※本稿は、林菜央『日本人が知らない世界遺産』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
ノアが王として住んだディルムンの首都
2019年、世界遺産委員会の開催地となったため、訪れることができたバーレーンの首都マナーマから5キロメートル強ほどの位置にあるカルアット・アル・バハーレーンは、日本ではこれもまだあまり知られていない、湾岸地方の古代文化ディルムンの首都です。
シュメール語の古代文献でしか存在を確認されていなかったディルムンは、ギルガメシュ叙事詩から引用され聖書にも語られた大洪水から、ただ一人生き残った人間(ジウスドラ、ウトナピシュティム、ノア)が王として住んだ町とされてきましたが、発掘によって実在が確認されたのです。
中心的な遺構カルアット・アル・バハーレーンは、「テル」と呼ばれる人工的な丘で、紀元前2300年頃から16世紀まで人が居住していたことを証明する連続的な考古学層が見られます。何世紀もの間、貿易港としての重要な役割を果たしてきたこの遺跡は、約25%が発掘されており、住宅、公共・商業・宗教・軍事施設など、さまざまな構造が明らかになりました。
世界最古の建築物や農業の伝統
古代のディルムン文化の繁栄ははるか昔に終わりましたが、その後のイスラム期においても、引き続きペルシア湾岸における貿易の中心地であったことを偲ばせます。
12メートルの高さの丘陵の頂上にはポルトガルが建設した砦があり、遺跡の名称である「qal’a(砦)」の由来ともなっています。古代の海洋建築の例として珍しい、灯台とも考えられている海上の塔は、この地方でも唯一の例です。
また、この一帯は今でも垣間見ることのできる椰子樹園と庭園からなる内陸の伝統的な農業形態や、初期のインダス文明やメソポタミア文明(紀元前3000~前1000年紀)、その後中国や地中海の文明(紀元3世紀から16世紀まで)を初めとする多様な地域との間の海上貿易をつなぐ中心地であり、政治的な重要性も大きく、紀元3世紀の沿岸部の要塞や前述の砦など、異文化の交流から生まれた数々の建築物や防衛施設が見所です。
例として、「テル」内部に見られる、ナツメヤシのシロップを製造するための「madrasa」と呼ばれる建築物は、世界でも最古の例であり、紀元前1000年紀から続くなつめやし農業の伝統を垣間見せてくれます。
また、湾岸諸国では最近、自国の文化的伝統を伝え、文化的外交力を増大させるため巨大博物館の建造がブームですが(アブダビのルーブル博物館の分館なども有名です)、首都マナーマには、ディルムン文化を発掘物やかつての郡の模型から紹介する素晴らしい博物館が建設されています。こちらもぜひ訪れていただきたいと思います。
日本や韓国の庭園に影響した西湖
世界的にもアジアでも世界遺産の登録最多数を争っている中国ですが、文化自然遺産ともにすばらしいラインナップです。
始皇帝陵、万里の長城など誰もが知っている場所のほか、杭州周辺で比較的最近登録された良渚の考古学遺跡(紀元前3300~前2300年頃)は新石器時代後期の中国で稲作に基づく統一された信仰体系を持つ初期の地域国家を明らかにしたもので、付随している博物館も見ごたえがありました。
9世紀以来、詩人、学者、芸術家にインスピレーションを与えてきた杭州・西湖の文化的景観を、早朝、湖上に張り出した茶庭で伝統的な朝食をいただきながら眺めるのも良いと思います。
西湖は、何世紀にもわたって中国のみならず、日本、韓国の庭園設計にも影響を与えており、人間と自然の理想的な融合を反映した一連の景色を創造するため、景観を改善するという文化的伝統の顕著な例です。
帝による天への生贄の祭壇
明の永楽帝の治世18年、1420年に紫禁城とともに完成された「天壇」は、現在では庭園として公開されている歴史的な松林に囲まれた荘厳な場所で、その全容、個々の建物の配置が、中国の宇宙論の中心にある天と地の関係、人間界と神界、そしてその仲介者「天子」である皇帝が果たす特別な役割を象徴しています。
龍内大街の東側、紫禁城の南に位置し、もともと「天地の祭壇」でしたが、嘉靖帝の治世9年(1530年)に、天と地に別々の生贄を捧げることが決定されたため、特に天への生贄のため、本堂の南に円形の墳丘祭壇が建てられ、治世13年(1534年)に天壇と改名されました。現在の273ヘクタールの天壇は、清朝の乾隆帝と光緒帝が建て、1749年に遡るものです。
天壇は、南に天井の開いた円形の墳丘の祭壇、北に円錐屋根の天の丸天井があり、さらに北にある3層の円錐形の屋根をもつ豊作祈祷堂と聖なる道でつながっています。
明・清朝の皇帝たちは、ここで天に生贄を捧げ、五穀豊穣を祈願しました。西側には生贄を捧げた後に断食に使われた殿堂があります。天壇周辺の世界遺産登録地域には、合計92の古代の建物と600の部屋があります。
美しい石の街ザンジバルの都市文化
私がまだ訪れたことのない世界遺産の中で、行ってみたいと思っている街のひとつ、タンザニア・ザンジバルの石の街の風景を、たぶん最初に見たのは巨匠ベルナルド・ベルトルッチ監督の映画『シェルタリング・スカイ』(ポール・ボウルズ原作)の中ではなかったかと思います。
東アフリカのスワヒリ語圏にある沿岸貿易都市の代表的かつ最も美しい例として知られています。都市の枠組み、街並みがほぼ変化なく維持され、アフリカ、アラブ地域、インド、ヨーロッパの異なる文化的要素を1000年以上にわたって吸収した独特の文化を反映する、多くの素晴らしい建物が含まれています。それ以前の先住民族の文化的要素も維持されており、この地域に特有の都市文化を形成しました。
建物は、主にサンゴ石灰石とマングローブ材を使ったもので、狭い廊下を通って広い中庭の周囲に配された細長い部屋の続く2階建ての家は「ザンジバル」ドアと呼ばれる細かい彫刻の施された二重扉や、広いベランダ、内部の装飾などが特徴的です。
平屋のスワヒリタイプの家と、ファサードが狭いインドの店舗など、商業地帯である「ドゥカ」の周囲に建設された「バザール」通りに沿ってみられる街の風景も見どころのようです。
アフリカとアジアの貿易活動を映した多彩さ
ザンジバルの主要な建築物は18世紀と19世紀のものが多く、ポルトガル教会の敷地内に建てられた旧砦、ハウスオブワンダー、スルタン・バルガシュによって建てられた儀式宮殿、聖ヨセフのカトリック大聖堂、奴隷貿易廃止を記念して最後の奴隷市場の跡地に建設されたクライストチャーチ聖公会大聖堂、奴隷貿易商人ティップ・チップの住居、マリンディ・バムナラ・モスク、王家の墓地、ペルシア浴場など多彩です。
狭く曲がりくねった道、海岸に面した大邸宅、公共空間と共に、これらの建物はアフリカとアジアを結ぶ貿易活動を反映した例外的な都市集落を形成しています。
特にこの石の街は、歴史的に東アフリカが奴隷貿易の一大地であり、奴隷取引に終止符が打たれた場所であることも、登録理由に含まれています。