※本稿は、奥田祥子『等身大の定年後 お金・働き方・生きがい』(光文社新書)の一部を再編集したものです。
定年後のロールモデルがいない
2024年の初春、小売業の会社を定年退職後、税理士事務所に税理士補助として勤めて半年になる村木紗恵さん(仮名・60歳)は、取材場所のオープンカフェの庭先に咲き始めたばかりの梅の花を時折、愛おしそうに眺めながら、こう振り返った。
「定年まで勤めた少数派の総合職女性は口を揃えるでしょうが……私たち『均等法第一世代』は、定年後どのように道を歩んでいけばいいのか、見本とするロールモデルがないのが大きな壁です。母数は少ないながら働き続けたいと望む女性が多いけれど、会社はシニア女性のセカンドキャリア支援までには手が回らないから……悩みは尽きません。それに……今思うと40代後半から50代半ばまでは更年期も影響していたのでしょうが、抑うつ症状が断続的に出るなど、心身の不調が重なって……正直、つらいこと尽くしでした。でも、私の場合は、ちょっと変わっていて、もともと順当にキャリアを重ねてきたわけではなかったから、何とか踏ん張ることができたのかもしれませんね」
定年退職後「今の仕事が最も充実」
村木さんは均等法第一世代ながら、大学卒業後に一般職で入社し、29歳で転換試験を受けて総合職となった。その後、努力を重ねて実績を重ね、課長ポストに就いたのだ。
それにしても、ここまで冷静に、穏やかに振り返ることができるのは、どうしてなのだろう。ふと疑問が頭をよぎったのとほぼ時を違えず、村木さんはこう続けた。
「今の仕事が、これまでのキャリア人生で最も充実しています。まだ、税理士資格も持っていませんし、補助的な職務なので現役時代に比べると待遇は悪くなりましたが、何よりもやりがいを感じることができます。会社勤めの時も、もとはやりがいや達成感を求めていたはずなのに、いつの間にか、人事考課の結果、つまり評価のランクを上げる、少なくとも落とさないようにするとか、とかく比べられやすい入社時から総合職の女性社員たちに追いつけ、追い越せで頑張るとか……日々の業績やミスの回避に躍起になっていたように思うんです。今が本来求めていた、働くということ、何かの役に立つ、ということなのかなと……」
「今が最も充実している」という今の職務にたどり着くまで、村木さんはどのようにしてさまざまな苦難を乗り切ってきたのか。中年期以降のキャリア人生と心の機微を届けたい。
一般職から総合職転換し課長に
村木さんへの継続インタビューは2007年、商品企画部の課長ポストに就いて数カ月が過ぎた頃からスタートした。当時44歳で、勤務する会社では、課長昇進年齢の平均からすると少し遅くはあったものの、一般職で入社して転換試験を受けて総合職になった女性の課長就任はまだ数少なかった。
多種多様な商品を取り扱い、各所に華やかなディスプレイが施された店内とは対照的に、部屋の壁面に沿って商品の入った段ボール箱が所狭しと積まれた会議室に入ると、村木さんが「雑然としていて、店との落差に驚かれたでしょう」と、弾けんばかりの笑顔で迎えてくれたのを鮮明に記憶している。
「男女雇用機会均等法が施行された年に入社しましたが、厳密に言うと私は、『均等法第一世代』とは違うんです。入社時は一般職だったものですから……」
そう言って、少しおどけた表情を見せた。
「新たな時代のキャリアウーマンを象徴する総合職は、どんくさくて要領の悪い自分には向いていないと思い、一般職を選んだんです。それに、学生時代は総合職だと婚機を逃すと考えていたので……実際に逃して、今なお独身ですけどね。あっ、はは……」
地道な努力でキャリアを築く
関西出身で、大学では落語研究会に所属していたせいなのか、取材者が慎重になるような結婚などプライベートな話題も明るく笑い飛ばす。一瞬にして場の雰囲気を照らすような彼女の話し方や表情に助けられた気がした。
「均等法というチャンスをもらったにもかかわらず、なんで4年制大卒で総合職でなく一般職なんだ? という世間の偏見が気になった時もありました。一般職なら、寿退社まで少しでも長く勤めてくれる短大卒を企業が好む時代でしたから。入社後7年間、経理事務の仕事には誇りを持って取り組みました。でも……徐々にもっと自分の能力を発揮してみたい、いずれは指導的地位に就いてみたいと思うようになって、30歳を目前に、上司の勧めもあって総合職への転換試験を受けたんです。総合職入社の人たちと比べるとハンデはありますが……一生懸命に頑張って、やっと課長に昇進させてもらったんです。もう、元来の性格のぼーっとしているところは葬り去って……う、ふふ……前進あるのみですね」
一般職から総合職、さらには課長昇進と、それぞれの節目で周囲からの重圧も感じたことだろう。持ち前の明るさと地道な努力で、キャリアを築いてきたことがわかる。
自分の生き方が「マイノリティー」に
気負うことなく、着実に実績を積み重ね、30代での大阪支社への転勤に続き、課長に就いてからも名古屋支社に3年間勤務した村木さんだったが、東京本社に戻った2011年頃から、いつもの明るさが日増しに減り、悩ましい表情を見せることが増えていった。
東京本社に戻って1年余りが過ぎた12年のインタビューでは、当時48歳の村木さんは慎重に言葉を選びながら、女性社員の働き方を含めたライフスタイルの変化を受容し、さらに推進しようとする会社の姿勢に対する戸惑いを明かした。取材者として、村木さんの苦悩がよほど気になったのだろう。当時の取材ノートには、彼女の語りと表情や身振りを克明に記録しながら、筆者自身の困惑の表現でもある「?」記号が多用されていた。
「これまで管理職ポストに就く総合職女性は独身か、既婚者であっても子どもはいないケースがほとんどだったので、私のような独身の課長は社内では多数派で、『普通』だったんです。でも……課長に昇進して数年過ぎた頃から、子育てしながら働き、課長ポストに就く総合職女性が増え始めたんです。そして、今では、女性登用では子どものいる女性社員が優遇されているように思えてなりません。それで、そのー、自分の生き方がマイノリティーになりつつあるのがつらく……独身で生きていくことに不安も感じるようになって……仕事への自信もなくなり、塞ぎ込むことが多くなってしまいまして……」
彼女には似合わない、か細く消え入るような声で話すと、取材場所の喫茶室のテーブルに両肘をついてこめかみを押さえた。
メンタル不調で1カ月休職
村木さんが心療内科のメンタルクリニックで「軽症うつ病」の診断を受けて、会社を約1カ月休職するのは、この取材の3カ月後だった。現在は、企業は従業員のメンタルヘルス対策に力を入れ、「心の病」で欠勤、休職することは珍しくなくなっている。だが、当時は今ほど職場の理解は進んではいなかった。
職場復帰して2カ月近く経った頃の取材では、やるせない胸の内を打ち明けた。
「入社以来、のろくてもいいから、歩みを止めずに進まなくては、と自分に言い聞かせてきた25年間でしたが……こんなにも脆く、つまずいてしまうとは……思ってもみませんでした。もう、昇進する可能性は極めて低いと思います……」
うなだれる村木さんにかける言葉が見つからない。取材者として、不甲斐なく感じたのを思い出す。
商品企画部から総務部へ
軽症うつ病は、治療を続けて1年ほどで主治医から「寛解」(病気が完全に治った治癒ではないが、症状が消失している状態)を告げられた。ただ、その後も2、3カ月から数カ月おきに、軽い抑うつ症状が一定期間出ることがあり、症状のある時のみ通院して精神安定剤を処方される、という状態が5、6年続くことになる。
休職からの職場復帰後、総合職に転換してから最も長く在籍した商品企画部で1年働いた後、総務部に課長職のまま異動した。総務部所属となってから数カ月過ぎた2014年のインタビューでは、こう苦しい心境を明かした。
「無理をしているつもりはないんですが……仕事を頑張ろうとすると、集中できずに気分が沈んだり、体がだるく疲労感がひどくなったりということを繰り返してしまって……。結局、商品企画では以前のようなパフォーマンスを発揮できなくなったんです。会社員人生の終盤で何か、また新たな目標が見つけられればいいんですが……」
まだ笑顔が弾けていた頃の状態に戻ってはいないものの、少しずつながら確実に気持ちが上向いてきているようだった。
自分で道を切り開くしかない
後からわかったことだが、この取材時の14年頃から、村木さんは一般職時代に7年間在籍した経理部への異動希望を出していた。ようやく16年、53歳の時にその希望が叶うのだ。一般職の時の業務とは異なり、課長として決算手続きや財務諸表の作成などの業務を担当し、指揮した。18年に55歳で役職定年を迎えた後も経理部に在籍し、23年に定年退職を迎えた。
心身の不調を経てたどり着いた経理部での経験が、定年後の歩み方に大きな影響を与えたことは言うまでもない。そうして、冒頭の語りへと続く。現在、税理士試験合格を目指し、実務経験を積みながら勉強に励む日々を送っている。
「一般職から総合職に変わって課長にもなり、新たな景色を見ることができたことはとても良かった。会社員人生の終盤になってもともと一般職で経験を積んだ経理の職務に今度は管理職として戻り、それが税理士を志すという定年後の新たな目標に発展したのですから……。人生って、ホント予想していなかった展開になるものですね。うっ、ふふ……。ただ言えるのは、先輩女性が築いた道がないという問題は、自分自身で新たな道を切り開いていくことでしか乗り越えられない、ということですね。また情熱を注げることがあって、私はラッキーだと思っています」
17年前に出会った頃の明るさが戻って安堵するとともに、今なお挑戦を続ける姿が頼もしく思えた。