※本稿は、佐賀千惠美『三淵嘉子・中田正子・久米愛 日本初の女性法律家たち』(日本評論社)の一部を,再編集したものです。
家庭裁判所が作られ、戦争未亡人の嘉子は司法局から異動
豊かな家庭を作り、少年を守るため、家庭裁判所が作られた。昭和24年(1949年)1月1日である。最高裁判所の事務総局にも「家庭局」を設けた。嘉子は家庭局にまわされた。同僚の目に、嘉子はどう映ったか。八島俊夫は言っている。八島は後に、名古屋大学の名誉教授になった。
私たちは、よき上司、すばらしい先輩としてだけでなく、その人柄に身近な親しみをもって接して(中略)おりました。(中略)
昭和24年といえば、まだ食糧事情の不自由な時でしたが、仕事でおそくなったときなど、スルメやコロッケをさかなにして、焼酎で一杯やることがありました。時々、市川課長さん(元東京高等裁判所長官)から、貴重なウィスキーの差入れがあり大喜びしたこともあります。そんなとき、和田さんは、よく顔を出しておられました。
和田さんは、『コロッケのうた』や『うちのパパとママ』などうたわれましたが、皆が希望したのは、当時流行していた『リンゴのうた』でした。本当に、リンゴのように真っ赤なほっぺをして、きれいなアルトでたのしそうにうたっておられました。」
(『追想のひと三淵嘉子』)宴席ではアルトで『うちのパパとママ』『リンゴのうた』を
彼女の歌は裁判官だった市川四郎も覚えている。
「丸いにこやかな顔で歌う“リンゴの歌”はほんとうに紅いリンゴそのもののように愛らしく楽しく、皆が自然に手をたたいて唱和するように会のふん囲気を盛り上げるのが常であった。
その反対に“アモンパパの歌”の場合は、幾らか哀調を帯びた三淵さんの声で歌われると、主人公のパパがいかにも哀れにきこえて、特に一番最後の(中略)というところになると、わたくしなどはそのつどシンミリした気持ちで、瞼の裏が熱くなったのを(中略)忘れることができない」(同書)
以上のとおり、嘉子の死後、二人も彼女の歌について書いている。
筆者は第一に、歌い方の描写が彼女に対する好意にあふれており、感動した。そして、第二に、35年も前の歌が、生き生きと記憶に残っていることに驚いた。いかに、女性の法律家が注目されていたかが分かる。一挙一動を見られるのは、大変なことである。
女性の裁判官第2号となり、どんな事件でも担当すると決意
日本の女性裁判官の第1号は、石渡満子である。石渡は戦後、司法科試験にパス。そして、昭和24年(1949年)の4月に裁判官になった。
和田嘉子も4カ月遅れて、同じ年の8月に裁判官になる。彼女が裁判官を志して、2年がたっていた。東京地方裁判所の民事部に配属された。
嘉子は後に、女性の裁判官についてこう書いている。
従来の女性観からいえば無理のないことかもしれない。しかし、どんなに残酷な殺しの場面でも、またしゅう恥心を覚えるようなセックスの光景でも、一旦職務となれば感情を乗り越えて事実を把握しなければ一人前の裁判官ではない。女性裁判官は当然のことと考えていたにもかかわらず、周囲がうろたえていたように思う。女性が職場において十分に活躍できない原因の一つに男性側の女性への優しいいたわりから来る特別扱いがある。裁判官のみならず検察官、弁護士の場合でも、女性に対しては初期の頃は男性側が必要以上にいたわりの心遣いをし、それが女性法曹を扱い難いと思わせていたのではなかろうか。
職場における女性に対しては女であることに甘えるなといいたいし、また男性に対しては職場において女性を甘えさせてくれるなといいたい。私が東京地方裁判所に裁判官として配置されたとき裁判長がはじめていわれたことは『あなたが女であるからといって特別扱いはしませんよ』という言であった。その裁判長は私の裁判官生活を通じて最も尊敬した裁判官であった」(三淵嘉子『女性法律家』)
「女であるからといって特別扱いはしません」と言った裁判官
彼女が尊敬した裁判長とは、近藤完爾であった。
近藤は、当時をこう書いている。
(和田さんには)先駆者に間々みられる気負いも、その反対の甘えも全然感じられず、極めて自然に明るくのびのびと仕事に打ち込まれ新しい経験の吸収に熱心であった。(中略)だから裁判官室はいつも明るく活き活きとして、思ったことは何でも言える雰囲気に包まれていた。(中略)
こうして三淵さんは急速に裁判所に馴染まれたので、(中略)単独事件にも大きく力を注ぐことになった。そちらでは、お手並拝見的な、いわれのない偏見に遭遇したこともあるらしいが、三淵さんがそれを歯牙にもかけず常に毅然としておられたのには敬服した」(『追想のひと三淵嘉子』)
酔った男性裁判官を背負い「男をかついだ」
あるとき、東京地方裁判所で新しい裁判官の歓迎会があった。新人の裁判官の中に、井口牧郎がいた。彼はこう書いている。昭和25年(1950年)頃のことである。
「まだまだ物資窮乏のさ中、歓迎会といってもさほどの御馳走があろうはずもなく、(中略)この日の飲物になぜか私一人おかしな酔い方をし、冷や汗は流れるし、裸電球がまばゆく黄色の光を放ち始める始末で、散会した後に至っても腰が立たなくなってしまった。(中略)先輩方は三々五々帰って行かれ、足腰の自由を失いかけた私が大いに困ったのは言うまでもない。この時助けていただいたのが他ならぬ三淵先輩だったのである。
(中略)三淵さんが、伸ばして下さった救いの手がいとも自然なものであったことは確かであるとして、(中略)庁舎を出て日比谷公園を横切り、日比谷交差点近くまで、ほとんど三淵さんに背負われるような格好で、連れて行っていただくことになってしまった。笑い事ではとても済まされないのであるが、格別にひょろ長な身長の私が恐らくはだらりと力ない姿勢で三淵さんの背につかまっているのだから、他人様から見れば例の落語の「らくだ」の歩く姿そのものであったのではなかろうか。(中略)
三淵さんのこよなく暖かいいたわりのお気持ちと、背のぬくもりが微妙に溶け合って、私には忘れようにも忘れられない思い出として残っている」(同書)
筆者は、このエピソードに感心した。もし、私が酔って動けない後輩に気がついたらどうするか。知らん顔はしないだろう。しかし、きっと帰りかけている男性たちを呼び止めて、何人かに、酔った人を連れて行ってもらうに違いない。自分で男性をかつぎはしまい。彼女の行為は、並の女性にはできないことである。
1950年、7歳の息子を弟に預け、半年間のアメリカ視察へ
嘉子が裁判官になった翌年。昭和25年(1950年)の五月である。彼女はアメリカへ行くチャンスを得た。家庭裁判所がアメリカでどう運用されているかを、見るためである。約6カ月間、彼女は日本を離れた。一人息子の芳武は、当時いっしょに住んでいた、弟の輝彦の家庭に任せた。芳武は7歳。小学2年生だった。輝彦は、筆者に言った。
彼は頭の回転は早いです。しかも、わくにはまりません。自分の思うとおりに行動しました。小学校の授業中に、一人で虫取りに行ったりするのです。私の妻も彼にはだいぶ、手をやきました」
芳武は、筆者にこう語った。
ぼくは音痴でした。小学校でもまともに歌えませんでした。おばさんはオルガンを弾いて、ぼくに歌の練習をさせてくれました。
しかし、おばさんがいても、母がアメリカに行っている間はさびしかったです。授業はほとんどさぼって、遊び回っていました」
ひとり息子が忘れられない「母・嘉子が激怒した」エピソード
芳武は当時、最も忘れられない思い出を筆者にこう語った。
「ぼくは小学校に着て行ったレインコートを、なくしたことがあります。昭和25年頃ですから、まだ物がない時代でした。母は貴重な物がなくなって、よほど悔しかったのでしょうね。ものすごく怒りました。
ぼくに『どこに忘れたの。言いなさい!』と、大変なけんまくで怒鳴ります。ぼくは、わざと置いてきたわけではありません。どこに忘れたか、さっぱり分からないわけです。しかし、何か言わないと許してもらえません。ぼくは適当な所を答えました。
すると、あとで小田急線の電車に忘れていたことが分かりました。営業所からレインコートが戻ってきたのです。ぼくは別の所に置いてきたと言っていたので、母はぼくを『うそつき』と、なじりました。ぼくは、心外でした。覚えていないものを強引に白状させられたのですから。とにかく、母は気性が激しかったです」
夫を亡くした悲しみを抱き続けたが、弱音は吐かなかった
彼女の同僚であった倉田卓次は、こう書いている。倉田は、後に東京高等裁判所の判事になった。現在は公証人である(2011年1月30日逝去)。
(ご主人が)せっかく復員したのに疎開先へ十分な連絡がなく、面会できぬまま、病院で戦病死……といった話だったと記憶する。疎開先は蚤が多かった……『わたしはそんな大事な時なにも知らずに大騒ぎで蚤をとっていたのよ』。いつも明るい微笑みを浮かべている頰が、その時だけは、涙に濡れた。判事室では決して見せなかった『妻』としての一面だった」(同書)
筆者「ご主人を亡くされた悲しみを、日常、お母様から感じられましたか」
芳武「いいえ、全く。子供にさびしいなんて、言いませんよ。仕事を持った女性ですから。戦って生きています。弱音は吐きません」