耳の聞こえない子どもたちの言葉で生まれた気付き
(前編から続く)
「歌ってみて」
コロンさんは、ろうの子どもたちからこう頼まれて戸惑ったことがある。20歳のときに教育実習の一環で訪れたろう学校で「好きなことは?」と聞かれて「歌うことが好き」と話したときのことだ。
どうしたら音楽を伝えられるのだろう……。困惑しつつも子どもたちの目を見つめ、語りかけるように必死で歌ってみると、子どもたちが体を乗り出して全身で聴こうとしてくれた。
そうか、耳が聞こえるから聞こえるんじゃなくて、聴こうとするから聴こえるんだ。
そう気付かされた。歌い終わると、涙を浮かべた子どもから「ありがとう」と声をかけられた。
さらに休み時間になると、一人の男の子が「この曲知ってる?」と当時はやっていた曲について話しかけてきた。「知ってるよ」と伝えると「僕が踊るから、頭の中で曲を流しておいて」と言って踊ってくれた。頭の中に流れる曲と彼のダンスとの抑揚がぴったりと合った。
それまでに知っていた「音楽」とは違う何かがある。そう感じて、大学の卒業論文では「耳の聞こえない人と音楽」というテーマを選んだ。音楽の意味について考える長い旅が始まった。
「エル・システマ」との出会い
さらに英国の大学院で学んでいたときに「エル・システマ」と出会う。エル・システマとは、音楽による青少年育成を目的として1975年にベネズエラで始まった音楽教育システムで、同国の文化大臣などを務めたホセ・アントニオ・アブレオさんが提唱したものだ。すべての人が経済的事情に左右されずに音楽にアクセスできることを理念の一つにしていて、スラム街で暮らす子や障害のある子どもなどに無償で音楽を教えてきた。ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団の音楽・芸術監督になったグスタボ・ドゥダメルさんなどを輩出しており、当時の欧州で話題になっていた。
実は、作曲家であるコロンさんの父親もエル・システマの創立に関わっていたため、コロンさんは子どものときにエル・システマの本部に行ったり、アブレオさんに会ったりしていた。ただ当時は幼かったため、大人になって初めて「そういえば……」と点と点がつながったという。
耳が聞こえない人と音楽を楽しむ
そして、エル・システマの活動のひとつである「ホワイトハンドコーラス」を見たときに衝撃を受けた。ろう者が白い手袋をつけ、メロディーに合わせて手の動きで音楽を表現するもので、コロンさんが見に行ったクリスマス・コンサートでは、観客の3分の1ほどはろう者だった。
みんなが一緒に楽しむ様子を見て、長年もっていた「耳の聞こえない人と音楽を一緒に楽しむことができるのだろうか」という疑問が溶けていった。
「いつか日本でもやりたい」と思い続け、2017年に「東京ホワイトハンドコーラス」、2020年に地域を超えた「ホワイトハンドコーラスNIPPON」を立ち上げた。
ベネズエラの楽団は大人だけで構成されているが、日本では子どもが中心だ。手話を使って表現する「サイン隊」、声で表現する「声隊」が一つになり、ろう者、難聴者、弱視の子ども、全盲の人、車いすユーザーや障害がない子どもも参加する。東京で始めた活動は京都、沖縄にも広がり、いまでは100人近い参加者が毎週末の練習に参加するようになった。
「月」をどう表現するか
声隊のメンバーは曲や歌詞を耳で聞いて暗譜し、練習を繰り返す。そしてサイン隊のメンバーは、まず音楽をどのように表現するかを考えるところからスタートする。
歌の解釈は人それぞれだ。だから対話形式のワークショップを開き、どのように訳すかをみんなで考える。そのようにして作り出した表現は、手話ならぬ「手歌」と呼んでいる。
たとえば「月」をどのように表すか。言葉にすると「つき」とシンプルだが、手話だと三日月なのか満月なのか、低い位置にあるのか高い位置にあるのかによって表し方が異なるため、いくつもの可能性がある。コロンさんは「とっても想像力をかきたてる作業なんです」と楽しそうに話す。
また、手話には方言もある。「水」は、東京では胸の前で波を描くように手を揺らすが、大阪では水を手ですくって飲むようなしぐさ、九州では蛇口をひねるような動きになる。
沖縄では、昔から伝わるウチナーグチ(沖縄諸島で話されることば)の民謡を手歌にして歌い継ぐために、手話方言を残す活動もしている。「音楽は記憶装置でもあるので、民謡を手歌と一緒に歌い継いでいけば、その世代が使っていた手話が生き残っていくのでは、と考えているんです」
「障害者」を表す手話に子どもが抱いた疑問
「ホワイトハンドコーラスNIPPON」は2021年12月に東京芸術劇場でベートーベンの「交響曲第九番(歓喜の歌)」を披露した。第九を手歌でどのように表現するか話し合うところから始め、声隊のメンバーはドイツ語の歌詞を暗譜。稽古を繰り返し、プロのオーケストラと合唱団とともに舞台に立った。
この取り組みは「第九のきせき」という写真展にもつながった。写真家の田頭真理子さんのアイデアで、子どもたちが第九を手歌で表現する際に手袋の中に小さなライトを入れ、手歌の表現を視覚的に見せられるようにしたのだ。
ホワイトハンドコーラスNIPPONは、24年2月には海を越えてオーストリア国会議事堂や国連ウィーン本部でパフォーマンスをした。演奏を披露するとともに、オーストリア国会議事堂では、メンバー2人が英語と手話でこう伝えた。
「日本手話で障害者は『壊れた人々』と表現されます。でも私たちは壊れているのでしょうか? いいえ。私たちは違っていて、そしてユニークなのです。だから私たちは『障害者』の手話を変えるための活動を始めました」
歌詞にある「障害者」の表現について話し合っていたときに、子どもから「おかしくない?」と声が上がったのがきっかけだ。最終的には「個性のある人々」と表現することにした。2025年に東京で開かれるデフリンピックに合わせて「障害者」の日本手話を変えたいね、とみんなで話し合っているという。
「芸術と社会は切り離せないし、音楽家も市民の一人。まだ世界では実現できていない新しいアイデアや理想の姿を、舞台では作っていけると思っています」とコロンさんは言う。
学ぶ場が分かれてしまうことへの危惧
日本では、特別支援教育を受ける子どもの数が増え続けている。専門的な教育を受けられるのは良いけれど、障害の有無で学ぶ場が分かれてしまうことをコロンさんは危惧しているという。
「私は『すみません』と日本語で道を聞いても、『ソーリー、ノーイングリッシュ』と言われることがあります。もし日本語がペラペラの外国人を一人知っていれば、こういう反応にはならないと思うんです」
同様に、学校で多様な人に出会わなければ「耳が聞こえない人に出会ったことがない」「目の見えない人が周りに一人もいない」というまま大人になるかもしれない。そうしたら、街の中でそんな人たちを見かけても「お困りですか」と声をかけることを躊躇してしまうのでは――。だからこそ、「ホワイトハンドコーラスNIPPON」では誰もが参加できることを大切にしている。
障害のある方たちは「先輩」になる
そして、活動を続けているうちに「支援する」と「支援される」は固定された関係ではないことにも気づいたという。
「固定しない関係はものすごくおもしろいし、いろんな角度から物事を見せてくれるので教えてもらうこともたくさんある。大人も子どもも、障害の有無に関係なく対等な関係で学び合えたら、画期的なアイデアが世の中にたくさん生まれると信じています」
「私たちは、歳を重ねるごとに自分が持っていた能力をひとつずつ置いていく。聞こえていた耳がだんだん聞こえなくなり、見えていた目がだんだん見えなくなり、速く走れていた足が弱くなる。そういうことを経験していくときに、工夫して乗り切ってきた障害のある方たちは、いろいろなことを教えてくれる『先輩』になります」
ホワイトハンドコーラスは「革命」
ソプラノ歌手、社会活動家、大使の妻、4人の子どもの母――。多忙を極めるコロンさんだが、いつも明るい笑顔が印象的だ。
「阪神大震災で、いろんな人が亡くなるのを身近で見ました。人生は計画通りにいかないことがたくさんある。その中でも、毎日命をもらって生きていくものとして、できるだけ幸せに、できるだけいろんなことに感謝して生きていきたいという気持ちがあるんです。日々の小さな幸せの中に、大きな人生の幸せは隠れているような気がしているので」
最後に、音楽とは何かを問い続けてきたコロンさんに聞いてみた。
ホワイトハンドコーラスの音楽って、どういうものですか?
「これは革命だと思っています。音を目で見えるようにできる、音楽を絵や映画のように動かすことができるというのは、まったく新しい音楽の境地を開拓することではないかと思います」
笑顔とともに、革命はまだまだ続きそうだ。