新1万円札の顔である渋沢栄一は、幕末期に一橋慶喜(のちの将軍・徳川慶喜)の家臣としてキャリアをスタートし、明治政府で活躍したのち民間に下り、銀行など多くの企業を立ち上げた。経営史学者の菊地浩之さんは「渋沢は、岩崎弥太郎が始めた三菱や商家から拡大していった三井のように、作り上げた多くの会社を財閥にしようと思えばできたのにしなかった」という――。

明治維新後、日本のインフラ企業を作ったのは渋沢栄一

2024年7月3日、40年ぶりに1万円札の新札が登場する。渋沢栄一だ。

幕臣時代の渋沢栄一
幕臣時代の渋沢栄一(1866年、画像=PROJECT DESIGN ONLINE/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

インフラっぽい会社の創業をたどると、だいたいそこには渋沢栄一がいる。日本初の銀行を設立したのも栄一だし、そもそも「銀行」という語を決めたのも栄一だという。その他にも電力(東京電力)、ガス(東京ガス)、損害保険(東京海上日動火災保険)、製紙(王子ホールディングス)……。実質的な創業者ではないが、設立に関与した会社というのであれば、星の数ほどある。会社以外にも東京株式取引所、商法講習所(一橋大学)の設立に参画。とにかく、何でもかんでも一枚んでいる。

一橋(徳川)慶喜
一橋(徳川)慶喜(1867年、画像=Bakumatsu Meiji Kosha Shincho/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

一体何社作ったのか。国立印刷局のサイトでは「表面には、生涯に約500もの企業の設立などに関わったといわれ、実業界で活躍した渋沢栄一」と紹介されている(国立印刷局「新しい日本銀行券特設サイト 新しい一万円札について」)。

ところが、渋沢財閥とか、渋沢グループといったワードを聞いたことがない。こんなにがんばったんだったら、三井・三菱・住友・渋沢くらいになってもおかしくないのに……。なぜなのか。

戦後に財閥は解体されるが、GHQも「渋沢」を財閥とせず

1945年8月、日本は第二次世界大戦に敗れ、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が日本を占領すると、「日本みたいなチッポケな国が世界を相手に戦争ができたのは、一握りの財閥が軍部と結託したため」ということで、財閥解体が実施された。その時、「十大財閥」が指定されたのだが……シブサワは選に漏れました(残念でした)。

GHQも当初は渋沢が財閥だと考えていた。しかし、よくよく調べてみると……どうやら違うみたいだネ……ということになったらしい。

では、仮に渋沢財閥があったとしたら、その候補はどういった会社で構成されていたのだろうか。戦前の書籍などから考察すると、以下のような布陣になる。

持株会社

渋沢同族株式会社
合資会社有終ゆうしゅう会(現・有終コーポレーション)

第一銀行系

第一銀行
第一信託(朝日銀行を経て、第一銀行に吸収合併)
東京貯蓄銀行(協和銀行を経て、現・りそな銀行)
渋沢倉庫

石川島造船所系

東京石川島造船所(石川島播磨重工業を経て、現・IHI)
石川島飛行機製作所(立川飛行機を経て、現・立飛たちひホールディングス)
自動車工業(現・いすゞ自動車)

このうち、自動車工業と石川島飛行機製作所は東京石川島造船所を母体としており、金融機関と渋沢倉庫は第一銀行の傘下にある。

「創るけど、支配せず」の渋沢にとって株式会社は理想的

つまり、渋沢家が持株会社(渋沢同族、有終会)のほぼ全額を出資し、持株会社が第一銀行と東京石川島造船所の株式を過半数所有していれば、渋沢財閥が完成する――のだが、実際にはそうなっていない。持株会社を含め、渋沢系で第一銀行の株式の6.4%しか所有していないし、東京石川島造船所の株式も5.7%しか所有していないのだ。だから、財閥とはいえない。

先に渋沢財閥の持株会社として、渋沢同族と有終会を紹介したのだが、実際のところ、渋沢同族は渋沢家の資産管理会社。有終会は第一銀行行員の福利厚生機関でしかなかったようだ。

渋沢栄一はあんなにも多くの会社をつくったのに、なぜそれらを自分の支配下に置かなかったのか。

栄一は渡欧経験があり、西洋文明のすばらしさを身をもって感じていた。それを日本にも広めたい。その思いが強かったこともあろうが、それ以上に新しい産業・会社を興すことが好きだったのだろう。性格的な問題だ。ものを創ること自体に喜びを見出すような人物は、できたものの維持運営には往々にして興味がない。

栄一もご多分に漏れず、設立した会社で金儲けすることには、あまり興味がなかったらしい。それらの会社を自らの支配下に置き続けるには、株式を保有し続けることが必要だが、栄一はそれを売却して資金を用立て、次の会社を設立する原資とした。

できたものを維持運営するカネがあるなら、それで新しい事業を興したい。できた会社を支配するつもりがないから、出資は最低限でいい。残りのカネは合本がっぽん(株式会社方式で広く出資を募る)で集めよう! 株式会社は栄一の理想に極めて合致したビジネス・システムだったのである。

【図表1】渋沢栄一とその一族関連企業の株主構造

渋沢の「自分だって三井や三菱に負けなかった」発言

晩年、渋沢栄一は「わしがもし一身一家の富むことばかりを考えたら、三井や岩崎(三菱)にも負けなかったろうよ。これは負け惜しみではないぞ」と子どもたちに語ったという。カッコイイけれど、栄一はどんなにがんばってもやっぱり三井・三菱には勝てなかったと思う。

岩崎弥太郎の肖像
岩崎弥太郎の肖像(1874年、画像=世界の歴史まっぷ/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

他の例を見ると、大倉財閥の創始者・大倉喜八郎は、栄一と同じく初物好きで、産業連関に関係なく、興味ある事業に手を出していった。喜八郎の死後、残された番頭たちは、まずその脈絡のない事業の整理からはじめねばならなかった。

跡継ぎの大倉喜七郎は戦後ホテルオークラを創業したくらいなので、優秀だったのだが、実態は父と同じだった。創業は好きだが、守成は苦手。好きな産業(ホテル・観光)にしか興味を示さない。当然、父の遺業の整理には向かない。番頭たちから、喜七郎は趣味人で無能と思われていた。喜七郎の才能が開花するのは、財閥が解体された戦後のことだった。

仮に渋沢財閥ができても同じ道をたどったと思う。渋沢栄一は第一銀行への思い入れが強く、子どもたちを銀行に入れたが、誰一人として続かなかった。父親や周囲の思惑と、子どもの興味・適性は異なるのである。

三井と三菱は経営向きの学卒者を大量採用して財閥を築いた

大倉喜八郎の死後、大倉財閥が混迷したのは、後継者が育っていなかったからだ。ただし、三井・住友は財閥当主が直接経営しなくても、有能な番頭たちが経営をリードすればどうにかなる。

三井・三菱が成功したのは、学卒者を定期的に大量採用することに積極的だったからだ。

たとえば、銀行業務でソロバンをやらせたら、大卒社員より商業高校出身者の方が秀でているだろう。しかし、今後の経済状況を俯瞰し、銀行がどういう方向に進んでいけばいいか。事務合理化をどのように進めていけばいいか。それにどれくらい経費をかけることが可能か……といった、実務ではなく経営戦略を立案して組織運営する話になると、大卒の方が一日の長がある(むろん個人差はある。確率の話である)。

1943年に第一銀行が三井銀行と合併すると、三井に比べて学歴の劣る第一銀行行員は不遇をかこい、不満が爆発して5年後に再分離している。換言するなら、栄一は学卒者の採用に必ずしも積極的ではなかったということだ。

これは栄一のビジネススタイルに大きく影響している。

公益のために尽くした栄一だからこそ、新札にふさわしい

栄一にとって「人材」とは、「自分の代わりに事業を続けてくれる人間」である。栄一は次から次へと会社を創っていくが、それらの維持運営には興味がない。あとは誰か優秀な人材に託すしかない。そのためのピンポイントな人材である。

栄一が創った王子製紙。たまたま採用された甥の大川平三郎は、技術指導する外国人が手抜きで高慢ちきなことにがまんできず、独学で技術を習得して外国人を追い出した。そして、会社に建言して欧米に留学させてもらい、新技術を習得して会社の成長に大きく貢献した。

同様の事例は三菱でもあった。造船所で技術指導する外国人がやっぱり手抜きで高慢ちきだったのだ。そこで、2代目の岩崎弥之助は東京大学から理系社員を採用し、定期的に欧米に留学させて技術を習得させ、やっぱり外国人を追い出した。

ここでも、あとを託すべき一人を育成する渋沢流と、大量採用して育成する三井・三菱流の違いが見て取れる。

渋沢栄一は学問を好み、教育機関への投資も積極的に行っていたが、それは自分の事業のためではなく、日本国家のためだった。これに対し、三菱の岩崎弥太郎の人材育成は、すべて三菱(=自分)のためだった。

栄一の視点は広すぎて、自分のためにはなっていない。

私のためではなく、公のために尽くした栄一だからこそ、新1万円札の顔にはふさわしいとも言える。

新紙幣/新しい1万円札のサンプル
写真=時事通信フォト
報道陣に公開された新しい1万円札のサンプル=2024年6月19日、東京都北区

しかし、そんな生き方を貫いた栄一だが、女性関係はかなり派手だった。後編では、その私生活とたくさんいる子孫の家系図を紹介する。