秦の始皇帝の天下統一には、どのような勝算があったのか。映画『キングダム』の中国史監修を務めた学習院大学名誉教授・鶴間和幸さんは「戦術にも算数が必要であったことを史実は示している」という――。

※本稿は、鶴間和幸『始皇帝の戦争と将軍たち 秦の中華統一を支えた近臣集団』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

中国北西部の陝西省西安にある秦の始皇帝の陵墓
写真=新華社/共同通信イメージズ
中国北西部の陝西省西安にある秦の始皇帝の陵墓の様子。西安は3100年以上の歴史を持つ都市で、中国史上13の王朝の都として栄えた(=2023年5月1日)

六国を制裁できたのは霊のおかげ

秦王が天下を統一して皇帝号の採用の議論をさせたときに、かれ自身こう回顧している。

「寡人(徳の少ない人という謙譲の自称)は眇眇びょうびょうたる身(小さな身)でありながら兵をおこして(六国の)暴乱を誅する(制裁する)ことができたのは(秦の)宗廟そうびょうの霊のおかげであり、六王はみな罪に服して天下は大いに平定された」

秦王の頼りにした宗廟とは、歴代の秦公(諸侯)と秦王の位牌を置いて祭祀さいしする場所であり、このときは古都雍城ようじょう咸陽かんように分散して置かれていた。

中国古代では、宗廟は軍事・外交と関係が深い。春秋時代、将軍はびょう(宗廟)で命令を受け、社(社稷しゃしょく)で祭肉を受けた。

墓から発掘された象牙の算木

『孫子 計篇けいへん』に見える「廟算びょうさん」ということばは、戦争の前に先祖の廟の前で戦闘の勝算をはかることであり、これが実戦の勝敗を大きく左右した。廟策、廟謀、廟略ともいう。

廟算も勝算も、同じ系統のことばである。私たちにとっては勝算ということばの方が慣れており、「勝算のない戦争」や「勝算のない試合」といったように用いている。

宗廟は戦争の前にはめいを受け、後に戦果を報告する場所であったから、実際に戦争を算段する空間があったのであろう。そして廟算の算はまさに算木を使った算数計算をいい、戦術にも算数が必要であったことを示している。

近年になって秦王嬴政えいせいの祖母、荘襄そうじょう王の実母の夏太后かたいごうの墓が発掘され、そこから白色(一本)と紅白(二九本)と紅黒こうこく(二八本)に彩色された象牙製の算木が出土している。紅白は正数、紅黒は負数を表していると考えられており、複雑な算数計算のために必要な工具であった。

老将と壮年将の対楚戦をめぐる駆け引き

秦王(三六歳)と老将王翦おうせん、壮年将軍李信りしんの対楚戦をめぐる駆け引きが、王翦列伝に詳しく記されている。秦王は二人を呼び、楚を攻めるのに必要な兵数を尋ねた。李信は二〇万で十分といい、王翦は六〇万でなければだめだと答えた。王翦は戦う前から綿密に廟算した数値を出したのであろう。しかし秦王は李信に任せ、王翦は病気を理由に帰郷した。

筆者はこれまで、老獪ろうかいで経験豊富な王翦だから六〇万、李信の若さゆえの過信が二〇万という数字を漠然と挙げたのだと考えていた。しかし六〇万には確固たる根拠があったのだと考えるようになった。

秦と楚は、あい拮抗する軍事力をもち、帯甲(よろいの武装兵)一〇〇万、戦車一〇〇〇乗、騎兵一万匹(馬の数)の大国であった。相違点は、秦の本土は地方二五〇〇里の四塞の地に対して、楚は地方五〇〇〇余里の広大な土地を持つことである。

一〇〇万の軍事力をもつ本土の秦から六〇万も楚に動員することは、これまでには出来ない作戦であった。しかし当時の状況は、三晋とよばれた中原の三国(韓・趙・魏)はすでに滅んでおり、残されたのは燕・斉と楚であった。本土の秦を守る兵士を総動員して、軍事大国楚に向けようとしたのである。

茂みの中の兵馬俑
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『算数書』に記された兵士動員比率

李信のいう二〇万も計算された数字であるが、王翦は楚の一〇〇万に対抗するには無謀と考えたのであろう。

案の定、二〇万の李信軍は楚軍に敗れた。二〇万をさらに李信と蒙恬もうてんの二軍に分割して攻める作戦はうまく機能せず、三日三晩昼夜をおかず果敢に攻めてきた楚軍に敗北した。

岳麓秦簡がくろくしんかんの『算数書』には、兵士の徴発に関する設問があった。

「凡そ三郷に、其の一郷より卒千人、一郷より七百人、一郷より五百人とすれば、今、上は千人に帰し、人数を以てこれを衰せんと欲すれば、問うに幾何より幾何に帰せん」

三つのきょうからの動員の比率を千対七百対五百(一〇対七対五)として上限を千人とした場合、それぞれ何人となるか。

その解答は、四五四人と二二〇〇分の一二〇〇人、三一八人と二二〇〇分の四〇〇人、二二七人と二二〇〇分の六〇〇人となっている。四五四人と三一八人と二二七人を足せば九九九人、分数分は足せば一人となり、合計千人となる。一家族から成年男子を一人か二人徴発する場合、郷ごとに動員数は異なるので、それを考慮した計算である。

総動員でなければダメだと念押し

前出の六〇万は概数ではあるが、この『算数書』のような王翦の計算結果の数値であり、畿内の兵士を総動員するのは大きな決断であったと思う。

設問の千人の六〇〇倍で、六〇万となる。六〇万は概数でも、内史(畿内)の県(三一県から四一県ほど)の下の郷からは、人口に応じた端数の数字を出さなければ負担の平等にはならない。一県に五郷(県城にある都郷と東西南北の郷)あるとすれば、四一県で二〇五郷。一郷につき千人なので、二〇万五千人となる設問の数値は、李信が提示した二〇万に相当する。王翦はその三倍の動員を要求したのであるから、文字通り総動員であった。

整列する兵馬俑
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さきに秦王は王翦に、将軍の「計」を用いなかったために李信が秦軍を辱める結果になったと謝った。再度六〇万でなければだめだと念を押す王翦に、秦王は将軍の「計」を聴くのみだと述べている。この「計」とは漠然とした軍の「計略」というよりは、六〇万という数値をはじき出した「計算」を指しているのだろう。

老将の秦王への忠臣

秦王は、咸陽からわざわざ東の灞水はすいのほとりまで赴き、六〇万の軍を見送った。列伝ではその理由は述べられていないが、灞水を渡ると驪山りざん(標高一三〇二メートルの山岳)があり、その山麓には曽祖父・昭王と、父・荘襄王の陵墓である東陵と廟があった。みずからの陵墓も驪山北麓に建設中であった。秦王は、この東陵の先王廟に王翦と兵士たちを拝礼させ、戦地に向かう決意を固めさせたのかもしれない。

王翦軍はそのあと「関」を出たと記されている。対楚戦なので、この関は函谷関かんこくかんではなく南の武関であろう。武関であれば、先王二廟は通り道である。

半世紀前の昭王の前二七八年に楚都・えいを陥落させたのは、白起将軍であった。王翦将軍は、昭王廟で同じ秦の内史出身の白起の事績を思い起こし、対楚戦の手本としたのではないだろうか。

王翦は、秦の本土を守る六〇万もの兵士を配下に置いて関外に出すことに、秦王が疑いを持つことを懸念した。そこで、わざと事前に行賞を求め、秦という国家に反する気持ちがないことを示した。王翦は灞水の地で秦王に直接、子孫のために美田(肥えた土地)・邸宅・園池を残したいと訴え、秦王に笑われた。秦王と別れた後は、関所にいたるまで五度も使者を都に送って善田(美田と同じ)を請うた。このときの秦王は、王翦の裏までは読めなかっただろう。

不利を有利にする見事な勝算

王翦は都咸陽東北の頻陽ひんよう県東郷で育ち、若いときから兵事が好きであった。配下六〇万の兵士からの信頼は厚かったと思う。楚軍が攻めてきても正面から向かわず、まず引いて防塁を固めて立てこもった。

鶴間和幸『始皇帝の戦争と将軍たち 秦の中華統一を支えた近臣集団』(朝日新書)
鶴間和幸『始皇帝の戦争と将軍たち 秦の中華統一を支えた近臣集団』(朝日新書)

秦軍にとって対楚戦の不利な点は、長距離の行軍による疲労である。兵士たちには休養を十分に与え、洗沐せんもく(身体を洗い、髪をあらうこと)までさせた。食糧も十分に与え、王翦は兵士と同じ飯を口にした。持て余した時間に投石で距離を競うことに興ずる余裕の様子を見せた。遊びであっても、いしゆみを引く筋力を鍛えるのに役立つ。

王翦は準備が万全と判断し、東に引いた楚軍を一気に追撃した。さきの李信軍とは異なり、六〇万の休養十分な大軍が団結して楚軍を攻めたことに勝算があったのであろう。こうして楚の将軍の項燕こうえんを殺し、楚都の寿春では楚王の負芻ふすうを捕虜とし、楚地は秦の支配下に入った。始皇二三(前二二四)年、秦王みずから楚の旧都の陳の地を訪れたと記録されている。王翦に任せた戦地への慰問であったのだろう。

一部が欠けた数々の兵馬俑
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