2007年にデビューしたiPhoneより早く、世界で初めて背面にカメラを内蔵した携帯電話を開発したのは、日本のメーカーだった。J-PHONEが発売したシャープ製のJ-SH04、通称「ゼロヨン」は、業界大手の後塵を拝していたエンジニアたちが一発逆転のチャンスを信じて発売までこぎつけたゲーム・チェンジャーだった。「写メール」という流行語を生み出し、世界を変えたその開発の裏側を「新プロジェクトX」制作班が取材した――。

※本稿は、NHK「新プロジェクトX」制作班『新プロジェクトX 挑戦者たち 1』(NHK出版新書)の一部を再編集したものです。

ガラケーで富士山の写真を撮る人
写真=iStock.com/bbossom
※写真はイメージです

観光客の行動から「カメラ付きケータイ」のアイデアが浮かぶ

iモードにいかに対抗するか。「メールのJ-PHONE」の進化形とは何か。マツダから出向の後、J-PHONEの社員となった高尾は逆転のアイデアを考え続けていた。

ある週末、両親が初めて長崎から東京に遊びに来ることになった。せっかくだから、と家族で1泊2日の箱根旅行に出かけ、駒ケ岳山頂に向かうロープウェイに乗り込んだ時のことだった。

ロープウェイの中で、高尾は景色を楽しむ両親をビデオカメラで撮影していた。徐々に高度が上がり、箱根の尾根から富士山が少しずつ姿を現す。天気にも恵まれ、目の前に広がる大パノラマはまさに絶景だった。初めての風景に感動している両親の表情をカメラに収めていると、すぐそばで「ピッ、ピッ、ピッ」という聞き慣れた電子音がした。携帯電話のボタンを押す音だ。

携帯電話の利用者がいると、自然と目が行ってしまう。高尾の職業病だった。何気なく音がする方を見ると、J-PHONEのロゴが付いた携帯電話を手にした一人の女性が、懸命に何か文字を打ち込んでいた。なぜこの女性は、絶景を前に文字を打ち続けるのだろうか。もやもやとした違和感が、高尾の中で膨らんでいった。

女子高校生の必需品、携帯電話と使い捨てカメラを合体

その答えは、突然降りてきた。

「あの人は、素晴らしい風景を見たことを、誰かに伝えようとしていたんじゃないか。絶景を見て感じた感動を、別の場所にいる誰かにメールで送って共有しようとしていたんじゃないか」

「必要なのは、カメラだ」

iモードの登場から1年にわたって悩み続けた高尾に、光が差した瞬間だった。

重要なのは、単に「撮る」だけでなく、「撮って送る」ことだった。そこに、携帯電話にカメラを付ける最大の意義があると高尾は考えた。

携帯電話で写真を撮って送ることができれば、ロープウェイの女性は、遠く離れた場所にいる誰かと感動をよりリアルに共有することができただろう。しかも、現像やプリントに時間を取られるフィルムカメラとは違い、リアルタイムで画像を送れる携帯電話なら、感動の鮮度も損なわれない。

「そういえば」と思い出したのは、いつものように終電で自宅に帰り、一人で夕食を食べながら見ていた深夜のバラエティ番組だった。女子高校生の持ち物をチェックするコーナーで、携帯電話、音楽プレーヤー、使い捨てカメラが“三種の神器”と言われていた。

3つのうち2つが1つの製品になれば、若者はきっと反応する――。高尾の頭の中で、ロープウェイの女性、遠距離恋愛、女子高生の“三種の神器”が1つに繫がった瞬間だった。

カメラ付き携帯電話を作ると、端末が大きくなるという課題

iモードのようなサービスでもなければ、音楽プレーヤーでもない。写真を撮って送れる携帯電話こそが「メールのJ-PHONE」の進化形であり、新しい武器になる。それこそが、高尾がたどり着いた答えだった。

ところが、カメラ付き携帯電話という高尾のアイデアは、役員会で猛反対にあう。反対されるのには理由があった。

実はこの年、カメラ付き携帯電話に似た端末が、すでに2つ発売されていた。京セラが開発したカメラ付きPHSと、ケーブルで携帯電話に接続して使う三菱電機製の外付けカメラだ。だが、どちらも売れ行きはかんばしくなかった。各メーカーが端末の小型軽量化でしのぎを削る中、カメラを内蔵すると、どうしても端末のサイズが大きくなってしまう。カメラを付けても売れないと上層部が考えるのも、無理はなかった。

同時にシャープからもカメラ内蔵の端末を提案してきた

それでも高尾は譲らなかった。「必ず小さくしてみせます」と啖呵たんかを切って、なんとかゴーサインを取り付けた。しかし、メーカー2社に開発を打診してみても、「先に出た2機種が売れていないから」と立て続けに断られてしまう。

世界初のカメラ内蔵携帯電話J-SH401
世界初のカメラ内蔵携帯電話J-SH401(写真提供=「ケータイWatch」)

そんな時、高尾のもとに、広島から新しい端末の企画書を携えて、シャープの植松がやってきた。2000(平成12)年春のことだった。

「次はこんな機種を考えているんです」

そう言って植松が差し出したモックアップ(模型)を見て、高尾は驚いた。そこにはカメラが付いていた。

「同じ事を考えている人たちがいて、すごく嬉しかったですね。やっぱりシャープさんと組んだ自分の判断は間違ってなかったんだと思いました」

その瞬間の驚きと喜びを、高尾は今でも覚えている。しかし喜んだのは一瞬で、その場ですぐに植松にこう頼み込んだ。

「絶対に大きさを変えずに、カメラを入れ込んでほしい」

シャープは、J-PHONEと共同開発した2つ目の端末に、カラー液晶を搭載していた。カメラ付き携帯電話は、そのカラー液晶を生かす次の一手としてたどり着いたアイデアだった。小型カメラを内蔵した携帯情報端末をすでに商品化していたこともあり、開発する自信はあった。

開発を任されたエンジニアは「他人のまねはしたくない」

カメラ付き携帯電話の開発という難題を前に、シャープの山下が真っ先に思い浮かべたのは、変わり者のエンジニア・宮内裕正みやうちやすまさの顔だった。

現行の端末をベースに、大きさ、重さ、形を変えずにカメラを入れ込む。そんな新しいチャレンジを成功させるには、過去にとらわれない独創性が必要だった。上司である自分に「ああしたい」「こうしたい」といつも提案してくる宮内には、誰よりも豊かな想像力とアイデアがある。10年以上独学で勉強を続けるほどの努力家で、物事を途中で投げ出すことはない。もちろん高い技術力もある。

「宮内に託してみよう」

山下は腹をくくった。

山下に「やってくれ」と言われた宮内は、二つ返事で引き受けた。その理由を語る言葉に、宮内の人となりがよく表れている。

「最後発から全部抜いて一番になったら、面白くないですか? シャープがシェア1位だったら、私は魅力を感じていないと思います。人がやったことを真似するの、嫌いなんです。面白くないじゃないですか。それに、好きにやれるんじゃないかと思いました。だって最後発なんだから。失敗してもこれ以上悪くならないでしょ?」

宮内には、カメラ付き携帯電話が、他社に真似される商品になるだろうという直感があった。シャープの創業者・早川徳次は「他社がまねするような商品をつくれ」という言葉を残した。まさにそんな仕事ができる。面白そうじゃないか。失敗したからといって命まで取られることはない。プレッシャーは、ほとんど感じなかった。

前回リコールとなった端末の反省からリベンジを誓う

実は宮内は、部品の脱落でリコール騒ぎになったJ-SHO1の設計を担当していた。J-PHONEやエンドユーザーに迷惑をかけたことを申し訳なく思いながら、この失敗の損失は、これから開発する機種で利益を上げ、何倍にもして取り返そうと考えていた。

「リスクを取らなければ失敗しないが、新しい価値も生まれない。うまくいかなかったことからいかに学ぶかが重要」

座学と実験のサイクルを回し、独学で学んできた宮内の“失敗の哲学”だった。

2000(平成12)年の秋、広島。宮内は、エラーと戦い続けていた。電子回路の設計を見直しても、ノイズが消えない。試作室にこもる日々は続く。

東京では、J-PHONEの面々が総力戦で通信回線の整備を進めていた。カメラ付き携帯電話の肝は「撮って送る」ことにある。端末にカメラが付いても、それだけで写真を送ることはできない。写真という大きなデータを滞りなく送受信するためには、太い回線が不可欠だった。もし再び大規模な通信障害が起きれば、会社の致命傷になりかねない。ネットワークの強化は最重要課題となっていた。

11万画素のカメラを備えた重さ74gの「J-SH04」が完成

高尾は、祈る思いで端末の完成を待っていた。カメラがきちんと収まるのか。撮影した写真の色合いをきれいに表示できるのか。不安は尽きない。難しい要求をしていることは承知の上で、山下を信じるしかなかった。

出来上がった携帯電話は、縦12.7センチ、横3.9センチ、厚さ1.7センチ、重さ約74グラム。半年前に発売された一つ前の機種と、サイズも重さもほぼ変わらない。凹凸のない滑らかな背面に11万画素のカメラを備えた携帯電話が、ついに完成した。

2000(平成12)年11月1日、世界初のカメラ付き携帯電話J-SH04は、発売された。若い世代から人気に火が付き、わずか1年で300万台を売り上げた。他社も次々に後追いする大ヒット商品になり、J-PHONEは業界第2位に躍進した。

J-SH401の背面カメラ、自撮り用のミラーがある
写真提供=「ケータイWatch」
J-SH401の背面カメラ、自撮り用のミラーがある

「写メール」が流行語になり、J-PHONEは業界第2位に躍進

携帯電話で撮った写真をメールに添付して送るサービスは、翌年「写メール」と名付けられ、社会現象を巻き起こした。ほかの通信キャリアのユーザーも、携帯電話で写真を撮って送ることを「写メ」と呼ぶようになった。J-SH04の発売は、携帯電話や通信の歴史のみならず、日本語や文化にもその影響が刻まれる出来事となっていった。

崖っぷちだったシャープのパーソナル通信事業部は、J-SH04のヒットによって、一気に高収益の部署に躍進を遂げた。

背水の陣でJ-PHONEとの共同開発を始めてから、約3年が経過していた。事業部廃止の危機から部下たちを守り抜いた山下の胸にあふれたのは、無理難題にしか思えなかった開発をやり遂げた宮内への感謝だった。

「宮内にはね、いろんな意味で助けられました、ほんとに。感謝以外のなにものでもないです」

ただ、それを宮内本人に直接伝えたことはない。宮内も、聞いた記憶はないという。上司と部下が、互いに自らの仕事と責任を全うした。2人にとっては、それだけのことだった。

成功の立役者となった宮内は、完成した時の感慨を問われると、拍子抜けするほどあっさりした答えを返した。

「やったね。はい次行くぞ、なあ宮内君。そんな感じです」

半年も一人で試作室にこもって苦労したというのに、感動で涙することも、達成感で高揚することもなかった。しかし、その反応にこそ、宮内の人生に通底するものづくりの精神がある。

通称「ゼロヨン」はガラケーの傑作として世界を変えた

NHK「新プロジェクトX」制作班『新プロジェクトX 挑戦者たち 1』(NHK出版新書)
NHK「新プロジェクトX」制作班『新プロジェクトX 挑戦者たち 1』(NHK出版新書)

「街中で作ったものが役に立っているのを見て『よかったね』。それで終わりなんですよ、実際。ゼロヨン(J-SH04)は通過点でしかない。まだまだ画質も悪かったし、写真の写りも悪かった。改善すべき点がものすごくありました。『やったぞ!』なんて思っていなかった」

完成はしたが、ゴールではない。次はもっと違うもの、もっとすごいものを作りたい。その思いは山下も同じだった。

「私にとって、ゼロヨンは問題提起の機種です。作ってみて、次に何をしなければならないかが明確になりました。ゼロヨンは終わりじゃなくて、始まりですよね」

発売から20年以上経って、山下はゼロヨンで写真を撮ってみた。撮った画像を液晶画面で確認してつい本音が出た。「ひどい画像やな」。何年経っても、懐かしさだけで携わった製品を見ることができないのは、技術者の宿命なのかもしれない。