息つく暇もなかった長男の子育て
「長男はいつも、汗だくの子育てでした。『すみません』って、周りに謝ってばかりで、『どんな躾、してるんだー!』って怒鳴られたことも。いくら言い聞かせてもすぐに忘れて、好奇心のまま突飛な行動を起こすので、気が気じゃなく、もうヘトヘトでした」
小林尚美さん(仮名、56歳)は、今年、社会人になった長男(22歳)の子育てを、「息つく暇もなかった」と振り返る。
実は、尚美さんと会うのは、3回目のことだった。いつもフェミニンな洋服に身を包む尚美さんはほっそりと小柄で、ふんわりと柔らかな印象をたたえた、笑顔が美しい女性だ。
尚美さんとはいつも関西圏の大都市で会っていたのだが、今回は郊外に広がる閑静な高級住宅街の最寄り駅での待ち合わせとなった。2年前、実母が亡くなったことを機に実家を引き払い、“3つの個室がある、極小マンション”を購入、長男と次男と3人で、この街に暮らすことに決めたのだ。
尚美さんとはこれまで、夫との離婚について話をうかがってきたが(その凄まじいモラハラぶりは、拙著『シングルマザー、その後』をご覧いただきたい)、今回は2人の息子の子育てに焦点を当てたいと思った。
一家団欒とは無縁な結婚生活
シングルマザーという、大人が一人しかいない状況下で、障害を持つ子を育てることとはどのようなものなのか。
世はシングルマザーでなくとも一人で、障害を持つ子の養育に奮闘する女性は少なくない。そんな水面下にいる多くの女性たちに、光を当てたいという思いもあった。
一部上場企業の正社員だった尚美さんは31歳で結婚、仕事を辞めて専業主婦になったが、夫との結婚生活は一家団欒というあたたかさとは無縁の過酷なものだった。
やがて、尚美さんは「モラハラ」という言葉に出合う。人としての尊厳を奪われる理不尽な仕打ちを自覚した尚美さんは離婚を決意し、実家に戻った。長男は幼稚園年少の3歳、次男は1歳前のことだった。
実家では母が元気だったものの、脳梗塞で半身不随となった父の介護もあり、突然迎えた娘一家に、イライラを隠さなかった。
「長男は引き出しを開けるのが好きで、宝物があるんじゃないかと開けては全部、ひっくり返すから、家の中は絶えず散らかっていて。怪獣みたいな長男が家に来て、しかも、言うことを聞かない、じっとしない、コミュニケーションも取れない。次男も頑固で、譲らない。兄弟同士、叩いたり蹴ったり喧嘩ばっかりで、私の母はどれほど大変だったか」
「一体、どんな躾をしているんだ!」
今から思えば、長男は発達障害の特性を縦横無尽に発揮していた。出先で何か見つけると、車が来ようがそこに突進していく。公園では、他の子のおもちゃが欲しいとなったら、その子をいきなり突き飛ばしてでも奪う。「貸して」というコミュニケーションは、長男には存在しないものだった。そのおもちゃを壊すこともしばしばで、「本当にすみません」と親子に謝り、弁償するのが、尚美さんの公園での日常だった。
病院に連れて行けば、靴を脱いだ途端、長男はつないでいた手を振り払い、診察室へ突進し、別の患者がいるのに、診察室のベッドに寝てお腹を出す。スーパーに行けば、欲しい物を買ってもらえるまで、ひっくり返って泣いて暴れる。一時も、目も手も離せない、嵐のような子育てだった。
いつも、どこからか、声が聞こえてくる。「一体、どんな躾をしているんだ!」。尚美さんは針の筵にいるように、居た堪れなくなる。
「どうして、他の子とこんなに違うのか……。母親として、劣等感の塊でした」
あまりの極端さに「おかしい」としか思えない
長男は知的には問題がないどころか、むしろ知能が高いとさえ思われた。大好きなポケモンのキャラクターを覚えたい一心で、幼稚園年長の時に、1週間強でカタカナが全部読めるようになったり、ポケモンセンターではカードゲームのシステムを瞬時に理解して、大人と対戦したり……。興味があるものには深く没頭し、理解力も発揮する。そうでないものは歯牙にも掛けないという、あまりの極端さに、尚美さんは「おかしい」としか、思えない。
幼稚園では一人遊びに没頭し、友達を必要とせず、他者と何かを共有して遊ぶことは一切しないし、興味がない。小学校に入っても、問題行動ばかりが目立った。授業中、椅子をガタガタと揺らし、4〜5回、後ろにひっくり返り、頭を打つ行為を繰り返す。
人とのつながりを作ってほしいと願う尚美さんは、平日の送迎が不要という理由でラグビーチームを選び、長男を入れた。だが、ラグビーの試合でも言われたことしかできない、空気が読めないという長男の「おかしさ」を、尚美さんは確信することになる。
広汎性発達障害とADHDの診断
小学3年の時に落ち着きの無さからいじめに遭い、チック症状がひどくなったのを機に、長男を自治体の「子ども相談所」に連れて行ったところ、「できることとできないことの幅があるので、診断名がつく」と指摘され、診察を勧められた。
3歳児半健診でもスルーされていた「おかしさ」には、診断名があったのだ。尚美さん自身で調べたところ、「アスペルガー」こそ、長男の行動にぴったりだと確信した。しかし、診察ではこう告げられた。
「広汎性発達障害とADHD(注意欠如・多動症)です。脳の器質からきている障害で、治るものではありません。IQは118で高校に進めますが、通信制か単位制しか行けないでしょう。それ以前に、不登校か、ひきこもりになる可能性が高いです」
広汎性発達障害は今では「自閉症スペクトラム」という診断名がつくものだが、アスペルガーもそこには含まれる。結果的に、この医師の言葉で、尚美さんは呪いをかけられたと言っていい。
「普通の、元気のいい、好奇心旺盛な子だと思っていたのに、あまりのショックで、そこから半年間、毎夜、泣き続けました」
「お母さん、このままでいいんですよ」
長男は診察のたびに、医師の聴診器を取ろうとし、医務机の引き出しを開けたり閉めたりする行為が止まらない。医師は冷たく、言い放つ。
「『これは基本的なことだから、母親が直させてください』って、それがショックで……。それができないから、今まで苦しんできたのに」
ただし診断が出て、腑に落ちるところはあった。ラグビーの試合で使いものにならないのは、相手の様子をうかがうことができない特性ゆえのこと。臨機応変に、阿吽の呼吸で相手にパスが出せるわけがない。
「本人にとって、かなり複雑なことをさせていたのに気づきました。息子の能力を超えた、不得意な分野を、私は彼にさせていたんだなーって」
長男の未来に絶望し、泣き続けた半年だった。それでも尚美さんは、発達障害に手厚い病院の予約を取り続け、ようやく診察につなげた。確かに診断名に、間違いはなかった。長男はこの診察室でも、医師の聴診器を取ろうとする。「やめなさい!」と長男を叱る尚美さんを、医師は静かに制した。
「お母さん、このままでいいんですよ、無理やり治さなくても。これからは、この子の特性の、良いところを伸ばしていきましょう」
勉強にハマり、私立高校に合格
初めて見えた、希望だった。
「その日に、はっきり思いました。涙を流している暇など、ない。療育を頑張ろうと」
尚美さんは教員と、常に連携を図った。小学5年から「言葉の教室」という通級(=通級指導教室。特別の指導を受ける特別な場)に通い、「児童デイサービス」が近隣の自治体に先駆けて地元につくられたことを知り、放課後、週1で通うことにした。
では、中学をどうするか、尚美さんは教員と話し合い、支援学級に在籍し、授業は普通学級で受けるという選択肢を選んだ。
「支援学級に所属したほうがいろんな先生に見てもらえるし、普通学級だと埋もれてしまうという指摘でそうしましたが、これが本当によかった。実際、普通クラスの担任と、支援学級の担任と副担任の先生に、何度も助けられました」
長男は中3で勉強にハマり、偏差値が1年間で「8」上がるという快挙を達成する。高校は担任の希望で上位の公立ではなく、面倒見のいい私立にということで、授業料免除制度もあったため、私立高校を受験、合格した。
高校生になる前、尚美さんは長男に自身の障害について告げたところ、高校では障害を隠し通したいという強い意志を長男は示した。
「だから、高校では何の支援もなく、本当に苦労しました。テスト範囲も先生の話をメモすることができず、違うところを勉強しているので、『特別進学クラス』の落ちこぼれでした。高2では毎回、水泳授業に水着を忘れて見学だったので、出席不足のため長距離を泳がされ、疲れ果て、家で暴れたこともありました」
コロナ禍での大学生活の日々
大学進学を見据え、高3の12月に書店で一緒に見つけた参考書に長男はまたもやハマり、2カ月間、集中して勉強した。センター試験では志望校の他にも合格を勝ち取り、家から通える有名私大の農学部に進んだ。
高校で苦労したため、大学では発達障害のサポートを受けようと、尚美さんは入学前に相談に行き、週1で保健室に通い、見守りの体制を準備したが、コロナによる緊急事態宣言で全てが吹っ飛んだ。
「勉強はやり切った感があって、オンライン授業の間、ずっとスマホで対戦型将棋をしていて、1年間で4段まで昇段しちゃいました。なので、授業のレポートは私がかなり手伝いました。自己紹介のパワポも、私が作りました。大学ではどういう形でも、人とつながったほうがいいと思ったので、Twitterで本人になりすまして、大学の将棋部に連絡したり。お陰でZoomで対戦できることになって、実際の対戦にも出かけて行きました。これも本人がハマった結果です」
尚美さんは長男とのこれまでの関わりから、本人の得意分野を見極めて、ちょっとしたサポートをすることが必要だと痛感している。
「ちょっとしたサポートがないと、一人では難しい。私のサポートがなかったら、将棋依存症で終わっていたんじゃないかな」
就活での大喧嘩の顚末
個人面談がリモートでできることを調べた尚美さんは、教授に直接、長男の特性を伝え、テスト範囲を文字で伝えてほしいなど、教授からのサポートを得る方向で動いた。
「これで何とか、卒業まで持ち込めた感じです。大学2年から3年は、留年の危機もあったのですが、何とか、乗り越えることができて」
親としてのサポートは、就活でも重要なことだった。大企業の障害者枠雇用は準備不足で全滅、一般就労枠しかなくなったが、本人がエージェントに勧められるまま、内定を得たのが建築業界の施工管理という仕事だった。
「明らかに、本人に向かない仕事。現場近くに住んで、現場の方の勤怠管理を行うって、彼は自分を扱うだけでも大変なのに、“人を扱う”なんて無理です。でも、本人が自分の強みと弱みが全くわかってなくって自己理解が低くて、迷わず、そこに行こうとしていた。私は猛反対、突き飛ばされるぐらいの勢いで大喧嘩して。大学のキャリアセンターに一緒に行って、難しいと説明してもらって、ようやく理解した。私の言うことだけでは、信用しないので」
新卒で正社員の職に就く
尚美さんは仕事から帰って家事を終えてから毎夜、血眼になってマイナビ、リクナビから、長男が受けられそうな企業を書き出していった。
結果的にそのリストから、長男は内定を得た。飼料会社の正社員として、新卒で生産管理の仕事に就いたのだ。
「就活の『ガクチカ』も、私が手伝うしかなくて、もうフラフラでした。今の仕事は収入は低めなのですが、不得意な営業をしなくて済むし、細々と続けてくれたらいいのかな。職場には障害をカミングアウトしていませんが、すごく人に恵まれていて。上司や工場長、みんながあたたかくて、物を失くすなど、失敗は日常茶飯事なんですが、笑い話で受け止めてくれるそうです。なので、彼に関しては、今は安心だなって思いますね」
障害を告げられ、絶望の淵に追いやられ、涙に暮れた年月から、今ようやく、長男に関しては、やれるだけのことはやれたと尚美さんに悔いは無い。心配は尽きないけれど、少なくとも今は、肩の荷を下ろすことができている。
「不登校か、ひきこもりになる」という呪いから、必死に長男を守ってきた尚美さん。しかし、皮肉なことに、その呪いに囚われたのは次男だった。
(後編へつづく)