68歳で骨がんが見つかり、裁判所の仲間はショックを受ける
嘉子さんが病に倒れたという知らせは、法務省・裁判所の仕事仲間をはじめ、女学校時代からの友人たちなど嘉子さんを慕う人たちに衝撃を与えます。
嘉子さんを見舞いに病院に来てくれた人に、嘉子さんが「がんなの」と率直に伝えると、聞いた人のほうがショックを受けてしまったため、それからは「悪性なの」としか伝えないことにしました。
労働省にいた高橋久子さんがお見舞いに行った際には、嘉子さんが座長を務める「婦人少年問題審議会」でなかなか意見の一致が見られないことを新聞で知っていた嘉子さんが案じていたといいます。
「私は若いころ“(エネルギーの)エネ子さん”と呼ばれるほど元気者だったの。今まで休みなく働いてきたから、今はよい休養だと思っているの。しばらく休んだら、また元気になって、やるわ」
と言った嘉子さんでしたが、病状はますます悪化していました。
前向きに闘病したが悪化し、全身に強い痛み
嘉子さんは9月にいったん退院しましたが、嘉子さんと入れ替わるように今度は乾太郎さんが入院することに。退院した嘉子さんも自力で歩行することが困難になって車椅子生活になってしまい、結局12月には再入院。
骨がんは鋭い痛みが特徴で、嘉子さんも年が明けると腰や背中、胸、首と全身の痛みに苦しめられるようになりました。
そして、昭和59年5月28日夕刻、付き添いの家政婦さんから嘉子さんの危篤を知らされた家族は、急いで国立医療センターに駆け付けます。
乾太郎さんの次女・奈都さんとその夫が病室に到着したときには、数人の医師と看護師が嘉子さんに人工呼吸を行っていました。
「義母(嘉子)の体は大きく波打ち、そのありさまは激しい波に打たれて難破する小舟のようだった」と奈都さんの夫は語っています。奈都さんは「とても見ていられない」と言い席をはずしてしまいました。
医師は奈都さんの夫に、もう絶望だと告げ「人工呼吸を止めてよいか」と尋ねました。嘉子さんの苦しそうな様子は見ているだけでつらかったものの、彼は「息子(実子)の芳武君が来るまで続けてほしい」と要望しました。
ひとり息子の芳武さんは死に目に会え、軍歌で送り出した
まもなく芳武さんが病室に到着し、最後の対面を終えると、医師は人工呼吸を止めました。そして、嘉子さんは静かに息を引き取りました。
先ほどの修羅場がまるでうそのように、静かな死に顔だったといいます。69歳でした。
そのとき芳武さんは突然、嘉子さんの髪をゆっくりとなでながら、低く小さな声で「ここはお国を何百里……」と「戦友」を歌い出しました。
子どものころ、母の背や母に手を引かれての散歩中に、何度も何度も聞いた「戦友」。「母の戦いは終わったんだ」と思ったとき、ほとんど無意識に歌いはじめたといいます。嘉子さんへの芳武さんの尽きない想いをのせたその歌声は、もの悲しく、かすれながら、いつまでも続きました。
葬儀には2000人が集まり、再婚した夫も後を追うように…
昭和59年6月23日。三淵嘉子さんの葬儀と告別式が、束京・青山葬儀所で行われました。
2000人もの人が参列し、嘉子さんとの別れを惜しみました。
棺の中の嘉子さんは「真っ白なたくさんの花に埋もれていて、すさまじい闘病の苦しみもなく、安らかに、まるで少女のときの面影さえあって涙があふれました」と、一緒に亀の背中に夫の名を書いておまじないをした、平野露子さんは語っています。
嘉子さんの没後、彼女の人生や仕事の功績について、多くの人が嘉子さんとの思い出とともに綴った『追想のひと三淵嘉子』という追悼文集が刊行されました。
ここには親族、学友、仕事仲間、退官後の公務等で嘉子さんに関わり、嘉子さんに惹きつけられた人たちが数多くの原稿を寄せています。
夫・乾太郎さんは嘉子さんが亡くなった翌年、彼女の後を追うように亡くなりました。女性裁判官のトップランナーとして走り続けた嘉子さんの足跡は、これからも色あせることなく残り続けることでしょう。
三淵嘉子の後輩である女性弁護士として今、思うこと
弁護士白書によれば、女性法曹の2021年での割合は、裁判官27.2%(男女総数2797人)、検事26.0%(男女総数1967人)、弁護士19.3%(男女総数4万3206人)とのことです。女性の割合は十分ではないものの、着実に増えてきました。
嘉子さんたちが法曹を目指した戦前には、女性には選挙権もなく、裁判官や検事などの公務員にもなれなかったことを思えば、かなりの進歩です。
しかし、この進歩は、何の努力もなく得られたものではありません。草分けの存在でもある、嘉子さん、中田正子さん、久米愛さんの3人の女性法曹と、それに続く女性法曹が、道を切り開いてくれたのです。特に、司法科試験に女性で初めて合格した、三淵・中田・久米の3人は、女性の権利について、さまざまなところで講演するなど、啓発活動を行ってきました。
父親をはじめ周囲の男性も女性が法律家になる道筋を作った
また、そこに続く道を敷いてくれた男性たちも、忘れてはなりません。東京帝国大学法学部の民法の教授・穂積重遠先生をはじめとする男性たちの熱心な努力のおかげで、「明治大学女子部」ができ、女性が法律を学ぶための道が開かれたのです。
嘉子さんにとっては、父・貞雄さんの存在も大きかったと思います。海外勤務もある貞雄さんが嘉子さんに明治大学女子部への進学を勧めたことが、嘉子さんにとっての転機だったことでしよう。
弁護士である私自身、父の勧めで法曹を目指しました。熊本市にいて、中学生だったころのことです。
当時、薬局を経営していた父は、ラジオで、熊本では女性初という弁護士さんが、交通事故相談をしていたのを聞きました。そして、「弁護士はいいぞ」と勧めてきたのです。
それが、私が弁護士を目指したきっかけであり、先輩弁護士や父の影響の大きさを感じます。
嘉子さんは、少女時代こそ裕福な家庭で不自由なく育ちましたが、第二次世界大戦中には幼子を抱えて疎開したり、終戦前後には実弟の戦死、夫の戦病死、実母と実父の病死など、さまざまな苦労もしています。
しかし、どんなことが起きても、弟や幼い子の生活を支えながら、懸命に走り続けました。
このバイタリティは、嘉子さんの生来のものもあったでしょうが、つらかった戦争時代を耐えてくぐり抜けた人が持つ強さの面もあったと思います。
戦後、日本が奇跡的な経済復興を遂げたのも、戦争時代を経験した人たちの頑張りによるものが大きいのではないでしょうか。
三淵嘉子は法律の仕事に情熱を注ぎ、実りある人生を送った
嘉子さんは、職員たちにもいろいろな気配りができ、周囲の人からとても慕われる裁判所長でした。また、家庭裁判所に送られてきた少年・少女たちへも愛情を注ぎ、気配りをしていました。日頃から注目され、一挙手一投足が見られる存在だったからということもありますが、嘉子さんが単に自意識が強いだけでなく、自己規律もできる女性だったということを示しています。
男性にとっても女性にとっても、仕事と家族と自分自身のために時間やエネルギーをどう使っていくかという問題は、その人の環境や人生観、人間関係に左右されます。
嘉子さんも幼い息子を弟夫婦に預けてアメリカへ行ったり、再婚した夫と別々で暮らしたりと、家族との時間は少なかったかもしれません。
人間に与えられている時間は限られており、すべてのことを100%できるということはありません。また、完全な存在でもありません。
しかし、実力を発揮できる仕事があり、それに熱意を注ぎ続けられたことは、嘉子さんにとって、実りある人生であったことでしょう。そしてそれが、社会的にも大きな貢献となったのです。
嘉子さんは死の前年に出した共著『女性法律家』(有斐閣)にこう書き残しています。
(中略)
私は生涯をかけて男性と対等に生き抜く仕事を志す女性に向っていつも信念をもって法曹の道に進まれることを勧めている」
NHKの連続テレビ小説「虎に翼」は終わりましたが、そのヒロインのモデルである嘉子さんの想いや苦悩や生き様は、ドラマを見た方たちの心に残り続けることでしょう。