東京・表参道にある中華風家庭料理店「ふーみん」。創業者の斉風瑞さんは、美容師になる道を諦め、25歳で前身となる店を持った。8坪足らずの半地下の店には、昭和を彩る大スターを始め、近隣で生活する人々が押し寄せ、15年で3倍もの広さの店になる。「後ろを振り向く暇もないほど」の忙しさが続くほど、支持を得たのはなぜだったのか。

常連客のつぶやきが名物メニューになった

風瑞ふうみさんと客の関係でもうひとつ興味深いのは、客が口にした料理のアイデアを積極的にメニューに取り入れてしまうことである。職人気質の料理人だったら「二度と来るな」と怒り出すような場面で、むしろ斉さんは「これはヒントになる」と客の言葉に聞き耳を立てていたというのだ。

象徴的なのが、現在も「ふーみん」の名物料理のひとつである「ねぎワンタン」誕生のエピソードだ。常連客のひとりだった和田誠(「週刊文春」の表紙画を描いた、日本を代表するイラストレーター)が「ねぎそば」を食べていて、「ねぎそばのそばを、ワンタンに替えたらどう?」とつぶやいたのが、事の始まり。

ねぎそばは、斉さんが高校生の時、ルーツである台湾を初めて訪れて食べた「葱油鶏ソンユーチー」をベースにした、ふーみんの看板料理のひとつである。和田はその看板料理の麺を、ワンタンに変えてみてはどうかと提案したのである。

【斉】25歳で自分のお店を持ったでしょう。純然たる中国料理に精通していたわけでもないし、料理の本を読んだことすらなくて、わが家で食べていたものをメニューにするところから始まっているんですね。だから、引き出しがとても少なくて、少しでもヒントになると思ったら耳をダンボにして聞いていたんです。ふーみんのメニューって、映画にも出ていたように、お客様との会話から出来たものが多いんです。

神宮前の店は「中華風スナック ふーみん」であり、骨董通りの店は「中華風家庭料理 ふーみん」。いずれも「風」がついている。そこには、斉さんが料理学校や中国料理の名店で本格中華を学んだ経験がなく、あくまでも家庭料理の延長でやっているという意味が込められている。

賭け事が好きだった父親は、思いがけない形で斉さんに大きな財産を残すことになったわけだが、「風」だからこそ、さまざまなアイデアを取り入れながらメニューをブラッシュアップしていくことが可能だったのかもしれない。

【斉】私ね、人の真似をするのがうまいんですよ(笑)。

斉風瑞さん
撮影=工藤睦子
25歳の若さで店を持った斉風瑞さん。それまで料理本を読んだこともなければ、食べ歩きをしたこともなかったという

「婚約者の両親に提供する気持ち」で400人の客をさばく

1986年5月、斉さんは40歳にして、南青山骨董通りにある小原流会館の地階に店舗を移した。店舗の面積は神宮前時代の約3倍。席数はカウンターとテーブルを合わせて41席ある。

骨董通りの「ふーみん」もたちまち人気店となって、ランチには大行列ができるのが通例になった。ランチで300人、ディナーで100人の客をさばいたというから、厨房は目の回るような忙しさだった。

【斉】(客席が見渡せるオープンキッチンなのに)後ろを振り向く暇もないほど忙しかったですね。 

「本格中華」の経験だけではつくれない味

何人かの料理人を雇うことになったが、斉さんはその人選にこだわった。斉さんが譲らなかったのは、週に2、3日入れる人ではなく、営業日すべてに入れる人でなければ採用しないということだった。当時すでに、他店とかけもちで仕事をする料理人が多くなっていたが、斉さんはかけもちを許容できなかった。

【斉】私に世の中の流れを読む力がなかったのかもしれませんが、とにかくツーカーで仕事ができる、打てば響くような仕事をしたかったの。その点だけは、結構頑固にやっていました。だから、年じゅう人がやめてしまったりで、人の苦労は絶えませんでしたね。

もうひとつ、人の面で苦労したことがあると斉さんは言う。それは「本格中華」を学んできた料理人の存在だ。

【斉】一時期、きちんと中国料理の経験を積んできた人を料理長のような待遇で雇ったことがあるんです。そうしたら、「このやり方は本当はこうなんだ」「このやり方は間違ってる」なんてことを散々言われて、とても悩んでしまったことがあるの。やはり、ど素人から始めた私と、きちんと経験を積んできた人ではぜんぜん違ったんでしょうね。そうしたらある日、店の外から「ふーみんは味が変わってしまった」という声が聞こえてきたんです。そういうことがあって、むしろ、自分の味は自分の味でいいんだと思うようになった面もありますね。

さらに斉さんは、厨房のスタッフに、「婚約者の両親に料理を出すような気持ちで、1皿1皿愛情をこめて作る」ことを求めた。しかし、それほどの思いを込めながら1日に400人もの客をさばくのは、斉さん自身にもとても難しいことだった。

【斉】よくいらっしゃるお客様で、ランチの時間帯に「お任せ」をオーダーなさる方がいたんです。ランチの注文がどんどん入るなか、そのお客様ひとりのためにランチ以外の料理を考えなくてはならないのは、もう……。恐怖心みたいなものすら感じました。

2016年、70歳を機に、斉さんは「ふーみん」の経営を甥の瀧澤一喜に託して、勇退することを決意する。瀧澤は料理ができないが、料理長の白井次男はそれこそツーカーの存在。斉さんが作り上げたオリジナルのメニューを完璧に再現することができた。だから、ふーみんの味は現在も変わることなく、骨董通りの人々に愛され続けている。

それにしても、ランチに大行列のできる人気店を去るのは寂しくなかっただろうか。

【斉】原点に帰りたかったんです。

「美味しい」を直接受け取りたい

2021年、斉さんは川崎市高津区の小高い丘の上にあるビンテージマンションの一室でレストランをオープンする。その名も「斉」。営業日は週に2日しかなく、しかも、1日に1組の客しかとらない。

大きなスワッグが飾られた「斉」のドアを開くと、正面の大きな窓の向こうに木々の緑が鮮やかな、静謐な空間が広がっていた。レストランというよりは、小さなギャラリーといった趣である。

【斉】私、やっぱりお客様から美味しいって言われたい、美味しいって言ってほしいという気持ちが根強くあるんでしょうね。

ふーみんのランチタイムは、それどころではない戦場だったのだ。

激務から解放されて、斉さんはいま、新しい料理を考案することに夢中になっている。「メゾンナルカミ」のオーナーシェフ・鳴神正量まさかずのフレンチ教室にも通って、鳴神からさまざまアイデアを吸収して斉のメニューに生かしている。鳴神は和とフレンチを融合させた「フレンチジャポネーゼ」の創始者として知られる。

【斉】私、フレンチは作らないんですけれど、鳴神さんはすごくたくさん引き出しを持っている方なんで、あっ、これもらっちゃおう、いただき! って(笑)。人の真似をしているんだから考案というほどのものではないんですが、楽しい、とても楽しいですね。こないだもね、3色弁当を100食つくる機会があったんだけど、これまでの3色弁当に入っていた炒り卵っておいしくないのよね。そうしたら、ひらめいたのよ!

新しい料理について語る斉さんはとても生き生きしていて、過去について語る時とは打って変わって饒舌だ。

再度、なぜ人は、斉さんの料理を食べるとほっとするのか?

「ど素人から始めた」「人の真似がうまい」「美味しいって言われたい」。いくつかのキーワードが浮かぶのだが、うまく焦点を結ばない。やはり、ふーみんの料理を一度食べてみないことには、答えは出てこないのかもしれない。

ニンニクと斉さん
撮影=工藤睦子
ニンニクは、斉さんの料理のトレードマーク。取材の日に届いたニンニクは、醤油に漬けて調味料として使うと教えてくれた

こうでなければならないという縛りがない

9月某日、南青山骨董通りにある「ふーみん」を目指した。ランチのラストオーダーは3時。2時に地下鉄を降りたから余裕で着くだろうと思っていたら、なんと降りる駅を間違えてしまった。表参道で降りるべきだったのに、青山一丁目で降りてしまったことに歩き出してから気がついた。

青山一丁目駅から骨董通りにたどり着くには、広大な青山霊園を横断する必要がある。猛烈な残暑の中、汗だくになりながら青山の街を歩いていると、思わぬところでこぢんまりとしたブティックやアート・ギャラリーに遭遇した。

ようやく小原流会館にたどり着いたのが、ラストオーダー直前の2時50分。目当ての「豚肉の梅干し煮定食」はすでに完売しており、仕方なく第2候補の「茄子のニンニク炒め」を単品で注文する。

運ばれてきたのは、一見、なんの変哲もない炒め物だ。大ぶりの乱切りにした茄子に、丸のままのニンニクがゴロゴロ入っている。味は甘辛く、純然たる中国料理というよりは和風にアレンジした中華といったところだろうか。ギリギリ3時に間に合ったという安堵感も手伝ってか、たしかに「ほっとする味」である。

しかし、食べ進むうちに、この一皿には比類のない革新性が込められていることに、うっすらと気がついてきた。味はまろやかだし、珍しい食材や調味料を使っているわけでもないが、少なくとも筆者はこんな中国料理をこれまで一度も食べたことがなかった。丸のままのニンニクは形が崩れる寸前の柔らかさで、口に含んだだけでとろけてしまう。

奇を衒った創作料理ではなく、平凡に見えるけれど、実は強烈に独創的なのだ。

ようやく謎が解けた気がした。

ふーみんの料理には、中国料理はこうでなければならないという縛りがない。自由なのだ。客は斉さんの料理を通して自由を堪能し、心を解き放たれる。おそらくそれが、「ほっとする」の正体である。

1970年代初頭、キラー通りに集っていた若きクリエイターたちがふーみんの料理を愛したのも、斉さんの料理に自分たちと同じ革新性を感じ取ったからだろう。

帰路、思い思いのファッションに身を包んだ人々が闊歩する骨董通りを歩きながら、そうか、「斉」は斉さんのギャラリーなんだ、料理は彼女の作品なんだ、斉さんは80歳を目前にして新しい作品を創造し続けているんだ、などとひとりで合点していたら、なぜか生きる意欲がふつふつと湧いてくるのを感じた。自分も何か新しいことがやりたいと……。

斉さんの料理には、そんな力がある。