第一は現・みずほ、第三は三十三銀行、第二銀行はどこへ?
埼玉りそな銀行の旧川越支店(埼玉県川越市)の建物を活用した複合施設「りそなコエドテラス」が5月15日にオープンした。このクラシカルな洋館の建物は、旧第八十五銀行の本店として1918年(大正7)に建てられたという。
長野には八十二銀行、仙台には七十七銀行がある。この番号を冠した銀行はいったい何ものなのだろうか。そして、かつては都市銀行の第一銀行(第一勧業銀行を経て、現・みずほ銀行)、三重に第三銀行(現・三十三銀行)があり、新潟に第四銀行(現・第四北越銀行)があった。第二銀行はどこに行ったのだろうか。
初代頭取は渋沢栄一、日本の銀行のはじまりは国立第一銀行
現代につながる近代的な銀行は、1873年に設立された第一国立銀行にはじまる。つくったのは、この7月から1万円札になる渋沢栄一。渋沢は埼玉の豪農の子に生まれ、一橋徳川家の家臣、幕臣を経て大蔵省(現・財務省)に出仕し、度量衡(計量単位)の改正、租税制度の改革、鉄道敷設などに尽力した。その実績の一つが1872年の「国立銀行条例」の制定だった。
面倒な経緯は省くが、「国立銀行条例」で実際に銀行が設立する前に、渋沢は大蔵省を退官してしまう。しかし、それは銀行設立にとっては好都合だった。当時、三井、島田、小野家ら富商が銀行の設立を大蔵省に申請していたのだが、法令を書いた役人(渋沢)が民間人として銀行設立を主導してくれるのだ。こうして日本初の銀行・第一国立銀行が設立された。
「国立銀行」という名称は、米国の「ナショナル・バンク(=国法に基づく銀行)」に由来するもので、「国営の銀行」という意味ではない。純粋な民間銀行だ。ただ、現在の普通銀行と違って、「国立銀行券」という紙幣の発行権を持っていた。
しかし、各行が独自に紙幣を発行したので、インフレを助長することになった。そこで、政府は1882年に日本銀行を設立。紙幣の発行を日本銀行のみとして、国立銀行は設立20年後までに紙幣発行権を喪失し、普通銀行に切り替えられることになった。
1873年から1879年までのおよそ6年間で、国立銀行は153行もつくられた。これらの銀行は、第一国立銀行に続いて第二国立銀行、第三国立銀行……第一五三国立銀行と番号順に命名されたので、通称「ナンバーズバンク」と呼ばれている。
八十二銀行はナンバーズバンクではなく、19と63を足した
ナンバーズバンクは、現在の銀行名にも、その名残りをとどめている。
冒頭でも紹介した第一銀行、第四銀行。それ以外にも十六銀行(岐阜県)、十八親和銀行(長崎県)、七十七銀行(宮城県)、百五銀行(三重県)、百十四銀行(香川県)がある。
例外的なものとして、八十二銀行(長野県)、三十三銀行(三重県)がある。
長野県の十九銀行と六十三銀行の合併が1931年に決まり、首脳陣が合併後の行名を何にするか迷っていた。迷いに迷って三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)の瀬下清(のち頭取)に相談しに行ったところ、同席していた加藤武男(のち頭取)が「ナンバー二つを加えて八十二(銀行)にしたらどうか」と助言して決まったという。
なぜ十九銀行・六十三銀行の首脳が三菱銀行に相談に行ったかというと、瀬下が両行の合併を勧奨したからだ。当時、世界的な金融恐慌で経営不振にあえぐ銀行は少なくなかった。瀬下は長野県出身でかつ三菱銀行の事実上のトップ(常務取締役)だった(戦前は郷党意識が強かった)。現在も三菱UFJ銀行の親密地方銀行といえば、真っ先に八十二銀行が挙げられるくらいなのだが、なんてことはない。元はといえば、銀行トップの個人的な地縁に基づくものだったのだ。
三十三銀行もナンバーズバンクではないという意外な事実
三十三銀行の場合はもうちょっと複雑だ。三十三銀行は2019年に第三銀行と三重銀行が合併してできた。ただし、第三銀行はナンバーズバンクではない。第三相互銀行が普銀転換で第三銀行と改称したものだ。
戦後、相互銀行法に基づく「相互銀行」という業態があった。戦前、無尽会社という金融機関に似た業態があったが、規制が大きかったこともあり、戦後に中小企業専門金融機関の相互銀行に発展させたのだ。しかし、制度発足40年弱にして、普通銀行との差異が縮まってきたことを踏まえ、1989年以降に普通銀行に転換した(普銀転換)。従って、第三相互銀行は三番目にできたものではなく、三重で、三つの無尽会社が合併して……といった意味で「第三」という名称を選んだようだ。
ちなみに、三十三銀行も三井住友銀行との連携強化を謳っているが、これは前身の三重銀行が1939年の経営不振で住友銀行の野田哲造(三重県出身。のち社長)を頼ったことに由来する。郷党意識、恐るべし。
安田財閥の祖と言われる三善康信が好きだった「三」の数字
では、本家の第三銀行というか、第三国立銀行はどこへいってしまったのか。
戦前、三井・三菱・住友財閥に次ぐ、安田財閥という金融財閥があった。その創業者、初代・安田善次郎が設立したのが第三国立銀行(のち第三銀行)だ。善次郎はこれの他に安田銀行もつくったのだが、公的な融資は第三銀行、私的な融資は安田銀行と使い分けていた。
安田家は鎌倉幕府の問注所執事・三善康信の末裔と称し、善次郎は数字の「三」が大好きだったらしい。ところが、善次郎の死後、1923年に安田財閥は傘下の安田銀行・第三銀行など11行を対等合併させて、新生・安田銀行(富士銀行を経て、現・みずほ銀行)を誕生させた。かくして第三銀行はなくなってしまったのである。
八十二銀行の例が示すように、普通銀行に転換した国立銀行は合併したり、破綻してその名を変えていった。
再び、第二銀行はどこへ行った?
では、第二銀行はどこに行ったのか。第二銀行は1874年に横浜で設立されたが、経営不振に陥って「整理」の状態になり、1928年に横浜興信銀行(現・横浜銀行)に吸収合併された。
この1928年という年は、第二銀行のみならず、多くの銀行が経営不振にあえぎ、銀行業界は淘汰と合併の嵐が吹き荒れた。
戦後の昭和時代、金融機関はガチガチの規制で縛られていた。金融機関は絶対につぶさないというのが大蔵行政の方針だったからだ。銀行が新しく支店を出すにも大蔵省の認可が必要だったくらいだから、金融機関の新設は非常に難易度が高かった。これに対して、戦前は良くも悪くも自己責任で、勝手につくっていいけど、つぶれそうになっても行政は手をさしのべないよ……という感じだった。
だから、1895年に817行あった普通銀行は、1898年に1485行へと莫大な数に増えていった。そして、1914年に第一次世界大戦が勃発し、空前の好景気に沸くと、急成長した中堅財閥は続々と銀行を設立。その数はますます膨れ上がった。
普通銀行が1485行と増えすぎて「一県一行」の考え方が広まる
ところが、1918年に第一次世界大戦が終結すると、大戦特需を見越して増産された製品価値が暴落し、景気が悪化して反動恐慌が発生。いつ暴発してもおかしくない状況の1927年3月、大蔵大臣の片岡直温が帝国議会衆議院予算委員会で、「今日午後頃において渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」と失言して信用不安が起こり、わずか2カ月で、32行の銀行が休業を発表し、長期的な不況に突入した(昭和金融恐慌)。衰弱した銀行は合併によって破綻を免れようとした。
こうした中、戦後の昭和を先取りする形で、大蔵省で「大きくて強い銀行、つぶれない銀行」の誕生を切望する声が上がり、1936年に大蔵大臣・馬場鍈一が「一県一行主義」を提唱した。文字通り、各県に数十行ある中小銀行を合併して一行にまとめ、強い銀行にするという政策だ。これによって、各都道府県は若干の例外を除いて一行に集約された。現在、都道府県に2、3行が存在するのは、前述の相互銀行の普銀転換で、普通銀行がふえたからだ。
元をたどれば三菱銀行もナンバーズバンクだった
三菱財閥は海運事業からスタートしたため、1876年から荷為替を取り扱いはじめ、1880年に三菱為替店を開設。これが銀行に発展するところだったのだが、松方デフレで経営が困難となり、1884年9月の横浜支店閉鎖を皮切りに業務を大幅縮小。1885年5月までに閉鎖を余儀なくされた。
ところが、時を同じくして、経営不振に陥った第百十九国立銀行が三菱財閥に経営救済を申し入れ、1885年5月に買収することで、三菱財閥は銀行業務に本格進出することになった。
第百十九国立銀行は旧豊後臼杵藩士が設立した銀行だった。三菱財閥の大番頭・荘田平五郎が同藩出身だったことから、三菱財閥に救済の手を求めたのだ(またもや、郷党意識だ)。
三菱財閥は1895年に三菱合資会社を設立するとともに、その社内に銀行部を設けて、第百十九国立銀行の業務を移管した。独立した法人組織の銀行(第百十九国立銀行)を、別法人の一部門(三菱合資会社銀行部)に吸収合併することを政府が認可しなかったため、三菱は第百十九国立銀行を解散した。
そして、こんな荒技を行った、三菱財閥の2代目社長・岩崎弥之助(弥太郎の弟)は金融界からさぞかし恨まれていると思いきや、その翌年の1896年、4代目・日本銀行総裁に就任しているのだから、世の中わからない。