※本稿は、三淵嘉子ほか『女性法律家 復刊版』(有斐閣)の一部を再編集したものです。
女性裁判官の専用ルートが作られるのを避けたかった
1938年(昭和13)明治大学卒業。同年高等文官司法科試験合格
1940年(同15)弁護士
1949年(同24)東京地裁判事補
1972年(同47)新潟、のち浦和、横浜各家庭裁判所所長
1978年(同53)定年退官。東京家裁調停委員、日本婦人法律家協会会長、東京都人事委員
完全な男性社会であった裁判所に新たに女性裁判官が出現したとき、その受入れ態勢の一案として、昭和24年1月に新しく発足した家庭裁判所の裁判官が女性の適職ではないかという意見があった。家庭裁判所は家庭の紛争を解決しその福祉をはかる家事事件と、非行を犯した少年の更生保護、教育を考えてその処遇をきめる少年事件を扱う裁判所であるから女性裁判官向きであるというのである。
昭和25、6年頃のことであったが、たまたまNHKで田中耕太郎最高裁判所長官を囲んで法曹人の座談会があり、私もその末席を汚した。その中で長官は女性本来の特性から見て家庭裁判所裁判官がふさわしいと思うと発言された。私は家庭裁判所裁判官として適性があるかどうかは個人の特性によるので男女の別で決められるべきではないと思うと小生意気に反論したが、最高裁判所長官がこのように考えられるようでは大変なことになると内心大いに警戒したのである。
「家庭裁判所は人間的に成熟する50歳前後で」と希望
私は最高裁判所家庭局で家庭裁判所関係の仕事をしたことがあり、年齢的に見ても家庭裁判所裁判官にふさわしいということでその第一号に指名される可能性が十分にあった。先輩の私が家庭裁判所にいけばきっと次々と後輩の女性裁判官が家庭裁判所に送り込まれることになろう。女性裁判官の進路に女性用が作られては大変だと思った私は、まず法律によって事件を解決することを基本とする訴訟事件を扱う裁判官としての修業を十分に積んだ上で、人間の心を扱うといわれる家庭裁判所の裁判官になろうと自分の方針を立て、人間的に成熟するであろう50歳前後にならなければ家庭裁判所裁判官は受けまいと決心し、裁判所にもそのように志望を明らかにしておいた。
そして私は13年余り地方裁地所の裁判官をつとめて48歳になったとき東京家庭裁判所へ転勤した。その間家庭裁判所への転勤の話も出なかったし、女性裁判官の配置が家庭裁判所に片寄っているとも見えなかったので、女性裁判官の家庭裁判所適性論は一時の一部の意見に止まったのかと安堵したものである。
裁判長になるべき女性が次々に家庭裁判所に異動させられた
ところが、私が家庭裁判所へ配置された後女性裁判官の先輩グループが次々と家庭裁判所へ配置されるようになった。よく考えてみると私を始めとして女性裁判官の先輩グループがそろそろ裁判長(部の総括者)に指名される時期になっていた。
地方裁判所では三人の裁判官の合議で裁判が行われることがあるが、家庭裁判所では原則として単独裁判であるから、女性が裁判長の席に坐り、両側に男性裁判官が坐るということはない。地方裁判所に配置されていれば裁判長になるべき女性裁判官達が次々と家庭裁判所に送り込まれてくる事実を見て、女性を裁判長にすることに男性裁判官の抵抗があるのであろうと思わざるを得なかった。その頃家庭裁判所に集められた女性裁判官達は折に触れ、この上は誰にも負けない家庭裁判所のベテラン裁判官になろうと励まし合ったものであった。
法律を守りそして正義公平を具現しようという高い理念を掲げる裁判の仕事は男の聖域であるという意識が、「男性社会」時代の裁判官にあったことは否定できない。その聖域に女性裁判官が侵入して来ることへの抵抗は、男女平等という憲法の理念だけで洗脳することは難しい。現実に女性が男性と共にその責任を果たして行く実績が必要であろうし、仲間意識をもつに至る信頼関係の発生がなければこれを除去することはできない。しかし、時の推移と共に戦後の男女共学の途を経て裁判官となった人達が増加してくれば、男性社会の聖域という意識をもつ人達は次第に減少してくるであろう。時間の問題というのはそういう点からもいえる。
三淵嘉子の3年後輩の裁判官、永石泰子が語った「珍獣扱い」
1943年(昭和18)明治大学女子部法科卒業。戦後、中央大学法学部に進み1949年(同24)同学部卒業
1951年(同26)裁判官に任官
1976(同51)退官。弁護士登録。明治大学法学部講師。
それほど堅い志を立てたわけでも、また深い動機があったわけでもなかったが、法曹としての巣立ちに私は裁判官の道を選んだ。当時はまだ戦後数年しかたっていなかったので、女性裁判官は全部で5名[編集部注:和田(三淵)嘉子を含む]。最高裁判所で辞令を頂戴し、心細げに西の方へと赴任したのである。とに角珍らしいものがきた、とばかり女の裁判官というだけでよく新聞に出された。性、派手ならず、どちらかといえば引っ込み思案の身にとっては、有難くもなかった。
ラジオに出ると「ちやほやされていい気になるな」と注意された
職場に男と女がいる場合、男が上司で女はその下で補助として働く形ができ上がっていた時代のことであるから、内外ともに女の裁判官は異質というか、異様な存在であったのだろう。ことに一般の人々は男であっても裁判所、検察庁などは何となく近より難く、いかめしいところと思っている。
そんなところにどういうつもりか女が乗りこんで来た。変わった女だとの先入観からか、私どもの時代はこうした既成の見方にしばしば悩まされ、反面稀少価値的扱いもされた。男なら裁判官ということだけでは新聞のはしにも出ないのに、女なるが故にすぐ新間に出る、ラジオ(この時代まだテレビはない)に出る、有名人面するな、ちやほやされていい気になるなとやっかみ半分の注意もされたものである。
先輩、同輩の裁判官諸氏も、女が裁判官になることについてはそれぞれ意見があったようだ。大体は温かく受け入れて下さった、と言えるかもしれないが、中には女が合議体に入ると合議しにくいから――まだ経験していないのに――と、頭から自分の陪席として入れることを拒否する裁判長や、もっと率直に「ぼくは女が裁判官になるのは反対だ、第一被告人(刑事裁判で訴追される人を被告人という)が納得しないよ」などという男性裁判官もいた。裁判の世界を男の聖域視する考えは、そう簡単にはなくなるものではない。既成の社会の枠を破ろうとする者に、風当たりが強いのはやむを得ないことだったと思う。
法律の世界は男女平等のはずなのに「女だから」配慮された
裁判官任用の鍵を握る最高裁判所の事務総局の人事担当者や、司法研修所教官により、女性の任用が色々な理由をつけて差別的取扱いをされたことは何回かあった。とくに夫の仕事の関係上転勤がままならぬ場合とか、妊娠、出産のため仕事を休むということなど、女性裁判官がネガティブな存在と見られる大きな原因となったようである。
また、勤務地の裁判所の裁判長によって、女であるからという理由で仕事の配転に男性裁判官と違った配慮がされることも、はじめのうちはそう珍らしい(※原文ママ)ことではなかった。それは所長の人柄とか、個人的な考えによることが多く、その配慮も本人にして見れば差別ではなく好意であったのかもしれない。事実、大たいは温情厚く、紳士的な方々であったし、女性裁判官を丁重に扱ってくれた。
しかし、同じ試験を受け同じ修習を終え、同じ任用方法を経て第一線に出た者にとって、裁判官としての貴重な経験を得る機会の喪失にもつながることになるのである。一例として、私自身の判事補時代のある小さな経験を披露しよう。
「女には母性本能があり適性にそった仕事を」と言った裁判所長
当時、任官したばかりの裁判官は先ず判事補になり、判事補としての10年間に大、中、小それぞれの規模の異なった裁判所での勤務を経験し、かつ、地方裁判所、家庭裁判所が独立しているところの勤務に当たっては、なるべく両方の裁判所の仕事を経験し得るような配置が望ましい、とされていた。各地の裁判所の先輩裁判官もその趣旨にそった人員配置に協力していた。
私がある裁判所に着任し、同じ裁判所の十数名の判事補とともに配置がされる段になって、家庭裁判所所長に呼ばれた。所長の言うことは、要するに女には母性本能があり適性にそった仕事をするのがよい、少年事件は母性本能を持つ女性に最もむいているから、家庭裁判所では少年事件をずっと担当したほうがいい、というものである。
私としては裁判官の仕事の経験を積む重要な時期であるから、母性本能の十分な発揮はともかくとして、いろいろな仕事につかせて欲しい、少年事件はすでに何年も経験したから、いま、さらに家庭裁判所での執務を、といわれるなら未だ経験していない家事事件を担当させて頂きたい、と希望した。ところが、所長のいわれるのは、家事部には女性の調査官を配置しているし、調停委貝に女性が沢山いる、女どうしでいざこざがおこり、うまくゆかないだろうからその配置は好ましくないと。私はその所長が或る種の伝統的日本男子らしく、「女子と小人は養い難し」的信念を持ち、女は嫉妬で同性いがみ合う存在である、との思想を堅く持ち続けているらしいことに驚嘆した。