新1万円札の顔、渋沢栄一は妻と妾を同居させ、子を総勢17人以上作るなど、私生活もエネルギッシュだった。経営史学者の菊地浩之さんは「嫡男も女性問題を起こし廃嫡に。栄一は成績優秀な孫の敬三を後継者にしようと考え、仙台二高に行かせるとき、知人に『(自分の)女性問題があって教育がやりくにいから、後見してくれ』と頼み込んだ」という――。

渋沢栄一のバイブル『論語』には「姦淫するなかれ」がない

新1万円札の顔になった渋沢栄一しぶさわえいいち(1840~1931年)。彼が提唱した「論語と算盤」について、娘たちは論語とはいいものを見つけたわねと皮肉った。これが聖書だと、自身の女性関係が問題になるが、論語にはそうした訓戒がないからだ。渋沢栄一はビジネスも女性関係も派手だった。

嫡男(長男が夭折しているので次男)の渋沢篤二とくじ(1872~1942)は、旧制第五高等学校(熊本市)に入学。「そこの土地の娘と恋が芽生えた。一途な情熱は、彼に金を惜しみなく浪費させた。栄一はじめ二人の姉たちは、『すわお家の一大事』と、慌てて退学させ帰京させてしまった」(『徳川慶喜最後の寵臣 渋沢栄一』)という。

その事件のほとぼりが冷めた1895年、篤二は橋本敦子と結婚した。姉の嫁ぎ先の近所に住んでいた元公卿の家柄で、和宮の血縁にあたる名家である。

篤二は文芸方面には優れた才能を見せ、名犬を育てることが上手なブリーダーとしても有名になったそうだが、ビジネス方面には興味がなかったらしい。さすがの渋沢栄一もこれではいかんと考え、1913年に篤二を廃嫡(家督相続人から除外)処分とし、篤二の長男・渋沢敬三けいぞう(1896~1963)を後継者とした。

勉強のできる孫の敬三に期待をかけたが、結婚相手が問題に

栄一は敬三を極めて高く買っていた。敬三は旧制第二高等学校(仙台市)に入学したが、篤二の二の舞にしてはならないと、仙台在住の知人に監督を依頼した。

渋沢栄一の跡を継いだ孫・渋沢敬三
渋沢栄一の跡を継いだ孫・渋沢敬三(1956年、写真=木村伊兵衛/港区立図書館/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

その知人・早川知寛ともひろの子である退蔵の述懐によれば、「うちの親父に渋沢(栄一)さんから、えらい長い手紙がきた。『この孫は、自分の子供や孫のうちで一番出来できがいい。この孫に自分は非常に期待をかけているんだ』、そして『恥かしい話だけれども、女性の問題ではいろいろあって、教育やりにくい点がある。とにかくこの孫に、自分は、えらい期待をかけているんだから、(敬三が)仙台に行ったら、あなた(知寛)が後見をしてくれ。時々呼びつけて訓戒をしてくれ』と、こんこんと頼んだ手紙だと言うんだね。それで、(知寛は敬三を)呼びつけて『敬三、敬三』と言ってやったと言うんだ」(渋沢敬三伝記編纂刊行会編『渋沢敬三』)。

おかげさまで、敬三は女性問題を起こすようなことはしなかった。結婚したいと、ちゃんとしたお嬢さんを家に連れてきた。京都府知事の木内重四郎きうちじゅうしろうの長女・登喜子ときこである。敬三が親友・木内良胤よしたねの家に遊びに行っているうちに、その妹と恋仲になってしまったのだ。

【図表】渋沢栄一から3代の家系図
筆者作成

大げんかをして決別した三菱創始者・岩崎弥太郎の孫娘だった

ところが、渋沢栄一は頭を抱えた。登喜子の母は、三菱の創始者である岩崎弥太郎の次女。つまり、溺愛する孫の結婚相手がこともあろうに、あの岩崎弥太郎の孫娘なのである。栄一と弥太郎はどちらも明治を代表する経済界の重鎮であり、栄一が岩崎弥太郎の協力を得て東京海上保険会社を創設したこともあったが、経営についての考えが相容れず大激論となって、以来、不仲だった。

栄一の前半生は大河ドラマ「青天を衝け」(NHK)でも描かれたように、激動でかつ本人も血の気が多かったのだが、晩年は家族に優しい好々爺こうこうやだったようだ。結局、弥太郎の孫といっても「岩崎家の人間じゃなく、木内家の人なんだから」という妙なリクツで許したらしい。なんか曖昧な決着で、いかにも日本人らしい。

昭和天皇との会食を終え退出した渋沢栄一(右)。左は付き添った孫の渋沢敬三=1929年12月19日、宮内省玄関前(日本電報通信社撮影)
写真提供=共同通信社
昭和天皇との会食を終え退出した渋沢栄一(右)。左は付き添った孫の渋沢敬三=1929年12月19日、宮内省玄関前(日本電報通信社撮影)

渋沢栄一が譲歩したのは、渋沢敬三に進学希望を諦めさせた負い目があったからではないか。敬三は本当は動物学者になりたかった。

敬三は旧制第二高等学校の英法科に進んだのだが、どうしても動物学を学びたい気持ちが抑えられず、祖父・渋沢栄一に理系の学科への転部を願い出た。

敬三は旧制高校時代に「理転」したいと祖父に懇願した

栄一はいろいろな企業を興したが、最初につくった第一銀行(旧・第一国立銀行。第一勧業銀行を経て、現・みずほ銀行)に強い思い入れがあったようだ。三男から五男を大学卒業後に銀行に就職させている。ところが、みんな入行2~3年でやめてしまった。三男は航空機製造、四男は造船会社から自動車製造・製鉄会社とメーカー好きで、五男は都市開発会社から東宝に転職した。

嫡男の篤二もそうだったが、栄一の息子たちは、あまり創造性が発揮できない銀行業には不向きだったのだ(栄一自身もクリエイティブ人材なんだから、実際は銀行業務は不向きだったのだろう)。しかし、栄一としては渋沢家の跡取りを第一銀行の頭取に据えたかったのだろう。だから、かわいい孫・敬三の望みを聞き入れて、動物学者にする訳にはいかない。

敬三はその時のことを述懐する。

「そのうち祖父(栄一)とメシを食うことになって会ったら、祖父はまじめな顔をして、お頼みすると言い出した。頼むと言った。お前の言うことはわかっておる。悪いとは言わんけれども、おまえもおれの言うことを聞いてくれといわれた。あれだけの人物から本気になって、ほんとうに頼むと言われると、ホロリとなっちゃう。それで、しょうがありません。承知しましたと言ってから、不意に涙が出て困ったのを覚えて居る。すると祖父はホロリと涙を出した」(『渋沢敬三』)。

ホントは動物学者になりたかったけど、渋沢栄一の孫に生まれたから、やむなく家業の銀行を継いだ。ただ、そこから先がすごかった。

第一銀行副頭取から日銀総裁へとエリート街道をばく進

渋沢敬三は東京帝国大学経済学部を卒業。横浜正金銀行を経て、29歳で第一銀行取締役に就任、45歳で副頭取に就任した。第一銀行はおじいちゃんの渋沢栄一がつくった銀行なので、これはコネによるものだろう。だが、その先がスゴイ。

1942年3月、第二次世界大戦勃発で日本の金融界が混乱する中、日本銀行副総裁に引き抜かれる。これには当人も辞去し、第一銀行の重役たちも「これは跡取り(息子)だから、養子にくれというのはひどい」と大反対。最後には内閣総理大臣・東条英機が出馬して、サーベルをガチャガチャさせながら、半ば脅して承知させたという逸話が残っている(これだから東条英機は人気がない)。

1944年3月に47歳で日本銀行総裁に就任した。これは思いがけず親孝行になった。母・敦子が泣いて喜んだという。「第一銀行の頭取(実際は副頭取)になるのは親の七光りであるけれども、祖父(栄一)が死んで十年以上たって、とつぜん日銀に迎えられたことはたんなる親の七光りだけではない。これで自分も冥土へ行って、父や祖父にあわす顔がある」(『瞬間の累積』)。

マネジメントに優れた敬三は、終戦後に大蔵大臣に

そして、翌1945年8月に日本は敗戦。同年10月に幣原喜重郎しではらきじゅうろうが総理大臣として内閣を組閣すると、敬三に大蔵大臣としての入閣を懇望。49歳で大蔵大臣を務めた。

幣原内閣発足の記念撮影。前列左から4人目が幣原喜重郎総理、前列最右が吉田茂外務大臣、後列右から2人目が渋沢敬三大蔵大臣
幣原内閣発足の記念撮影。前列左から4人目が幣原喜重郎総理、前列最右が吉田茂外務大臣、後列左から2人目が渋沢敬三大蔵大臣(1945年、写真=朝日新聞社/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

つまり、40代後半で、民間銀行の副頭取、日本銀行総裁、大蔵大臣を総なめした金融界のトップなのである。

しかし、本人は「私は実業に志してはいなかったので、銀行は大切だと思いましたが面白いと思ったことは余りありません。しかし、真面目につとめておりました。が、人を押しのけてまで働こうという意志もありませんでした」と語っている。

では、そんな渋沢敬三がなぜこんなに評価されたのか。実はマネジメント能力に優れていたという証言がある。

親友の中山正則は座談会で「それ(マネジメント)は、やつ(敬三)の本職だよ。(友人たちと旅行をすると)よその掛け合いだって何だってかんだって(敬三が一人で)みんなした。好きなんじゃないのかな。性格的にもそういうところがありました。世故せこにたけていた。世情に幾らか、おたくのナンで苦労、修練を積んだんだろうね。僕らの知らないことを、よく細かく気がついて、実に綿密に、細かく用意周到でしたよ。人事でもなんでもかんでも、実に細かく注意行き届きましたね。周到なる用意とか、配慮とか、そういうことはわれわれ学ぶべくもなかった」と述懐している(『渋沢敬三』)。

昭和天皇とも生物学の話で意気投合し2時間も話し込んだ

敬三は大蔵大臣に就任して半年後、内閣総辞職により蔵相を辞任するが、戦後の混乱の中、預金封鎖、新円切り替えなどに取り組んだ。その後、高松宮家の財政顧問となる。

ちなみに、昭和天皇も生物学の研究で知られている。「後年大蔵大臣を勤めていた当時、政務奏上のために(昭和)天皇陛下に拝謁したが、たまたまヒドラや海牛の話となり、財政の政務はそっちのけで二時間近くも話しこんでしまい、後で陛下が、『渋沢はいったい何の大臣であったか』とお聞きになったという話が残っている」(『父・渋沢敬三』)。

ここにも、ホントは生物学者になりたかったけど、天皇家に生まれたから、やむなく家業を継いだ、悲しい名君の存在が示唆される。

意外に適性というものは本人にはわからないものらしい。かくいう筆者も本業はソフトウェア技術者で、この原稿を土日に書いている。