※本稿は、清永聡『三淵嘉子と家庭裁判所』(日本評論社)の一部を再編集したものです。
三淵嘉子の実弟・武藤泰夫氏が姉について語った
私たちのきょうだいは、姉の嘉子が長女で一番上です。次に長男の一郎。次男の輝彦、三男の晟造、そして四男が私(泰夫)です。
今の人から見たら、姉はすごい人なんでしょうが、その姉も、母親にはかないませんでした。お袋はとても頭のよい人でした。麻布笄町の家には蔵が二つありまして、お袋は「どこそこの蔵の二階の何番目の棚に茶葉があるから取ってきて」と言うのです。行ってみるとそのとおりの場所にお茶の葉がありました。記憶力がすごい人でした。
姉は社交的でした。女学校時代は電話がかかってくると、昼間会った友達なのに、電話でまた一時間も二時間も話すんです。まだ電話が珍しい時代です。あと、歌が好きで、お風呂の中でも歌ったりしてお袋に怒られていましたよ。
友達からは「姉さんは女だてらに弁護士」とからかわれた
頭はよく、明治(大学)では一番だったそうです。司法試験もストレートで合格でしたからね。きょうだいの中では抜群に頭がよくて、とにかくもう何でもできる人でした。頭の回転も速く言葉も達者で、元気で頼りになります。私たちを引っ張ってくれる存在でした。普段はいいお姉ちゃんです。いつもにこにこしていて、「おたふくさん」でね。一番下だった私は、ほとんど怒られたことはないな。
ただ、近所の人が家の前を通る時に「ここの家、女なのに法律を勉強しているんだって」という声が聞こえて参ったことがありました。友達からもさんざん冷やかされました。「お前の姉さんは女だてらに弁護士だってな」と。
お袋は姉が司法試験を受けることに反対したのですが、親父は何も言わなかったそうです。むしろ姉が弁護士を目指すことを応援していました。自由に学べと言っていました。
嘉子のすぐ下の弟・一郎も、しっかり者の長男だった
長男の一郎兄さんが、武藤の家では跡継ぎになるはずでした。一郎兄さんは姉の次にしっかりした人でした。長男なので、姉も一郎兄さんには一目置いていて、弟ながら頼りにしているという感じでした。
私は親父から小遣いをもらわないで、この兄貴から小遣いをもらっていたのです。でも兄は威厳がありました。たとえば靴を玄関で乱雑に脱いでいた時、親父もお袋も何も言わないけれど、兄貴は「おい、泰夫、何だこの靴の脱ぎ方は」とビシッと言うのです。「ちゃんとなおせ」って叱られましたね。
写真があります。姉が芳夫さんと結婚する前に撮影した写真です。きょうだいがそろっています。二人の間にいる小さいのが私です。
麻布の家には、同郷の書生が入れ替わりながら三人くらいいたそうです。芳夫さんはその中の一人。明治(大学)の専門部を出て東洋モスリンという会社に入っていました。武藤家の書生をしていたのは明治の学生の時のことです。芳夫さんのおじさんと私の親父は中学が一緒だったんですよ。丸中(旧制丸亀中学)で同級生だったそうです。
父に好きな人を聞かれ「和田さんがいい」と答えた嘉子
当時、姉は弁護士になったから、嫁の行き先がないと親父やお袋が心配したのです。そこで親父が「お前誰か好きな人いるのかい」、と聞いたら姉が「和田さん(芳夫)がいい」と言ったのです。
芳夫さんはその頃にはもう就職していましたから、家を出て独立していました。武藤家にはたまに遊びに来るくらいで、付き合っていたわけでもないそうです。
姉から意外な名前が出たことに親父もお袋も驚きました。というのは、芳夫さんは書生の中でも一番おとなしくて静かだったからです。活発な姉とは正反対でした。それから東洋モスリンに勤めていた時は、肺を悪くして一年くらい療養していた時期があったようです。
姉から話を聞いた親父は、芳夫さんのところに行って「娘があなたのことを気に入っている。どうだ」と頼んだのだそうです。それで交際が始まりました。
芳夫さんは、それはそれはいい人でしたよ。まじめでおとなしくて、でも言うことはしっかり言いました。姉が尻に敷くような関係ではなく、仲のよい夫婦でした。
結婚してからは、最初池袋に家を借りて共働きをしていました。そこからそれぞれ職場に向かっていたのです。ただ、一人息子の芳武君が生まれてから、武藤家の実家に越してきました。
「開店休業」状態だった女性弁護士としてのキャリア
姉は丸の内の弁護士事務所に勤めていました。ただ、あまり仕事はしていなかったようです。結婚してわずか1年で戦争が始まりましたから。結局弁護士として働いていた期間は、1年もなかったんじゃないかな。姉は「開店休業だった」と話していました。
芳夫さんが召集されて、昭和20年に姉は疎開しました。姉と芳武君、一郎の妻の嘉根と娘の康代の四人です。疎開先は福島の(会津)坂下町というところです。
そこは大変な暮らしでした。私は父に命じられて一度様子を見に行ったことがあるのです。農家の納屋を借りて、むしろを敷いたところに暮らしていました。水はけも悪く、ノミやシラミがいて、なめくじがはうような家でした。
食べ物も畑仕事の手伝いをしていましたが、ろくなものを食べていなかったようです。自分でも荒れ地を耕していたそうです。むごいことだと思いました。
戦争が終わって、登戸に移っていた武藤家へ帰ってきたのですが、当時は私と、すぐ上の兄貴は学生。その上の兄貴も出征していて戦争から戻ったばかりでした。まだ幼い芳武君を含めた、全員の生活の面倒を姉が見なければならなくなったのです。
姉は「もう私が働かなくちゃ」と言っていました。めそめそとしているのではなく、何か堂々としていたことを覚えています。私は「姉がいるから大丈夫」と思いました。
裁判官になって3人の弟やわが子を養った「とと姉ちゃん」
姉が裁判官になったのは、私たち家族を食べさせるためだったと思います。それまで明大の先生もしていましたが、姉から聞いたところによれば、当時の大学の講師は給料が安かったんだそうです。私たちの学費も必要でしたから、大学の仕事では一家を養えなかったのです。それに、あの当時は最高裁に入る、国の公務員になるというのは、とても大きなことでした。生活が安定するということでもあります。それで最高裁に入ったのだと思います。
結局、私の大学の学費も姉が出してくれました。もちろん奨学金ももらいましたがね。
NHK朝ドラに「とと姉ちゃん」ってあったでしょう。私にとっては父であり母であり姉でもある。まさに「とと姉ちゃん」でした。
私は東京大学で林業を学んで昭和27(1952)年に卒業し、林野庁に入りました。各地の営林署を回り、それから民間企業に移りました。転勤族だったので、裁判官になってからの姉とはすれ違いになりました。裁判官としての活躍は、他の方が詳しいでしょう。ただ、私が札幌にいた時に、姉が北海道まで旅行で来たことがありますよ。
姉は、兄の一郎を除くと、きょうだいの中で一番早く亡くなりました。まだ69歳でしたから。弟たちはみんな80まで生きました。それだけに早く亡くなったことが残念です。
※『三淵嘉子と家庭裁判所』編集部註:武藤泰夫氏は令和3(2021)年に93歳で他界しました。今回の記事は平成28(2016)年~令和元(2019)年にかけて行った取材内容を元に再構成し、ご遺族の了承を得て掲載するものです。