「病魔は三淵さんの命を奪った」と慟哭したライアンのモデル
病魔はついに三淵さんの命を奪った。骨がんの激痛に苦しみながら、どうしても生きなければならないと、堪えに堪えた挙句に……。しかも、夫君乾太郎君も健康を害して、入退院を繰り返していた。その夫君のためにも、愛するお子さんたちのためにも、三淵さんは、どんなに生きていたかったことであろう」
1984年、ドラマ「虎に翼」(NHK)のヒロインのモデル・三淵嘉子さんが亡くなったとき、130人もの法曹関係者や友人知人、遺族が追悼文を寄せ編まれた本『追想のひと三淵嘉子』(三淵嘉子さん追想文集刊行会)。現在は国会図書館などで閲覧できるが、そこに載せられた文章の中でも、最も悲哀に満ちた書き出しで故人への想いを綴ったのは、東京家庭裁判所の所長だった内藤頼博さんだ。そう、「虎に翼」ではライアンこと久藤頼安(沢村一樹)のモデルになったと思われる元子爵の“殿様判事”である。嘉子さんとは公私にわたる長年の付き合いがあり、東京家裁所長時代は直接の上司に。そして、この追悼文集の発起人にもなった。
嘉子さんは、女性初の高等試験司法科(現在の司法試験)合格者、女性初の弁護士、女性初の判事であり裁判所長という、法曹界における「ファースト・オブ・エブリシング」(弁護士・鍛冶千鶴子さんの弔電の言葉)だった。男女格差が激しく、働く女性がなかなか理解されない時代に前人未踏の輝かしいキャリアを築き、横浜家庭裁判所所長として裁判官のキャリアを終え、65歳で退官した。しかし、そのわずか4年後、帰らぬ人に。70歳まで届かなかった人生を、元同僚や友人知人は惜しんだ。
裁判所長として退官後、わずか4年、69歳で帰らぬ人に
骨がん、つまり骨肉腫だと判明してから、1年余り。激しい痛みを伴う闘病生活は過酷だったようだ。夫・三淵乾太郎さんの次女と結婚した森岡茂さんは、こう書いている。
しかし、あるかなきかの小さな癌だったのに、抗癌剤の投与も効なく、病状が悪化するにつれ、義母は苛立ち始め、医師ともしばしば衝突したし、病院の食事が不味いと言っては、食事を届けさせるなどのことも度々あった。
そうした心の不安定を示す時期がかなり続いた頃、義母の枕頭にカトリックのロザリオが置かれるようになった。それは、那珂さん(乾太郎さんの長女)が、神父さんにお祈りしていただいた上でわざわざ贈ったものであるが、義母は、単に好意を無にしては失礼になるからという気持だけではなく、むしろ、ある程度積極的に、それにすがってでも回復したいという気持ちをもつようになっていたためでもあったようである。奈都(次女)も、義母がロザリオを手に握りしめているのを見かけたという」
実弟は「今まで信ずるはずもないものを信じようとした姉」
これは身内にしか書けないリアルなエピソードだ。嘉子さんの実弟である武藤輝彦さんは「ガンと判ってから、もっともっと積極的な治療を本人は望んでいたのではないかと思います。とにかく今まで信ずるはずもないものを信じようとした姉」と振り返っている。嘉子さんは最初に判事として名古屋地裁に赴任したとき、ある人からしつこく宗教に勧誘され、「入信しなければ、(当時小学生だったひとり息子の)芳武くんにまで累が及ぶ」と脅されたことに懲りて、それ以来、宗教を遠ざけてきたというが、不治の病となって「神にもすがりたい」気持ちになったのだろう。
しかし、宗教ではなく、法律家として「法」の論理で動いてきた嘉子さん。最期にはその葛藤を乗り越えたのか、病院のベッドで息絶えた瞬間、「ロザリオは枕頭にはなかった。そして、義母の葬儀は無宗教式で行われた」と茂さんは書いている。
そうして家族には病気になってしまった悔しさや悲しさ、心の弱さを見せていたが、一方で、裁判所の元同僚たちなど、仕事上で知り合った人たちには、見舞いの電話や手紙をもらっても冷静な余裕ある態度で接し、心配をかけないようにしていたと、多くの人が証言している。
ぽっちゃりめで愛らしく、裁判所のマドンナ的存在だった
私たちはついドラマの寅子と実在した嘉子さんのイメージを重ねてしまうが、実際にはどんな印象の人だったのだろうか。『追想のひと三淵嘉子』では、嘉子さんの容姿はこう表現されている。
「丸ぽちゃの顔」「まあるいお顔に可愛らしいエクボ」「眉毛の濃いキリッとした、それでいて福々しいお顔」「色白」「ふくよかな体」「たっぷりと豊かなお姿」という言葉で形容されるように、少しぽっちゃりとした健康的な外見だったようだ。嘉子さん本人も「私、太っているから」と明るく言うこともあった。
その言動や態度についても、「生き生き」「はつらつとして」「大きい声で高笑いする」「例の闊達な調子でカラカラお笑いになり」と綴られている。体格といい、エネルギッシュな様子といい、病気とは無縁の存在のように見えていたようだ。それだけに、がんの闘病に入って1年余りで亡くなったことに落差があり、周囲はショックを受けたのだろう。
上記のような言葉に加え、男性も含め多くの人から「まことふくよかで、美しい」「きれいで魅力的」「においたつような美しさがあり」「童女のように愛らしい」女性だったとも書かれている。その人間的魅力あふれる姿から、裁判所ではマドンナ的存在でもあったらしい。自身も「英国紳士風の美男子」と言われた裁判官の乾太郎さんが、嘉子さんと再婚する前、「あの和田君(嘉子さんの最初の結婚後の姓)が僕のところなんか来てくれるもんですか」と自信なさげだったというのも、納得できる。
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明るく人間的魅力にあふれ、情熱的なトークで周囲を魅了
嘉子さんが明治大学法学部で講師として民法のゼミを受け持っていたとき、ゼミ生だった長沢幸子さんは、こう書いている。
原告、被告、弁護士、調査官などと話し合いを重ね、裁判では判決を言い渡す役割の裁判官だけに、話し方はうまく、説得力があったと多くの人が証言している。
「彼女の論説は、相当シリアスでありながら、それが少しもギスギスせず、和やかに聞こえる」
「満面に笑みを浮かべながら、一人一人に語りかける様にして、美しいお声で話される」
「甘くて張りのあるよく通る声でなさる発言は、例外なく満座の注目を集めた」
後妻に「家なんか返してあげなさい。私も再婚よ」と説得
中でも具体的で面白いのは、嘉子さんの浦和家庭裁判所所長時代のこととして、調停委員だった土肥重子さんが明かしたエピソードだ。
その時、三淵さんが、サッサッと入って来られた。三淵さんは婦人の前にすわり『あなた、再婚でしょ? 私も再婚よ――いいじゃないの。家なんか。返してあげなさいよ。私、再婚だから、あなたの気持分かるの』
といって、ジッと婦人の目を見た。
調停はこの一言で決着の糸口がついた。あの呼吸は、誰にも真似が出来ない。男性にはもちろん出来ない」
嘉子さんは家庭裁判所の判事を長く務め、ライフワークとした少年事件だけでなく、ドラマの前半で描かれたような離婚や愛人問題、遺産相続問題も多く扱っていた。女性の後輩の判事には「男女のドロドロした事件は苦手。それに比べて、少年はかわいいわ」とこぼしていたが、自身も二度結婚し、血のつながらない子どもたちの親になるなど、人生経験は豊富だっただけに、適任だったようだ。
三淵嘉子は尊属殺事件に似た事件も担当していた
この事件が「虎に翼」の展開の基になったのでは? というエピソードもいつくか紹介されている。冒頭の内藤頼博さんが明かしたのは、ドラマ終盤で展開した「尊属殺事件」に酷似した事件ついて、嘉子さんが涙していたという話だ。
その審判とは「親殺し」であり、実の父親に肉体関係を強要されていた少女が、ようやく得た恋人との結婚を妨害されて、思いあまって実父を殺してしまったという事件だという。実の父に娘が性虐待される、恋人との結婚を妨害されるという点が、昭和43年に起きた栃木県の「尊属殺事件」と共通している。
「三淵さんは、親殺しにまで追い詰められた少女の心情のあわれを、涙なしに聞くことはできなかったのである」と内藤さんは書く。
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続けて「三淵さんの少年部における活躍は目ざましかった。少年審判という制度も、三淵さんによって命を吹き込まれた」と書かれているように、さまざまな罪を犯し家庭裁判所に連行された少年たちと面談し、更生するように導くことにやりがいを感じていたようだ。
非行少年たちを更生させることがライフワークだった
嘉子さん自らこう綴っている。
「私が扱いました少年事件の中には、殺人事件もありましたし、強盗事件もあったし、悪質な事件も沢山ありましたが、どんな事件でも、少年と一対一になって裁判をする際には、少年の中にある純粋な人間的な心が感じられて、私は、この少年は今は悪くても、大丈夫必ず良くなる可能性はあると信じて頑張ってきました」
(初出『世論時報』昭和58年6月号)
「私の長い少年審判官生活を通じて、到底改善の見込がなく、生来の犯罪人ではなかろうかと絶望的な思いで見送った少年は二人か三人に過ぎません。その他の少年達はどんなに非行性が進んでいるように見えても、何かのきっかけがあれば或いは立直るのではないかという希望を捨てませんでした」
(初出『別冊判例タイムズ』昭和54年12月号)
こういった自筆の文章からは、「虎に翼」でサイコパス的な頭脳犯として描かれた少女・美佐江(片岡凜)を連想できる。ドラマ最終話まで美佐江とその娘のケースが描かれたのも、嘉子さんが少年事件に情熱を傾けたことを表現したかったのかもしれない。
「少年事件は、私の生きがいでした」と記し、そう言い切った嘉子さん。再婚して優しい夫と家族にも恵まれた。亡くなる直前、お茶の水の東京女子高等師範学校付属高校時代からの親友である平野露子さんに送った手紙にはこう書いてあったという。
平野さんは、こう続ける。