※本稿は、佐々木正悟『「ToDoリスト」は捨てていい。時間も心も消耗しない仕事術』(大和出版)の一部を再編集したものです。
人に怒られたら立ち直れなくなるタイプ
「人に怒られると立ち直れなくなる」と人並み以上に思い悩んでいたのは私でした。
だから私は、誰にも怒られることのない「物書き」を仕事に選んだのです。
物書きだって、たとえば「編集さん」に怒られるのではないかと思う人もいるでしょう。でもそういうことは、めったにありません。
また、極端な話をするなら「怒られたら辞めてしまえばいい」と以前は思っていました。会社員とちがってひとつの企画をやめにしても、物書きならば続けられます。
私の考え方はしかし極端すぎたといまなら思います。別に怒られたら怒られておけばよく、会社も作家もなにも辞める必要などないわけです。
しかし、そのように思えない人が「消耗」するのでしょう。
私もそういう意味で、まさに「消耗する人」だったのです。
とはいえ、私の極端な考え方にも一理くらいはあったかもしれません。
「本当にイヤになったら辞めればいい」と思っておけば、ちょっとしたことには耐えやすくなるものです。
叱責がつらいのは自分が傷つくからではない
じつは、この「叱責」がつらいのは、叱責によって自分が傷つくというより「相手との関係が傷つく」せいです。
私は、自分が会社員はムリだと思い込んでいました。なぜなら、傷ついた関係を続けるのがつらすぎると考えたせいなのです。
なんの職業に就いていても「怒られること」をゼロにはできません。セルフパブリッシング(自費出版)でひとりでものを書いて生計を立てていても、病院でお医者さんに怒られるかもしれないのです。
生きている限り、誰にどう怒られるかなどわかりません。「会社に勤めない」のではまったく不十分なのです。
では、どうすればよいのでしょう?
まず理想論から入ります。たとえば私でいえば、編集さんを怒らせたら編集さんとの関係をケアするべきなのです。
自分の心をケアしても解決はしない
これは当たり前のことに思えるかもしれません。でも「気の弱い人向けのアドバイス」は、最近はとくにこうではありません。
「まず自分の心をケアしましょう」となっています。
その手段として、たとえば「アロマテラピー」や「おいしいご飯」という「モノ」がすすめられます。つまり「ひとりで自分のケアをするべきだ」と考えられています。
私にはこれが難しかったのです。難しいというよりうまくいきませんでした。
「理不尽に怒られた」と思うような経験は、もちろんたくさんありました。
就職活動をいっさいせず、まともに会社勤めをせずに五十過ぎまできたのは、なにがあっても怒られるのは許容できないパーソナリティのせいでした。
それでも、ミスの多い私は怒られてしまいます。だから「アロマテラピー」も「やさしい音楽」も「あったかくして過ごす」も「自分のためのごちそう」も「温泉」も、およそいま言われているような「セルフケアハック」はなんでも試しました。
私は極端な性格です。その類いのモノに総額で一千万円はかけているだろうし、一千通りくらいのメソッドは試しているでしょう。私にとってはお金なんかよりも、「怒られた心の煩悶」のほうがはるかに大きな課題だったわけです。
しかし、こういったものはたいして役に立ちませんでした。
他の人との関係をケアする
考えてみると「当たり前」に戻ります。当たり前すぎる「当事者の関係のケア」に立ち戻ったらよかったのです。
相手が怒っているなら、その相手の怒りが解ければ苦しまなくてよくなります。
編集さんが怒っているのに、ラベンダーの香りのお湯に浸っていても気持ちは落ち着かないものです。
ただこの「当事者のケア」をするというのは理想です。
現実には難しく思えるケースもあるでしょう。「なぜ私がそんなことをしなければならないんだ、悪いのは向こうなのに」との思いがあるうちは採用できません。
そこで次善のメソッドを用意します。誰でもいいから、他の人との関係をケアするのです。私でいえば妻、または娘との関係をケアするという意味になります。
「そんなことをしてなんになる」と今度は思われるでしょう。
当事者とこじれたのに、他の人との関係をよくしても効果はなさそうです。
それはそのとおりです。しかし、誰とであっても関係をケアすれば、自分には関係をケアできるだけの能力があると具体的に実感がもてます。
その能力は潜在的に、いまこじれた「より難しい人との関係」をケアできる可能性を感じさせます。ようは、妻との関係をよりよくできるなら、編集さんとの関係だってよくできるだろうというわけです。
この感覚を日頃から強化しておくと、私のような人間でも「心が傷つきにくくなった」と思えてくるものです。
100%相手が悪くとも傾聴する
ここで大事な仮定として、「自分はまったく悪くはなく、上司が100パーセント悪いにもかかわらず厳しく叱責された」としましょう。
言うまでもなくあなたは怒り心頭で、とても仕事をする気になどなれません。転職を検討せざるを得ないほどです。
にもかかわらず私は、できるだけその上司の話に耳を貸す、つまり「傾聴する」のが消耗しないために欠かせないと考えます。
この種の「仕事術」は必ず批判されます。時に厳しく非難されます。
私はそれを承知しています。それだけに、少しでもマイルドに伝えられないかとあれこれ考えざるを得ません。
でも、自分に非はなく、相手が完全に「悪」であったとしても、やはり傾聴しなければ、あなたが消耗してしまうと私は経験から思うのです。
そもそも相手の話を十分に理解せずには、「自分にまったく非はない」と判断すらできません。「パワハラ上司」と決めつけてキツい話を聞き流しては、「自分にまったく非はなかった」との証拠すらも聞き逃してしまいます。
悪いのは完全に相手です。この前提は動かせません。
だから怒られるのは「理不尽」です。
しかし「理不尽な目にあう」のは悪いこととは言い切れないのです。
というのも「理不尽な目にあう」のは生きていればこそのことです。生きていればそんな目にもあいます。
すべて「生きていればこそのこと」
たとえば十分に授乳して、暖かくして、子守歌を歌ってあげたとしても、猛烈に眠い中、子どもは夜泣きします。
親は悪くはありません。責任は「問題を起こした子のほうにある」でしょう。
しかしだとしても、寝かしつけないわけにはいきません。このように理不尽に夜泣きされるのは、親子ともに「生きていればこそのこと」です。
いまの日本列島ではどこに住んでいても、今日にも大地震で家屋が倒壊するかもしれません。住んでいる人にはなんの責任もありません。悪いのは活断層です。
数千万円かけて建てた家を、地震に倒されるのは「理不尽の極み」です。
でもそれにしても「生きていればこそのこと」なのです。
理不尽な目にあうとは、生きているなによりの証拠なのです。
どうにかして理解してあげる
生きているのが「いいことだ」と思うなら、理不尽な目にあうのもどこかしら「いいことだ」と思っておくしかありません。
もしもそうでないなら「死んだほうがマシ」になってしまいます。
死んでしまったら、理不尽に上司からパワハラされることはなくなります。
我が子にも夜泣きはされなくなります。家が流されることもなくなります。
しかし「死んだほうがマシ」だと思って生きていくのは、本当に消耗します。
しかたがありません。
今回だけでも「上司の言い分」を聞き取りましょう。
いったいこの「坊や」はなにを訴えているのでしょうか?
ミルクを飲ませてあげるように、取引先に連絡を入れておきました。
暖かい毛布にくるむように、プレゼンの資料を用意しておきました。
子守歌を歌ってあげるように、資料をコピーしてホチキスで留めておきました。
でも夜泣きでもするかのように、大声で騒いでいるのです。
まだなにか欲しいのでしょうか?
あなたはどうにかして、それを理解してあげたほうがいいと私は思います。どうしてかというと「その会社で生きて」いるからです。
「その会社で生きていかないことに決める」のなら、つまり転職するならそこまではしなくてよくなるでしょう。しかし、転職先にも同じような上司がいて、同じような目にあわないとも限りません。
でも、夜泣きが止まない赤ちゃんにミルクをあげたら、急に静かになることもあります。それと同じように、上司に丁寧にメールを送ったら、急におだやかになることもあります。
相手が悪くとも「共感」はできる
生きているとわけのわからないハプニングに見舞われ、それへの「正しい対処法」など誰にもわからないものです。
しかし「生きていたい」と思うとすると、そういう理不尽な目にあうのも受けいれていくしかないことになります。
少なくとも私は「死ぬ」よりは、そちらのほうを選びたいと思うのです。
なお、これが直接の口頭での叱責ではなく文書やメールだったら、プリントアウトして「熟読」してあげましょう。私のつたない物書き経験からすると、印刷物からのほうが内容を格段に詳細に読み取れます。
さっきは読み飛ばしていたところが、不思議に伝わってくることがあるのです。
心のそこから理解できたと思えると、仮に「相手が完全に悪い」としても、不思議だとは思いますが「共感」できます。
「共感」とは相手と同じ思いになれるという意味です。
「そんなはずはない」でしょう。だから不思議なのです。
しかしこれができると、「自分にはまったく非がない」と同時に「上司に共感する」ことが可能になります。
「どちらかがまちがいなく悪い世界」から抜け出せるのです。