初舞台は6歳のとき
コロンさんは、作曲家であるベルギー人の父親と、声楽家である日本人の母親の元にベネズエラで生まれた。幼い頃から音楽が大好きで、6歳のときに両親のリサイタルで詩を朗読したのが初舞台。リサイタル前日に両親のどちらが朗読するかで揉めているのを見て、コロンさんが「私がやります!」と宣言したのだという。
リサイタルは大成功で、新聞に記事が載った。「家族が助け合う延長線上に音楽も舞台もあった。私にとっては、すごく自然なことだったんです」
日本の学校で受けた壮絶ないじめ
1990年、10歳のとき、永住するため家族で来日。ベネズエラでは家でもスペイン語で会話していたため日本語は得意ではなく、読み書きはほとんどできなかった。
ただ、言葉の壁以上に「日本人になること」のプレッシャーに苦しんだという。日本国籍を取得するために市役所に行くと「日本人なら印鑑が必要だから、日本語の名前にしたほうがいい。そうしたほうが、いじめられないで済みますよ」と言われた。それまで使っていた父親の姓「コロン」から母親の旧姓に変えた。
学校では「命を落とす一歩手前」というほどのいじめを受けた。洋服に火をつけられたこともある。弟は殴る蹴るの暴行を受けて脊髄にひびが入った。職員室の前での出来事だったが、コロンさんが助けを求めるまで誰も止めてくれなかった。その日の夜、自宅を訪れた教育委員会の人は「このことは内密に」と言ったという。
「いま考えると、外国人のような顔をした子どもが学校に入ってくるのが初めてだったのだと思います。時代的に『みんなと同じが良い』という価値観があったのだと思う」
小学校高学年の頃は、「ストレスから円形脱毛症や自律神経失調症を発症し、体も心もボロボロ。息をするので精一杯という感じだった」と振り返る。涙を流す母親に手をひかれ、海に入りかけたこともある。そのことを両親と話したことはないものの、心中を考えていたのでは……と思っている。
この時期は、大好きだった音楽を楽しむこともなくなっていた。
阪神大震災で家が全壊
転機になったのは、中学校からキリスト教系の小林聖心女子学院(兵庫県)に進んだこと。まだ日本語もおぼつかず、周囲からは「無理だ」と言われたが、「入りたい」と必死の想いで受験し、なんとか入学することができた。
学校の創立者はフランス革命の時代に女子教育を始めた女性で、「私はたったひとりの子どものためにもこの学校をたてたでしょう」という言葉が校内に刻まれていた。コロンさんは「たったひとりの子ども」が自分のことのように感じられ、「魂から救われるような気持ちでした」と振り返る。
ようやく自分の居場所を見つけて充実した学生生活を送れるようになったものの、中学3年生のときに阪神大震災に遭った。コロンさん一家が住んでいた家は全壊した。
「大きな揺れがあったときは、ありとあらゆる地球の音が混ざっているのではないかと思うぐらい轟音が鳴り響いていた。お皿が割れる音、わーっという人の声。いろんな音の後に完全な静けさが訪れた。そのとき、私は死んだと思ったんです」
話せなくなったが歌は歌えた
恐怖感やショックが大きかったためか、コロンさんはその後しばらく声を失った。感情が消えてしまったようで、話すことができなくなったのだ。ただ、不思議なことに歌は歌えたという。
母親が作った合唱団のメンバーとともに避難所でラテン語の歌を歌うと、「目の前にある日常からつまみあげてもらって別世界に行くような感じがした」。
音楽の力が自分の体を通り、呼吸になって出ていく。そして、その音楽が人の心に届き、人の心をほぐしている――。涙を流しながら聞いてくれる人を見ながら、「目に見えないのに、こんなに力の強いものがあるのだろうか」と心を揺さぶられた。そして「一生、音楽に仕えたい」と思ったという。
親に反対され音楽の道を断念
だが、両親は音楽の道に進むことに大反対。「うちには定収入が入る人が必要だから、会社員か学校の先生になって」と懇願された。自分に音楽の道で生きていけるほどの力があるのかわからず、教育にも関心があったため教育学を専攻することにした。大学院まで学んだ後、聖心インターナショナルスクール(東京)で教員になった。
一方、歌うことも続けた。日本とベネズエラのサッカー国際親善試合があったときには、国立競技場でベネズエラ国家を斉唱。徐々に歌の仕事が増えるにつれ、「我流で歌っていても長く歌い続けるのは厳しいだろうな」と思うようになっていく。
両親に内緒で英国の王立音楽院(Royal Academy of Music)を受験したところ、合格。ただ、金銭的な問題にぶつかった。
コロンさんは高校時代から食品工場でアルバイトをし、大学時代も働きながら学んだ。教員になってからは貯金できるようになったが、それでも学費は1年分しか貯まっていなかった。
その苦境を知った同僚や友人たちが「コンサートをして学費を集めよう」と言ってくれた。「えりかジャム」などのグッズも作って販売してくれて、さらに1年学べるだけの学費が集まった。
「日本人らしさ」から解放されたロンドン生活
26歳でロンドンへ。周囲は音楽をしっかり学んだ経験のある学生ばかり。ついていくのに必死だったものの、楽しくて仕方がなかったという。歌いすぎは喉に良くないと知りつつも、6時間でも7時間でも練習を続けた。授業の空き時間にはナショナルギャラリーなどの美術館をまわった。フランスやイタリアが近く、音楽家の偉人たちの住んでいた家もあちこちに残っている。「音楽のお風呂に浸かっているような感じ。やっと音楽のことだけを考えて過ごせて、本当に幸せでした」
「日本人らしさ」から解放されたことも心地よかった。ロンドンの街中にいると、さまざまなアクセントの英語が聞こえてくる。学校にも多国籍の留学生がいて、「いろんな国の人がいろんな方向に興味を持っている。私も『このままで大丈夫』と思えた」。
王立音楽院では「若い音楽家に出演してほしい」という依頼があちこちからあり、コロンさんもフランスやキプロスなどに行った。卒業してプロになった先輩たちはほぼ1カ月ごとに各地のオペラハウスを回っていた。自宅にはほとんど帰らない生活で、家庭を持つのは難しそう。「アートに人生を捧げる」というのは、こういうことなのだな。日本には帰国せず、歌に身を捧げる人生を選ぼうと考えていた。
ソプラノ歌手から大使の妻へ
だが、その頃にパートナーとなる男性に出会った。日系2世のベネズエラ人で外交官の彼と結婚すると、思い描いていたソプラノ歌手の活動はできなくなるだろう。でも、幼い頃に幸せな記憶を育んでくれたベネズエラという国を多くの人に知ってもらい、人と人を繋ぐことができるかもしれない。大きな葛藤を抱えつつも、新たな生活に飛び込んだ。
大使の妻としての仕事は多岐にわたる。皇室行事や各国大使館の記念式典などがほぼ毎日のようにあり、広島や長崎の平和記念式典にも参列する。小学校を訪れてベネズエラについての講演をすることもある。
10年前には、女性の駐日大使と大使夫人が参加するコーラスグループを設立。米国とパレスチナの大使夫人が一緒に歌うこともあり、「国の事情や政治的な立場が異なっていても、歌のもとでは裸の人間になれる。そのことを見てもらうのが大事ではないかと思っています」
2017年からはさらに新たな活動を始めた。耳の聞こえない子どもたちも一緒に演奏する楽団「ホワイトハンドコーラス」だ。大学生のときに訪れたろう学校での経験がきっかけだった。
後編に続く