※本稿は、清永聡『三淵嘉子と家庭裁判所』(日本評論社)の一部を再編集したものです。
寅子の先輩・久保田と中山のモデル? 明大出身の久米愛
久米愛は、女性で初めて弁護士となった3人の1人であり、戦後も弁護士として第一線で活躍。女性の権利擁護のため指導的な役割を果たす生涯を送った。
明治44年、大阪に生まれる。津田英字塾で英語を学び昭和8年に卒業するが、この年、弁護士法が改正されて、女性にも弁護士への道が開かれると知ると、今度は明治大学専門部女子部へ入学する。ともに高等試験司法科に合格した中田正子は、久米のことをこう書き記している。
「(久米さんは)度の強い縁なし眼鏡の奥に理知的なひとみが輝いていました。きりりとした身のこなしや態度に、最初はちよっと近づき難い感じもしましたが、話してみるととても親しみ深くユーモアも十分、持ち合わせていられて、すぐ仲良しになることができました」(婦人法律家協会会報一六号)
経歴から気の強い女性というイメージを持たれることもあったが、久米を知る人はその多くが、優しくさっぱりとした彼女の親しみやすい人柄を語っている。ある研究者は彼女のことを「ソーダ水」と呼んでいたという。その言動に胸のすく爽快さがあったためだ。
高等試験を受験する昭和13年1月、彼女は日立製作所に勤務する久米知孝と結婚する。知孝は北九州の工場に配属され、9月には軍隊へ召集された。
昭和16年、女性弁護士として初めて法廷に立つ
この年の11月、合格発表翌日の「東京日日新聞」には、3人の合格を伝える記事の見出しに「中に皇軍勇士の夫人も」とあった。これが久米のことである。修習を終えた久米は、丸の内にあった有馬忠三郎(戦後日弁連初代会長)の事務所で働くようになった。
「法律新報」という専門誌には、昭和16年9月に「我が裁判史上婦人弁護士最初の熱弁」という長文の法廷傍聴記事がある。登場する「婦人弁護士」は久米であった。担当したのは、29歳の女性が生後70日の実子を殺害した事件である。被告人は男から関係を求められ男児を出産するが、直後に別れ話を持ち出され、子どもと心中しようと犯行に及んだという。
主任は男性弁護士で、久米は補助役であった。それでも9月17日の2回目の法廷は久米が弁論を読み上げるとあって、傍聴希望者で法廷は満席だった。
生後70日の実子を殺害した29歳の女性を弁護した
「久米愛子(※原文ママ)弁護士は法服法冠の姿もうつり良く、堂々たる中にも淑やかさを備えた立派な態度で弁論に入った、落ち着きはらった頼もしい音声である」
記事は法廷でのやりとりを描写も交えて伝えている。彼女が述べた弁論も紹介されている。
「『人間として親子の情愛は最高のもの、ことさらに母親に於て一層深いものであります。実に母はその子の為には如何なるギセイも厭いません。その我が子を殺すに至った被告は実にやむにやまれぬ、どうにもせむ方つきての母子心中を選ぶ他なかったのであります』
水を打った如き法廷に、再度執行猶予の恩典を求める久米女史の切々胸を打つ弁論は終わった。深く頭を垂れた。被告の肩は細かにふるえて、ふっくらとした両頬に紅さしている」(法律新報627号)。
名調子の傍聴記で続きが気になるが、判決の記事は掲載されていない。被告人がどうなったのか、久米がどういう感想を抱いたのかは分からない。
会社員の夫は兵隊に取られ、2人の子を連れて岡山に疎開
彼女が法廷に立った昭和16年9月。夫の知孝は再び召集され、今度は満洲へ送られた。だがハルピンで肺炎にかかり、翌年帰国する。久米は幼い2人の子どもと夫の看病に追われた。昭和20年には岡山県津山に疎開した。夫は東京に残り、久米は2人の子どもを連れて岡山へ向かう。夫の知孝は、弁護士の佐賀千惠美の聞き取りにこう答えている。
「疎開した人間は、向こうから見たら、やっかい者です。愛はずいぶん気を遣ったようです。慣れないのに野良仕事を手伝いました。子どももまだ四歳と二歳だったので、子どもにも手がかかりました。愛は食べ物や着る物が悪くても、こたえなかったようです。むしろ疎開先に気兼ねして、精神的にまいっていましたね」(『華やぐ女たち女性法曹のあけぼの』)
帰京して間もない昭和21年には、4歳の長男を亡くす。戦後すぐのことで、医師の診察でも原因が分からないままだった。彼女にとっては、最もつらい時期であった。
もう1人のモデル、陸軍大佐の娘だった中田正子
三淵嘉子、久米愛とともに女性初の法律家となったのが、中田正子である。彼女は戦後鳥取市で弁護士事務所を開き、後には鳥取県弁護士会の会長も務めた。女性初の弁護士会会長である。地域で活躍する女性弁護士の先駆けだった。
中田には弁護士の佐賀千惠美が、昭和61年当時、健在だった本人に貴重な聞き取り取材を行っている。この記録を主な参考文献として、彼女の生涯を辿っていく。本稿で引用した中田の発言は一部を除き佐賀の『華やぐ女たち 女性法曹のあけぼの』による。
明治43年、東京・小石川の生まれで、父親は田中国次郎、現在の米子市出身の元陸軍大佐だった。彼女は新渡戸稲造が校長だった女子経済専門学校を出て、昭和6年に日本大学法学部の選科として入学する。女性であるため正規の学生としては扱われていなかった。
中田は昭和9年に明治大学専門部女子部に編入する。
嘉子より1年早く、高等試験筆記テストに合格したが…
彼女は3人が高等試験司法科に合格する前年、昭和12年の試験も受験していた。この年、女性としてはただ一人、筆記試験に合格していたのである。「ついに女性弁護士誕生か」と話題になり、自宅には新聞記者が押しかけた。だが、口述試験で不合格となる。
中田は「普通に答えられました。私は当然、受かると思っていました。不合格だったのでびっくりしました」と語っている。当時は「女性だから落とされたのではないか」という声も上がったという。
だが、もしこの年に合格していたら、「初の女性弁護士」の肩書きは中田が一人で背負っていたことになる。おそらくそれは彼女にとって重荷だっただろう。
翌年の昭和13年の筆記試験で、今度は三淵と久米の2人が合格する。中田は彼女たちと一緒にこの年の口述試験を受け、今度は3人そろって合格できた。
「三人の母校明治大学を始めいろいろな団体が祝賀会や激励会を催してくださいましたが、殊に市川房枝さんの婦選獲得同盟ほか六つの婦人団体が共催の会では激励と期待のありがたい言葉を浴びるほどいただきました。当時のわれわれ三人は試験に合格したというだけで、それらに応えるだけの実力や気負いもなく、まったく受け身の形で聞いていたことを、今微笑ましく思い出します」(『追想のひと三淵嘉子』)
司法修習生時代は嘉子、久米愛と仲良くランチを食べていた
翌年、合格した3人は、いずれも丸の内の法律事務所で修習を行った。丸ビルのレストランに集まって一緒に昼食を食べたり、皇居の周りを散歩しておしゃべりを楽しんだりしたという。修習後、中田は戦後司法大臣も務めた岩田宙造の事務所に勤務するようになる。どのような仕事をしたのか。
「政治家や財閥の人に妾がいるのね。妾に産ませた子どもを、戸籍上は本妻の子にしてあるわけ。子と本妻には親子関係がないというための裁判をやりました。法廷では普通、当事者に敬称はつけません。私も政治家や財界の人の名を、『だれだれ』と呼び捨てにします。すると、裁判官はにやにや笑っていましたね。私は若い女で、相手は有名な人物ですから」
中田はほかにも婦人雑誌『主婦の友』で、法律相談の欄を担当するようになる。ここでも一番多いのは、男女関係の相談だったという。掲載される相談のほかにも、毎週相談の手紙が100通以上届いた。中田は掲載していない手紙にも返事を書いた。一人では間に合わず、後輩の女性にも手伝ってもらった。
夫の実家である鳥取県へ疎開し、そこで一生を過ごすことに
昭和14年に中田は結婚した。夫の吉雄は鳥取県若桜町の出身で、財団法人の東亜研究所に勤務していた。国策への貢献を目的とした調査機関であった。
戦争末期、吉雄は結核にかかり、病状が悪化した。空襲も烈しくなったことから、昭和20年4月に、中田は吉雄とともに、夫の実家である鳥取県若桜町へ疎開する。
若桜町は兵庫と岡山の県境に近い中国山地に囲まれた山林の町である。中田はここで弟の妻に教わりながら農作業をする。炎天下の水田に入って草取りをし、養蚕も手伝った。父が鳥取県の出身とはいえ、中田は東京生まれで東京育ちだった。慣れない農作業に苦労する日々だった。