明勅『愛子さま 女性天皇への道』(講談社)の一部を再編集したものです。
4歳で見せた周囲への心遣い
敬宮殿下が未来の天皇にふさわしい資質を持っておられることを示すエピソードとして、4歳の頃のご様子について、紹介します。
天皇陛下の平成18年(2006)のお誕生日に際しての記者会見から(当時は皇太子)。
「私たちや周囲への心遣いもかいま見ることがあります。雅子が昨年の12月の誕生日の夕方に風邪で寝込んだ時も、その前に自分が風邪をひいたときによくしてもらったので、という意味のことを言って雅子の寝室にバースデーケーキを持って見舞いに行ったり、『こどもの城』(国立総合児童センター、東京都渋谷区にあったが平成27年に閉館)で、年下のお子さんに『愛ちゃんができないときにだれだれちゃんがしてくれたから』と言いながら手を貸したりすることがあるようです」
「今年の元旦に御所に上がる折に、門の所で一般の方や記者の皆さんが立っているのを見て『みんな寒い所に立っているからわんちゃんの手を振ってあげるの』と言っていたようです」(※当時は愛犬の「ピッピ」と「まり」を飼っておられた)
ちなみに、皇后陛下(当時は皇太子妃)が「適応障害」と発表されたのは、この2年ほど前のことでした(平成16年=2004=7月)。その事実を念頭におくと、敬宮殿下が寝室にバースデーケーキを持って見舞いに行かれるような優しさは、お辛い日々を送られる皇后陛下にとって、大きな心の安らぎだったのではないでしょうか。
天皇、皇后両陛下の「癒やし」に
敬宮殿下が4歳だった平成18年(2006)の歌会始のお題は「笑み」でした。天皇、皇后両陛下は次のような和歌を詠んでおられました。
いとけなき 吾子の笑まひに いやされつ
子らの安けき 世をねがふなり
皇后陛下
輪の中の ひとり笑へば またひとり
幼なの笑ひ ひろがりてゆく
当時の天皇、皇后両陛下は、大きな逆風のただ中にいらっしゃいました。天皇陛下は、ご結婚の時の「一生全力でお守りしますから」というお約束の通り、厳しい立場に追い詰められていた皇后陛下をお守りするために、懸命に困難に立ち向かっておられました。
ご懐妊に向けた治療の末に、やっと敬宮殿下がお生まれになった後も、ひたすら「男子」出産を求めてプレッシャーをかける宮内庁サイドの動きが続いていました。それに対して、天皇陛下はギリギリの反撃を試みられました。記者会見の場で「雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」という衝撃的な発言をされたのです(平成16年=2004=5月10日)。
このご発言によって、ようやく皇后陛下の治療環境が整うことになる一方、ご発言への反発もさまざまな形で広がっていました。そうした険しい日々の中で、敬宮殿下のご存在は両陛下にとって、かけがえのない“癒やし”だったことが、先に掲げさせていただいた和歌からも察することができます。天皇陛下の御製は「吾子」の笑顔に癒やされる、というミクロな私的場面から、一気に「子らの安けき 世をねがふなり」というマクロな公共的願いへと拡大しています。
わが国における究極の「公」の体現者と言うべき“天皇”の立場にふさわしい作品でした。
愛子さまの養育方針
では、政治の無策が原因で、いずれ是正されるべき皇位継承ルールに手がつけられないまま放置され、敬宮殿下の未来が引き裂かれている宙ぶらりんな状態の中で、天皇陛下はご養育にあたりどのような方針で臨まれたのでしょうか。
これについても、天皇陛下のご発言があります。まず敬宮殿下がお生まれになった直後のお誕生日に際しての記者会見で、「愛子」というお名前と「敬宮」というご称号について、以下のように述べておられました(平成14年=2002=2月20日)。
「敬宮愛子」という名前に込められた願い
皇室では直系のお子さまにはお名前のほかにご称号が定められます。敬宮殿下の場合、お名前が「愛子」、ご称号は「敬宮」でした。高貴な方のご本名を直接お呼びするのをはばかる気配りに由来します。傍系の宮家のお子さまの場合は、たとえば秋篠宮家の場合でもお子さま方は皆さま、ご称号をお持ちではありません。私自身は、敬宮殿下が唯一の直系の皇女でいらっしゃるという皇室での位置づけを重んじて、「敬宮」殿下とご称号でお呼びすることが多いです。
前にも少し触れたように、世間では「愛子さま」とご本名でお呼びするのを多く見かけます。それも敬愛の気持ちでお呼びしているのですから、もちろん、とくに目くじらを立てるようなことではありません。念のために『孟子』の関連箇所を紹介しておきます(「離婁章句 下」)。
天皇、皇后両陛下の敬宮殿下のご養育についての基本的な考え方は、このお名前とご称号それ自体に込められていたはずです。しかも敬宮殿下はその両陛下の「願い」に沿って、ご立派な成長をとげられているように見えます。
「人を愛し、そして人からも愛される人間に」
さらに天皇陛下が「どのような立場に将来なるにせよ」とお答えになった同じ記者会見(平成17年=2005)で、一篇の詩を紹介されています。
「愛子の名前のとおり、人を愛し、そして人からも愛される人間に育ってほしいと思います。それには、私たちが愛情を込めて育ててあげることが大切です」とおっしゃって、アメリカの家庭教育学者のドロシー・ロー・ノルト(ホルト)の詩を取り上げられたのでした。これも見逃せないので、ここに一部だけ引用させていただきます。
敬宮殿下はこれまでに数多くお辛い経験もしてこられました。何より、母宮の皇后陛下が皇太子妃だった平成時代には、事実無根の記事が週刊誌などに氾濫し、理不尽なバッシングにさらされていました。皇后陛下は今も全快されておらず、ご療養は続いています。敬宮殿下にとってそれがどれほど悲しいご経験だったか、想像するにあまりあります。ご自身の不登校とか、痛々しいほどお痩せになられた時期も、ありました。
悲しみを輝きに変える
しかし「ご成年に当たってのご感想」(令和3年=2021=12月1日)では、そうした歳月を以下のように振り返っておられました。
普通、20歳になったばかりの若い女性が、自分の半生を振り返って「色濃い歳月」などと表現することが、どれほどあるでしょうか。しかも殿下は「多くの学びに恵まれた」とまで言い切っておられます。多くの苦しみ悲しみを「学び」として受け止め、それらを成長の糧として、自らの輝きに変えてしまわれる強さを、敬宮殿下はお持ちなのでしょう。
多くの国民に感銘を与えた、ご成年を迎えられた際の品格高く明るくユーモアに富んだ記者会見も、お辛かった日々を乗り越えられたうえでの、輝きでした。その“輝き”の源泉は何でしょうか。ご両親がそそがれたあふれるばかりの愛情でしょう。そのご両親から受け取った愛情の豊かさゆえに、悲しみさえも輝きに変えるお力を身につけられたに違いありません。
三笠宮信子妃殿下が詠まれた和歌
敬宮殿下はまさにそのようにして、「敬」と「愛」の二文字に最もふさわしい皇族へと、成長されました。
敬宮殿下がご成年を迎えられた翌年(令和4年=2022)の歌会始で、三笠宮家の信子妃殿下が次のような和歌を詠んでおられました。このときのお題は「窓」でした。
ここに出てくる「姫宮」は、もちろん敬宮殿下です。
「ご成年を迎えられた敬宮殿下が、お車で颯爽と大学に通っておられるお姿を窓越しに拝見すると、眩しく輝いておられるように見える」――。
そのような意味でしょう。信子妃殿下は「ご幼少時より敬宮殿下に深い敬意と愛情を持って見守ってこられ」たといいます(宮内庁の和歌解説より)。結句の「姿まぶしむ」に、その敬愛のお気持ちが奥ゆかしく詠み込まれていました。
天皇陛下の後継者は、その血縁とお人柄において、敬宮殿下以上にふさわしい方は、思い浮かばないのではないでしょうか。
ところが今の皇位継承ルールでは、ただ「女性だから」というだけの理由で、敬宮殿下は即位できません。それどころか、ご結婚とともに皇族の身分を離れなければならない、というルールです。