※本稿は、海堂尊『よみがえる天才7 北里柴三郎』(ちくまプリマー新書)の一部を再編集したものです。
明治27年、忘れられていた「黒死病」が香港で流行した
日清戦争が始まる直前、北里は感染症の大事件に巻き込まれた。
ペストが発生した香港に、政府調査団として派遣されたのである。
14世紀、欧州の全人口1億人の4分の1を殺し、罹れば100人中98人は死ぬと言われたペストは別名「黒死病」。その由来は全身が黒ずむという、特徴的な症状によるものだ。その脅威は、ボッカッチョの『デカメロン』やデフォーの『ペストの記憶』、カミュの『ペスト』等の文学作品にも描かれている。
齧歯類に寄生したノミに噛まれて感染すると、近傍のリンパ節が腫れて「腺ペスト」になり、高熱を発し不穏、精神錯乱、意識障害を来す。
飛沫感染すると「肺ペスト」になり、未治療だと発症後3日から5日で死亡する。菌が全身に回れば「敗血症ペスト」で死亡率は6割である。中世、ペストの検疫は聖書に基づき、流行地に寄港した船は40日の検疫を命じられた。その間にペストが発生したら上陸を禁じられ、船員は飢え死にする。幽霊船の起源である。
研究所を設立した北里は「千載一遇のチャンス」と香港へ
だが19世紀半ばに細菌学が打ち立てられて以後、欧州でペストの大規模な発生はなく、ペストはコッホの細菌学の洗礼を受けないまま、闇に身を潜めていた。
明治27年4月、英領香港の中川恒次郎領事が「疫病が流行中で毎日数百人が死亡す」という、奇妙な打電をした。内務省衛生局の保健課長の柳下士興が「コレラか?」と問うと「非ず、『ビュボニック・プラーグ』也」との回答だった。
柳下に相談された伝研部長の高木友枝は図書館で調べ、ペストの英語名と判明した。
その頃は滅亡した病気と思われていて教科書にも記載がなかったのだ。
中国の雲南高原に潜在したペストが3月中旬、広東地方に広がり、数週で死者6万に達し香港に侵入してきたのだ。北里は「これは旗揚げした私立伝研にとって千載一遇のチャンスたい。政府から調査団を出させるばい。団長はおいがやる」と言った。
井上馨内相は直ちにペスト調査団の派遣を決し、5月19日付官報でペストの詳細を掲載、大日本私立衛生会はペスト特集号を緊急出版した。5月21日付「時事新報」は香港のペスト患者が340名、死者270名に達したと報じ、福沢諭吉は「ペスト侵入を抑えるため、数百万円という多額の国費を投入する意義がある」と論じ、援護射撃した。
北里と対立する東京帝大も香港への医師団派遣を決定
一方、文部省の井上毅大臣は帝大医科の小金井良精学長の意見を聞き、青山胤通教授の派遣を決定する。コッホ研究所への人員派遣、伝研設立に続いて、ここでまたしても文部省と内務省の確執が噴出した。かくして5月28日、41歳の伝研技師・北里柴三郎と35歳の帝大教授・青山胤通の両名に、全く同じ文言の調査命令が出された。
日く「香港二於テ流行スル伝染病調査ノ為派遣被仰付」
北里は石神亨と細菌学を、青山は助手の宮本叔と医学生の木下正中と病理解剖と臨床を分担し、明治政府初の海外派遣調査隊は伝研と帝大の呉越同舟になった。
6月3日、帝国ホテルで盛大な壮行会が行なわれ、福沢諭吉・慶応義塾大学塾長、陸奥宗光外相、浜尾新・帝大総長、小金井良精・帝大医科大学長、高木兼寛・海軍軍医総監、森林太郎(森鷗外)陸軍軍医、山根正次警察医長等の名士300名が参集した。
ペストは致死率の高い病気だったので、決死の覚悟だった。青山は出発にあたり妻に、生還せずとも業務はやり遂げるので心配するな、という言葉を残した。
帝大の青山教授らと文字通り呉越同舟で香港に到着
6月5日、米国船「リオデジャネイロ」号で横浜港を出発した同日、伊藤内閣は「東学党の乱」が勃発した朝鮮に混成旅団の派兵を決定、大本営を設置した。
香港ペスト調査団の派遣が迅速に決定したのは、朝鮮半島における日本の覇権を示す、国威発揚の示威運動という一面もあった。
出発1週間後の6月12日香港に到着し、入港直前の午前9時、調査団のトップ二人が甲板で顔を合わせた。二人とも酷い船酔いで、船室に閉じこもっていたのだ。
「ここから先は人類の敵、黒死病との戦いたい」という北里に「それはこちらの台詞だ」と言い返した青山の視線は、目の前の黒い病魔に侵された大陸に注がれていた。
調査隊派遣期間は6月12日から6月28日までの2週間だった。あまりにも期間が短く、成果を挙げられるかどうか、わからなかった。
到着翌日に早速、香港領事の中川恒次郎に案内され市街を視察した。
ペストの猛威は凄まじく、スラム街の大平山街近辺では毎日70名新規患者が発生し、路上に行き倒れの死体が放置されていた。
一行は香港植民地政庁の英医ラウソンの協力で、病院船ハイジア号、公立民事病院、東華病院を見学し警察署、硝子工場を改築した「ケネディ・タウン病院」を選んだ。
6月14日、北里が荷を解いて顕微鏡をテーブルに据えた時、解剖第一例の死体が運び込まれた。現地人は解剖を極度に嫌うため、青山は遺体置場の隣の物置で棺桶の蓋を台にして解剖した。一人が解剖助手を務め他方が記録を取りつつ窓の外を監視し、通行人が通ると窓を閉めた。
帝大チームは解剖道具などの準備が不十分、手袋なしで遺体を解剖
真夏の香港、締め切った部屋での作業は汗だくになる。初日に1体の解剖を実施した青山の元に次から次へと遺体が運び込まれた。タールで悪臭をごまかし、ゴム手袋がないので傷口保護材のコロジウムを塗り、塩化第二水銀を希釈して作成した昇汞水で消毒した。不潔な環境では感染しかねない。
解剖用具を一式しか持ってこなかったのは、明らかに準備不足の大失態だった。
北里の方は消毒釜や硝子器具、培地などを日本から持参し、準備は万全だった。
6月15日、日本隊の調査開始の2日後、パスツール研究所のエルサン調査隊が香港入りした。こうなればコッホの名にかけても、後塵を拝するわけにいかない。
北里はエルサンに解剖許可を与えないよう病院責任者を買収させたが、エルサンは香港島政府に訴え、その不当な干渉を退けた。
こうした仁義なき前哨戦を経て、正々堂々のペスト菌発見の先陣争いが始まった。
準備万端だった北里は患者の家に多いネズミからペスト菌を検出
6月18日、北里はヒトとマウスの牌臓、リンパ節、血液から同一細菌の純粋培養に成功した。ペスト菌は通常の培地で生育し確認は容易だった。彼はペスト患者の血液をマウスに接種し感染を確認し、死骸から同様の短梓菌を確認した。
翌6月19日、調査開始5日で、解剖体の5臓器と重症患者30名の血液を調べ全例から同様の短梓菌を検出した北里は内務省に「黒死病の病原を発見せり」と打電した。
32歳のエルサンもほぼ同時の20日に発見し、ペスト菌発見の栄誉は、コッホの弟子の北里とパスツール門下生のエルサンが仲良く分け合った。
北里は、患者の家にネズミの死骸が多いと気づき、ネズミの血液からペスト菌を検出した。同時にペスト菌の抵抗性検査に着手し乾燥、日光曝露、高温などペスト菌死滅条件を調べた。ベルリンのコッホ研でコレラ菌とチフス菌の抵抗性を調べた経験が活きたのだ。
6月28日までの15日間に北里は解剖18例と重症患者50名の血液検査で、その9割から短梓菌を検出した。
青山は2週間で19体を解剖し、45名の患者の診察をし、6月26日に最後の解剖をした。解剖には石神が立ち会い、香港で開業していた中原富三郎医師が手伝った。28日に香港政庁や領事館の人々を香港ホテルに招き感謝の晩餐会を開いたが、晩餐会後、青山と石神、中原は40度の熱を出し腋窩リンパ節が腫れ、英国病院船に入院した。
石神は錯乱し、青山の症状も重篤で、中原医師は7月4日に死亡した。
6月30日、青山と石神が人事不省になったと北里が内務省に打電すると、福沢諭吉は、北里を直ちに帰国させるよう内務省に要請し、「時事新報」で報じた。
帝大チームの医師が死亡、福沢諭吉は北里を帰国させようとする
長与前衛生局局長に相談された高木友枝は「そんなことをしたら、たとえ生き残れたとしても、北里の名が死にます。北里は絶対そうしません」と答えた。事実、北里は内務省の帰国勧告を無視し、他の者が快方に向かったのを確認した7月30日に帰国した。
1カ月の延長期間に北里は重病人の看病、論文執筆、香港の衛生改善調査をした。
7月8日、高木友枝が香港に到着すると、衛生学的調査に一層尽力した。北里は27枚の独語論文を執筆し塗抹標本と菌株を添えコッホ研究所に送ったが、未発表に終わる。
7月7日にはラウソン医師にドイツ語論文を英訳してもらい、英国の権威ある医学誌にレター形式で速報を送っていた。
ペスト菌発見の論文は「ランセット」8月25日号に掲載されたが、北里はグラム染色に関する記載をせず、予報で時にグラム陽性、時にグラム陰性とし、後日確報を送ると書いた。だが北里は本論文を執筆しなかった。
その一方で、「ペスト病の原因調査第一報告」を邦文で7月15日に送りペスト菌発見の報告をしたが、なぜかグラム陽性と記載してしまったのだ。
グラム染色とは細菌の基本染色法で、ゲンチアナ紫で染色し純アルコールで脱色し、最後にフクシンで染色する。アルコールで脱色されなければ濃紫色のグラム陽性で、脱色されればフクシンで赤く染まるグラム陰性である。
正しくペスト菌を発見していたのに報告書で間違えた北里
北里は、グラム陽性とグラム陰性の2種を確認していた。北里菌はグラム陽性とし、グラム陰性のエルサン菌と違うと主張した。だがそれは誤りだった。だが北里がドイツ語論文と共にコッホ研究所に送った標本には真性ペストと混合感染の検体があった。
香港で分離した菌に肺炎球菌が混じ、帰国の継代中に繁殖した可能性が考えられる。
つまり北里は正しくペスト菌を発見していたのである。エルサンも、ペスト菌は血中に観察されないという間違いを犯している。ただし北里はその後もグラム陽性菌を北里菌だと言い張り続けたため、世紀の大発見を自分で台無しにしてしまったのだ。
北里はこの時、ペスト菌の抵抗性を詳細に調べ、死滅条件を学術的に調査している。
北里が帰国した翌々日の8月1日、北里を囲み森鷗外、小金井良精、賀古鶴所、入沢達吉の5名で上野の料亭「伊予紋」で会合を持った。青山の容体を詳しく聞くためだ。
その日、日本中は大騒ぎになった。日本が清国に宣戦布告したのだ。
8月8日、北里は「中央医学会」で「ペスト調査報告と検疫の建議」をし、午後に、「東京医学会」主催の講演会が医科大学の生理学教室で開催された。満堂を圧した熱弁を聞いて、後の北里四天王の北島多一と志賀潔が伝研入りを決意した。