※本稿は、増田賢作著、小和田哲男監修『リーダーは日本史に学べ 武将に学ぶマネジメントの本質34』(ダイヤモンド社)の一部を再編集したものです。
敵だけでなく家臣にも厳しく、追放・粛正した織田信長
渡哲也、舘ひろし、吉川晃司、反町隆史……ちょっと硬派で強面な印象のある俳優が大河ドラマで演じた戦国武将が、織田信長(1534~82年)です。
最近は岡田准一、染谷将太など、甘いマスクの俳優も信長を演じていますが、ドラマでは強面のキャラクターになっています。
このように、現代に至るまで、信長は“恐いキャラクター”のイメージが強いです。
実際の信長は、強面な人だったのでしょうか?
この点については、信長の家臣・太田牛一(1527〜1613年)が、信長の死後に著した『信長公記』が参考となります。
信長の一代記であり、戦国時代から安土桃山時代にかけての史料でもあるこの書には、信長の過酷さが描かれています。
信長を高く評価する牛一でさえ、「哀れなこと、目も当てられなかった」といった表現が見られます。
ちょっと遊びに出かけただけの女性の部下を容赦なく処刑
そんななかで、私がいちばん驚いたのが、安土城の女房(現代風にいうと女性秘書)を成敗(処刑)した事件(1581年)です。
信長が琵琶湖の北部にある竹生島という無人島に参詣したときのこと。安土城から竹生島は片道15里(約59km)、往復30里(約118km)の距離があるため、女房たちは「信長様は長浜に宿泊し、明日お帰りになる」と思い込み、遊びに出かけました。
ところが、元来せっかちな気質の信長は、竹生島からなんと日帰りで戻ってきたのです。馬や徒歩の時代ですから、往復118kmを日帰りするのは、牛一が「このようなことは聞いたこともない」と書いているほどの強行でした。
そして、女房たちが遊びに出かけたことに気づいた信長は、遊び怠けていた者を縛り上げるとともに、寺に遊びに行っていた女房たちに出頭するように命じます。
このとき、寺の長老が「お慈悲をもって女房衆をお助けください」と懇願したところ、なんとその長老も女房たちと一緒に処刑してしまったのです。
戦国時代とはいえど、少し持ち場を離れて遊びに出かけただけで、関係者を含めて処刑するというのは、いささか常軌を逸しています。
ほかにも鷹狩りに向かう道に、誤って石を落とした家臣を処刑するなど、少しのミスや怠慢も許さなかったことが『信長公記』に記されています。
信長自身は健康でタフ、さぼる人の気持ちが理解できなかった
織田信長が少々の怠慢やミスさえ許せなかった理由の1つに、信長が病気になることもなく頑強で、またたいへん勤勉でもあったため、弱い人の気持ちや過ちが理解できなかったことがあるのではないかと想像します。
戦国武将の病気の記録はたくさん残っているのに、これだけ有名な信長の病気に関わる記録はありません。
信長は、天下統一を目指す拠点とした岐阜城と、ふもとの住居との間を1時間半かけて日常的に往復し、さらに現在の10階建てビルに相当する安土城の階段も日々上り下りしていました。
このような日ごろの鍛錬もあってか、病気にならないほど頑強なフィジカルの持ち主だったのです。
また、朝も明けがたには起き、『信長公記』を読んでいると、常に働いているくらいに勤勉でもありました。
現代でも、頑強で、勤勉な経営者や管理職ほど、当然の権利であるにもかかわらず、部下が休暇や休憩をとったりすることを快く思えなかったりする面があります。私がコンサルティングで携わった経営者や管理職にも、病気で休みをとることさえ怠けていると捉えてしまい、自分が休みをとらないことを誇りであるかのように振る舞う人が少なからずいました。
部下が休むと「なんで休むんだ」と責めてしまうパワハラ上司
部下が休むと、「なんで休むんだ」と、いまならコンプライアンスに抵触するような指摘をするケースもありました。
そういう上司が組織を支配していると、病気になっても有給休暇がとりにくい状況が生じてしまいます。そんな会社が、世の中に価値ある商品やサービスを継続的に提供することができるのでしょうか。
社員たちは萎縮し、疲弊し、顧客の気持ちを考える余裕もなくしてしまいがちです。そういう組織は、往々にして社員の定着率が低く、有能な人材が他社に流出してしまいがちでもあります。
会社は株主のものではありますが、一方で実質的に収益を生み出す社員のものという一面もあると思います。
そういう見地からすると、社員が幸せになることが、世の中に価値ある商品やサービスを提供することにつながり、その見返りとして収益を得られ、会社を繁栄させるというのが真理だと思うのです。
女房たちを処刑した翌年、信長は本能寺で光秀に討たれる
織田信長にしても、安土城の女房たちを処刑した翌年、明智光秀によるクーデターである本能寺の変で亡くなります。
明智光秀がクーデターを起こした動機は永遠の謎とされていますが、部下に厳しい信長の姿勢が光秀の反乱につながった可能性はあります。
実際、織田家の筆頭家老・佐久間信盛(1528~82年)は、長年、信長に仕えてきたにもかかわらず、本能寺の変の約2年前に突如追放され、高野山(和歌山)などで放浪した後、死去しています。
前出の『信長公記』によると、信長は19カ条もの痛烈な批判を込めた「折檻状」を信盛に突きつけています。これは事実上の解雇通知ともいえますが、10年近く前に佐久間が戦で負けたこと、信長に素直に従わなかったことを追放の理由としてあげています。
長年仕えた重臣でも、過去の失敗を許すことなく追放する信長の姿勢は、功績をあげている明智光秀のような武将でさえ、「いつかは自分も佐久間と同じように追放されてしまうのではないか」と考えて、クーデターに向かわせたとも考えられるでしょう。
頑強な人が悪いということではありません。むしろ、たいへん素晴らしいことです。ただ、そういう人ほど部下の気持ちを考え、人材の扱いには注意が必要だということです。
好感がもてない人の悪いところばかり見てしまう傾向
徳川家康は「人のよし悪しを見るときに、どうかすると自分の好みに引っ張られて、自分が好きなほうをよしとするものだ」といいました。
私自身も、かつては自分の好みに引っ張られて、好感をもてない人に対しては、悪いところばかりが目について仕方ありませんでした。
私は現在、経営コンサルタントをしていますが、以前はいくつかの企業に勤め、起業したこともありました。
自分でいうのもなんですが、私は外見からはおおらかで穏やかそうに見られることが多いのですが、じつはちょっと短気なところがあり、家族や付き合いの長い人からは、よく指摘されることがあります。
そんな性格もあってか、以前は、好感をもてない人の悪い面がいったん気になってしまうと、イライラしてそのことで頭がいっぱいになることさえありました。イライラが抑えられず、相手によっては、辛く当たることもあったのです。
自分が残業も苦にならないので部下にも同じ働き方を求めた
西郷隆盛が薩摩藩主・島津久光を「地五郎(薩摩弁で田舎者)」と揶揄したように、「そんなことも知らないんですか」などと周囲の人を見下すようなことも過去にはありました。
さらに、織田信長ほど過激ではありませんが、深夜残業や休日勤務も苦にならない私は、同僚や部下にも同じような働き方を求めたこともありました。
もちろん、そんな態度や言動をとっても、何もよいことはありませんでした。むしろストレスを増幅させてしまいました。
イライラして部下に辛く当たっても、素直に意見を聞き入れて、動いてくれることはありません。それどころか、潮が引いていくように、部下の心が私から離れていくことがよくわかりました。
そんな苦い経験をするうちに、自己中心的だった自分自身を客観視できるようになったのです。
自分の好みに引っ張られるのも、イライラして辛く当たるのも、自分と同じような働き方を求めるのも、すべて自己中心的で独善的な考え方に執着していたから。そして、そんな自分にうすうす気づいていながらも、自分の負の面を認められなかったのです。
そんな自分の姿が、西郷隆盛や織田信長の負の面と重なったのです。
自分の負の面を見つめないと人間として成長できない
歴史学者・家近良樹さんの著作『西郷隆盛 維新150年目の真実』を読んで、西郷が島津を「地五郎」呼ばわりしたことも災いして遠島になった際、自分のこれまでを反省し、人格者として磨かれたと知り、西郷の心境が自分自身に重なりました。
うまくいかないことについて、自分に問題がないかを考えなければ、人間的に成長しないと気づかされたのです。
いまでも、そういう傾向がまったくないとは断言できませんが、以前よりは自分を客観視できるようになり、ちょっと性格が合わない人でも、心を落ち着かせて真摯に耳を傾けられるようになったと思っています。
そのように変わったのは、相手の立場や心情を考えるようになったこと、自分が完璧なわけではないと悟るようになったこと、それに「役(立場)を演じる」という意識が芽生え、思ったことを直言しなくなったことも理由としてあります。
歴史上の偉人であっても、私と同様、不完全な面があります。
そして、不完全なところからどのように成長したのかに学ぶとともに、不完全なままだったことが招いた失敗を反面教師にすることが、歴史に学ぶ醍醐味だと感じます。