昭和54年、横浜家庭裁判所長として65歳で定年退職
地方裁判所と家庭裁判所の裁判官は65歳が定年(停年)です。昭和54年の11月、嘉子さんはこの定年となりました。浦和家庭裁判所長から横浜家庭裁判所長になって、1年10カ月後のことでした。
嘉子さんの定年退職の日、横浜家庭裁判所には、調停委員や地域の有志など、たくさんの人が別れの挨拶にやって来たといいます。送別会にも多くの人が集まり盛大に行われました。古参の職員は、「こんなに大勢の方が所長のお別れを惜しむのは、初めてです。すベてが記録的です」と語りました。
嘉子さんの熱心な仕事ぶりといかに人徳があったかが、如実に表れています。学生時代から退官まで、嘉子さんの周りには人が集まり続けたのでした。
嘉子さんは退官の日の午前中まで、普段と変わらず裁判官としての仕事を務めました。
すべての仕事を終えると、青空の下、裁判所の職員たちと記念撮影を行いました。そのときの彼女は、えんじのべレー帽に紺のスーツ。
たくさんの人たちが、玄関で嘉子さんを見送りました。嘉子さんは目にいっぱい涙を浮かべて、乗用車の座席から、見送りの人たちに手を振り続けました。
見送りの人影が小さくなり、やがて見えなくなったとき、嘉子は深々と座席にもたれ、どんなことを思ったでしょうか。
10代の頃、父の助言で法律家を目指してからずっと、嘉子さんは闘い、働き続けてきました。これまでを思い、感慨にふけったのかもしれません。
惜しまれつつ去り、夫の乾太郎とオーストラリア旅行を
通常、裁判官を辞めてその後弁護士になる場合、辞める前に所属弁護士事務所を決めておくことが多いです。
しかし嘉子さんは、定年後のこうした準備を一切せず、定年の最後の日まで裁判官として全力で働きました。
私は日本初の女性法律家たちについて取材し、2013年に『華やぐ女たち 女性法曹のあけぼの』(復刻版は『三淵嘉子・中田正子・久米愛 日本初の女性法律家たち』日本評論社)を書いたとき、嘉子さんの息子である芳武さんに、嘉子さんが遺した日記を見せていただきました。
嘉子さんが唯一決めていたのは、退官記念に夫・乾太郎さんとオーストラリアを旅行すること。「この旅行をひとつのケジメにして、帰国後の生き方を決めていこうと思う」と嘉子さんは日記に書いています。
退官後の仕事は未定だったが、公職を次々にオファーされ活躍
退官後の身の振り方はまったくの白紙でしたが、嘉子さんを周囲は放っておきませんでした。
方々から声がかかり、嘉子さんはいくつかの公職を持って、在官時同様、忙しく活動していくことになります。
野に下って1カ月後の昭和54年12月から、労働省の男女平等問題専門家会議の座長に就任。この会議で嘉子さんがまとめた「雇用における男女平等の判断基準の考え方について」と題する報告は、その後制定される「男女雇用機会均等法」に生きることになります。
ほかにも、昭和54年6月には「日本婦人法律家協会」の会長、昭和55年1月には東京家庭裁判所の調停委員と参与員、同年5月には「東京少年友の会」の常任理事、さらに昭和56年10月「社団法人農山漁家生活改善研究会」理事、昭和57年8月に東京都の人事委員会委員、昭和58年7月には労働省の「婦人少年問題審議会」委員などを歴任。加えて昭和55年には、第二東京弁護会に弁護士として再登録もしています。
戦病死した最初の夫のことを37年後も忘れずに思っていた
退官後、嘉子さんは先に退官していた乾太郎さんと海外や国内に旅行をして、充実したリタイヤライフを送りました。
その一方で、退官後の嘉子さんの日記には、前夫・芳夫についても記しています。
そのひとつは、戦争が始まり、嘉子さんと同様に夫が召集された友人(平野露子さん)と一緒に、亀の甲羅に夫の名前を書いて放ったおまじないにまつわる出来事です。
亀を放ってから37年後の昭和56年3月23日の嘉子さんの日記です。
「裁判所の午後の調停に出勤する途中、日比谷の鶴の噴水のある池の端をブラブラ歩いていると、60歳を過ぎた男の人が私に話しかけてきた。
『あの亀は生きた亀ですか?』と。
池の水際に角が首を伸ばして、不動の姿勢でいる。反対側にも動かぬ亀がいる。いずれも相当、年を経た亀のようだ。
『生きていると思います。そういえば戦争中、徴兵逃れに亀の甲にその人の名を書いて、この池に放すといいということで、私も友人と一緒にここに来たことがあります』
私は平野露子さんと一緒におまじないをしに来たことを思い出して、老人に思わずそんなことを話してしまった。
『そうですか。あまりにも動かないものだから、生きているのかしらと思って』。その人は「失礼しました』とあいさつをして歩いて行ってしまった。
あまりにも品格のある亀の姿に、私は戦時中に願をかけて放った亀が、30年余りもここにすみついていたに違いないような気がしていた」
今は亡き前夫にも、嘉子さんは変わらぬ思いを抱いていたようです。
映画の「まだ見ぬ子がもう一人ほしい」というセリフに号泣
日記には旅行や日常のできごと、若いころの思い出、老いて体調を崩した現夫への心配などのほか、見た映画の感想などが書かれていますが、そこでも嘉子さんは前夫の芳夫に思いを馳せています。
『飛烏へ、そしてまだ見ぬ子へ』と題した映画を見た日の日記です。
悪性腫瘍から肺がんに転移して亡くなってしまう若い医師の手記を映画化したものですが、その主人公が「まだ見ぬ子がもう一人ほしい」と言う主人公の医者の台詞で、嘉子さんは亡き前夫を思い出しています。
しかし、芳夫はいつも他人の世話をして、親切な人柄からか、もうー人の子を私には恵んでくれなかったのかなと、映画を見ながら考えていた。
(芳夫さんは)私に苦労をかけないようにと心遣いをしているような、運命的な生き方をしたように思う。
やっと日本に上陸しながら、妻子にも会えずに死んでしまったり。もう一人欲しいと願う子も、残さなかったり。いつも人のためを思って生きていた人だ」
この映画を見て嘉子さんは「近年あんなに泣いたことはなかった。声をかみ殺すこともあったくらい。涙で目が腫れてしまった」と日記に記しています。
嘉子さんが若いころに密かに思いを寄せ続け、念願かなって結婚したものの、短い結婚生活を送っただけで命を落としてしまった前夫・芳夫さんと、戦後に長男の芳武さんを従えて必死に仕事をしていた嘉子さんを優しく支え続けた現夫・乾太郎さん。
嘉子さんは、そのどちらにも深い愛情を注ぎ、感謝していました。
昭和58年の初詣で「凶」のおみくじ、がんであることが発覚
昭和58年の正月、柴又帝釈天で嘉子さんは「凶」のおみくじを引きました。人生初めての出来事だったといいます。
嘉子さんは自分では全く気がついていませんでしたが、このころすでに、肺の腺がんを原発として、転移性の骨がんが嘉子さんの体を蝕みはじめていました。
翌月になると、背中や肩が凝って、マッサージをしたり磁気をあてても一向によくなりません。
3月半ばごろから胸骨のあたりに痛みを感じ、無意識に胸に手を当ててかばうようになっていきます。
6月には、激しい痛みに襲われて、国立医療センターに入院。そこでがん細胞が発見され、転移性の骨がんであることが正式に判明します。
転移性の骨がんであることを告知されるが、冷静に受けとめた
実子・芳武さんは、嘉子さんに、がんであることを知らせました。
「母とは、以前から話をしていて、万が一のときも病名は隠さずに伝えてほしいと言われていました。母は私が病名を告げると冷静に受け止め、治療を受けました」
嘉子さんはがんを知らされたときの想いも日記に綴っています。
同時期、夫の乾太郎さんも闘病していました。
夫も闘病、三淵家の子どもたちは入院した嘉子をどう支えたか
乾太郎さんの三女・麻都さんは、嘉子さんの身のまわりの世話もかいがいしく焼きますが、そんな麻都さんに嘉子さんはずいぶん甘えたようです。
自分ががんとわかっても「このままでは死ねない。一日でも長く生きたい」と、食欲が落ちているのにあれこれ食べられそうなものを考えて、麻都さんに「この次、持ってきてね」とリクエストする嘉子さん。
しかし、いざ麻都さんがそれを持って行っても、希望どおりでないと文句を言うのです。
ラーメンを作ってあげれば「病人に食べさせるのになによ、これじゃあ“素ラーメン”じゃないの」と、具がのっていないことに文句をつけるくらいは序の口。
御膳そばが食べたいというのでわざわざ麻布十番まで行って買ってきたというのに、嘉子さんはそばをひとめ見るなり『ああ、これはニセモノのほう。あそこの路地を入って行った奥のほうに、本物の店があるのに』と情けなさそうにため息をついたり……。
気を許した家族の前では我が強い嘉子さんの性格は、最後まで変わりませんでした。
それでも4月ごろになり、ほとんど何も食べられなくなってしまった嘉子さんを見て、麻都さんは思うのです。
嘉子さんは、本当に人に恵まれた良い人生を過ごしました。
※後編に続く