20代後半で結婚し、平穏な夫婦生活が続くと信じていた40代夫婦に突然おこったジェンダー問題。身なりにも気を使わず、がさつな典型的昭和生まれの中年だった「夫」が、人生の後半は女性として生きていきたいと心に決めてしまったのだ。「夫婦」を続けながら、トランスジェンダーになっていく「夫」を見守る妻の心中とは――。

※本稿は、みかた著、大谷伸久監修『そして夫は、完全な女性になった』(すばる舎)の一部を再編集したものです。

中年男性化が進んで死んでいくことに耐えられない

「もうこれ以上自分が中年男性になっていくことに耐えられない。残りの人生は女性として生きていきたいんだ」

2018年3月、夫は突然このように宣言しました。

夫はこの時40代に入ったばかりの、見かけにもあまりこだわらない、趣味や言動もいたって普通の男性でした。むしろ男性の中でもかなりがさつなタイプで、女性を感じさせる面影はまるでありません。

たしかに夫は長年の仕事の激務がたたってか、30代半ば頃から外見の「おじさん化」が進んできたなあとは感じていました。薄毛や加齢臭などの症状が出始めていましたが、個人差はあれど中年化していくのは自然なことで、仕方のないことでしょう。でもそれが嫌で「女性になりたい」ってどういうこと⁉

「いや、若い時からずっと性別の違和は感じていたんだ。でも女性になりたい気持ちは封印して、これまでは男性として生きてこれたんだけど、40歳の誕生日を迎えた頃から、もう人生が残り半分しかないじゃんと気づいて。このままどんどんおじさん化が進んで死んでいくと思ったら、もう居ても立ってもいられない」

一体この人は何を言っているのだろう? まさしく私にとっては青天の霹靂であり、しばらく事態が呑み込めませんでした。

そしてこれは夫が「自分で女性ホルモン剤を個人輸入し、誰にも言わずに服用していることを妻である私に見つかる」という形で発覚しました。

その時既に、夫が女性ホルモン剤を服用し始めてから数カ月が経過していたのです。

薬
写真=iStock.com/iodrakon
※写真はイメージです

40代専業主婦、夫の女性ホルモン剤を発見する

私は40代の女性です。20代後半で結婚したのを機に会社を辞め、ずっと平穏な専業主婦生活を送っていました。夫は1歳違いで同じく40代。子どもはいませんでしたが、愛犬と一緒に暮らしていました。

旅行が夫婦共通の趣味で、頻繁に一緒に旅行を楽しみ、会話も毎日よくしていたので、コミュニケーションがしっかり取れている夫婦だと思っていました。

休日も一緒に過ごす時間が長いので、細かい言い合いはよく起こりましたが、長引くことはなかったです。これからもそんな平和な生活が一生続いていくのだろうと信じ切っていました。

2018年3月のある日、夫が誰にも何も言わずに女性ホルモン剤を服用していることが私にバレました。それは夫が会社からの帰宅時に、いつものように通勤バッグをソファに置いたところから始まりました。

私は毎日の習慣として、夫のバッグからペットボトルやその他の洗い物を取り出そうとしたところ、バッグの中に何やら見慣れない錠剤があることに気づきました。パッケージを見ても全て英語で書かれていて、パッと見では何の薬か分かりません。

「外国製のサプリメントかな?」と、最初はあまり気にせず「これ何? サプリメント飲んでたんだね」と言いながらその錠剤をバッグから取り出すと、夫は血相を変えて、一瞬でそれを取り返しました。

夫のあまりの動揺ぶりにただならぬものを感じ問いただしてみますが、なかなか答えず視線も合わせようとはしません。私は今までにない不安を感じ、何度も尋ね続けたところ、ようやく答えてくれました。

「女性ホルモン剤の錠剤を個人輸入した。もう既に服用し始めてから3カ月ほど経っている」とのこと。

なぜ男性である夫が女性ホルモン剤を服用しているのだろう? 男性ホルモン剤の聞き間違いじゃないよね? 薄毛に悩んでいたから、その対処だろうか? さっぱり見当がつきませんでした。

理由を尋ねてみても、夫は挙動不審になって体がブルブルと震えてしまっています。どうもこれはただ事ではない、ということだけは分かりました。

泣きじゃくる夫の告白

夫をなんとか落ち着かせ、話してほしいと粘り強くお願いします。相当拒んでいましたが、ついに折れて口を開いてくれました。

夫が泣きじゃくりながら語った内容をまとめると、

・幼い頃から自分の体が男性であることへの嫌悪感があり悩んできた
・ただ、思考や振る舞いは他の男性と変わらないと自覚していた
・恋愛対象も女性だったため、違和感を持ちつつも年月を過ごしてきた
・20代半ばに将来を考え、これからは完全に男性として生きていくと決意した
・実際に結婚後は過去に覚えた違和感をほとんど忘れかけていた
・30代半ば頃から薄毛、加齢臭など男性特有の中年化が始まり、再び男性の体でいることに耐えられなくなった
・40代を迎えたのをきっかけに、残りの人生は女性として生きていきたいと決意した

私は考えもしなかった言葉の数々に、夫が何を言っているのか頭が回らず理解が追いつきませんでした。一体何を話しているんだろう? どこからどう見ても男性に見える夫が、ずっと女性になりたかった? そんなバカな! 容易には信じられませんでした。

夫は「女性ホルモン剤を飲み始めたら、男性的な荒々しい気持ちがウソのようになくなって、今はすごく落ち着いた気持ちで過ごせてるんだ。だから止めたくない。もうすぐ見た目にも変化が現れてくると思う」と言います。

見た目の変化って、体が女性っぽくなっていくってこと? この男性である夫がどうやって女性になるというの? ちょっと待って、勝手に決めないでよ。そんな、ウソでしょう⁉

どうしてこんなにも大事なことを、妻である私にさえ黙って始めてしまったのかを問いただすと、

「こんなこと誰にも相談できるわけないじゃん。黙って飲むのは当然でしょ」

そうなの? そういうものだろうか? これほどに夫婦の根幹に関わることを黙って始めてしまうなんて。私たちは何でも話し合える、仲の良い関係だと思ってきたのに、違ったのだろうか……。頭を強く殴られて、私の中の思考回路が消えてしまったような気分でした。

それにしても、今までに女性らしさを感じさせることなど何ひとつなかったのに? 夫は所作も荒く、身なりにもあまり気を使わない、典型的な昭和生まれの男性を感じさせる人です。今起こっていることは、何かの間違いか記憶違いだったらいいのに。一体どうしたらいいの?

混乱していた私ですが、気づくと無意識に泣きじゃくる夫をなだめ、慰めていました。あまりの衝撃的な出来事に、私の体は泣くことも、他の何の反応もできない状態でした。

「ショックで泣き出したいのは私のほうなのに」と思いながらも同時に、「人はショックを受けすぎると妙に冷静になるものだな」と自分の気持ちを分析していました。

私たち夫婦はとても順調で至極平和な日々を送れている、と思っていたのは私だけだったのかと打ちのめされる思いでした。

聞き慣れない言葉に呆然、そして絶望

「そもそも『LGBTQ』という言葉だけは聞いたことがあるけど……『トランスジェンダー』なんて初めて聞いた。『MtF』? 何の略語? Male to Femaleか……」

2018年当時は話題にのぼり始めたくらいの時期で、まだまだ現在のような認知度はありませんでした。聞き慣れない言葉に呆然としながらも、夫に一体何が起こっているのかをインターネットなどで調べていきました。

性別の違和感で悩んでいる場合、本来は専門の医療機関で半年から1年間カウンセリング治療を受け、適応すると認められれば「性別違和(性同一性障害)」の確定診断書が出され、患者は正式にホルモン治療に移行することができる、とのこと。

男性のスキンケア
写真=iStock.com/hikastock
※写真はイメージです

夫のように、医療機関を訪ねる前に自身でホルモン剤を服用してしまうことは隠語で「フライング(ホルモン)」と呼ばれ、ままあることのようです。

しかし黙ってフライングしてしまうか、家族に相談するかはまた別の問題です。体が変わってしまうことは一生を変えてしまうことで、決して安易にホルモン剤に手を出してはならないはずですし、家族にとっても非常に大事なことです。

事前に家族に、特に配偶者に相談するか否かは、当事者の性格にもよるが、これまでの信頼関係がどのようであったかにもかかっている、という趣旨のことがネットには書かれており、何よりこれがショックでした。

「あなたたち夫婦は、本当は信頼関係なんてなかったんだよ」と突きつけられた気持ちになります。

そして、配偶者がトランスジェンダーになった場合、その夫婦がそれ以降も婚姻関係を続けていくか離婚するかは、ホルモン剤投薬の前に事前に配偶者に相談していたか否かで決まることが多い、とも書かれていました。もう為す術なし、といった気持ちです。

自己流ホルモン治療は危険でいっぱい

最初から私にとっては絶望的な事実を突きつけられたようで何ひとつ希望が見えませんでしたが、とにかく何か手立てを探してやってみるしかありません。

みかた著、大谷伸久監修『そして夫は、完全な女性になった』(すばる舎)
みかた著、大谷伸久監修『そして夫は、完全な女性になった』(すばる舎)

「通常はカウンセリング治療をきちんと受けて、医師から確定診断書を得てからホルモン治療を開始する。ということは、フライングホルモンをしている時点で、もう既に正規の治療の手順は踏めないということか……」

と悲しくなりましたが、自己流で行なう投薬は体に負担があるおそれもあり、危険だということも分かりました。

知識がないまま自己流で錠剤を飲むと、適量が分からず多すぎて肝臓に大きな負担がかかったり、逆に少なすぎると効果が出ずに意味がなくなることもある。

医師の診療下で行なえば主に注射での投与となるので、錠剤よりも緩やかに体内に行き渡り、体への負担が軽減される。医師がホルモン剤の量を判断するので効果も出やすく、メンタルの急激なアップダウンを錠剤よりは抑えることができる、というのが調べた結果分かったことです。

以上のことから、「まずはジェンダークリニックに診察に行ってほしい」と夫に頼んでみることにしたのです。

男性を慰める女性
写真=iStock.com/Juanmonino
※写真はイメージです