※本稿は、青山誠『三淵嘉子 日本法曹界に女性活躍の道を拓いた「トラママ」』(角川文庫)の一部を再編集したものです。
膨大な暗記ノートを作って司法科高等試験に挑んだ嘉子
司法科の高等試験を受験する者はみんな、早朝から夜中の10~11時まで、土日も休むことなくひたすら勉強にあけくれたという。嘉子も同様、いままでの人生でこれほど長く机にかじりついて勉強したことはなかった。半紙を二つ折りにして、考えつくすべての問題と解答を対比させたサブノートを作った。膨大な量になってしまったが、これを完全に覚え込めば合格間違いなしと信じて、繰り返しめくりながらひたすら内容を暗記しつづける。
受験日が近くなってきた頃には、サブノートは手垢でかなり汚れていた。やれるだけのことはやった。受験日の朝は達成感と自信に満ちあふれ、
「これで合格は間違いない」
と、意気揚々でかけて行った……が、筆記試験が終わって帰宅した時には、朝とは別人のように憔悴していた。いきなり玄関に座って泣き崩れてしまう。何を聞いても答えず、ただ泣くばかり。困り果てた母は近所に住む知人の野瀬高生を呼んできて、説得してもらうことにした。
判事になった知人男性が、受験後に泣き崩れた嘉子を慰めた
野瀬は中央大学法学部卒業後に高等試験司法科に合格して、この年には判事に任官されていた。昔から武藤家に出入りして、親戚同然のつきあいだったという。嘉子にとっても気心が知れた相手であり、試験についてのアドバイスも色々ともらっていたようだ。
野瀬が駆けつけた時、嘉子はまだ玄関先に座り込んだまま大泣きしていた。なんとか落ち着かせて答案の内容について聞いてみたところ、彼が判断する限りでは失敗どころか、よくできた解答だと思った。だから、
「大丈夫、合格しているはずだ」
そう言って太鼓判を押す。先輩の言葉に安心したのだろうか、ようやく泣き止んで落ち着きを取り戻したという。
その後しばらくして筆記試験合格の通知が届いた。結果は野瀬が言った通り合格。しかも、抜群の成績で悠々合格だったというから、嘉子はいったい何を勘違いして大騒ぎをしたのだろうか?
思い込みの激しいところがある。感情の起伏が大きく、それを抑制することができなくなることも。そんな一面を時々みせた。また、強気なようで意外と脆く、予想外のアクシデントには弱い。
1936年から女子に開かれた司法試験で初の合格者を目指した
弁護士法が改正されてから3年後の昭和11年(1936)には、女性でも高等試験の司法科試験を受験できるようになった。これに合格すれば弁護士資格が取れる。同年の受験者は3610名中17名が女性だった。そのうち13名は明治大学法学部出身者で占められていたのだが、一次試験の論文試験で誰も合格できずに終わってしまう。翌年の昭和12年(1937)には、法学部1年に在学中の田中正子が論文試験に合格した。が、二次の口述試験で不合格になっている。
嘉子は昭和13年(1938)3月に明治大学法学部を卒業し、この年の11月におこなわれる司法科試験に挑むことにした。法律を学ぶうちに、彼女も司法科試験合格をめざすようになっていた。専門部と大学で6年間学んできた。法律を職業にしようという意識はまだ希薄だったが、その成果を証明したいという思い。また、女子が高等試験を受験できるようになって2年、いまだ合格者がでていないというのが悔しい。自分たちの代でなんとかせねばという使命感に燃えていた。
大学側でも嘉子たちに悲願達成の望みを託している。法科の教授や講師たちの言動からも、その必死さが感じてとれた。後につづく後輩たちのために、女性が法律を学ぶ場所を残しておかねばならない。仲間意識や母校愛の強い彼女だけに、受験勉強にいっそう熱が入った。
合格率10パーセント、東京帝国大学の出身者でも難しい狭き門
高等文官試験とは、戦前の日本で実施されていた上級官僚になるための資格試験のことだ。合格率10パーセントに満たない狭き門で、合格者の多数が東京帝国大学出身者で占められていた。日本中の秀才が集まる最難関の東京帝国大学出身者でも、この試験に合格するのは至難の業。
試験には一般の行政官採用を目的としたものと、外交官の採用を目的とした外交官及領事官試験、そして、裁判官や検事など司法官を採用するための司法科試験があった。かつては公務員である判事や検事の採用だけを目的にした判事検事登用試験があり、弁護士資格の取得はそれとは別に弁護士試験が実施されていたのだが、大正12年(1923)以降はそれが「高等試験司法科試験」として統一される。民間の法律家である弁護士が、その資格取得のために公務員になるための資格試験である高等試験を受験するというのは、現代人の我々には不思議な感じがする。
戦前、弁護士は司法省の監督下に置かれ、格下と見られた
ちなみに、現在の司法試験は、法律家としての資格を取得するための国家試験である。合格者は司法修習生として実務を学ぶのだが、その立場は公務員ではない。司法修習を修了した後に法曹三者(判事、検事、弁護士)のいずれかになる資格が与えられ、この時にはじめて公務員の裁判官や検事、民間の弁護士になることを選択する。
戦後の弁護士法には「弁護士自治」が明記され、国と対等の立場になった。堂々と国を相手に裁判を起こすこともできる。しかし、戦前の弁護士は司法省の監督下に置かれていた。公務員である判事や検事には、弁護士を格下に見る風潮が強かったという。下請けの業者のような扱いだった。
また、判事や検事の採用については、この頃も「男性に限る」とされたまま。女性がなることができた法律家を弁護士に限ったのは、そうした格下扱いの意識が関係していたのではないか? そんなふうにも思えてくる。
嘉子の早い結婚を望んでいた母親も受験勉強をサポート
しかし、司法科試験は“格上”の裁判官や判事の志望者と“格下”の弁護士志望者が同じ土俵で争うことになる。帝大生でも合格は至難の業といわれる狭き門であることに変わりはない。明治大学法学部をトップの成績で卒業した嘉子だが、やはり高いハードルと感じていた。
負けず嫌いで勝ち気な性格ゆえ、険しい壁が目の前に立ちはだかっていれば、臆するどころか逆に闘争心がわきたつ。
また、自分の合否は女子部の存続にもかかわってくる問題でもある。母校のため、後につづく後輩のため……。その思いが、燃えたぎる闘争心に油を注ぎつづける。使命感をかきたてられる。
大学卒業後は、その年の秋に予定されていた試験にそなえ自宅で受験勉強に明け暮れた。普通の女子大学を卒業生していれば、見合い話もたくさん持ち込まれたところだろう。けれど、法律を学ぶような“恐ろしい娘”を嫁に欲しがる物好きはいない。おかげで面倒なことに煩わされず、受験勉強に専念することができた。
この頃には母も諦めたのだろうか、それとも、新しい女の生き方に理解を示すようになったのか? 嘉子のやることには一切文句は言わず、それどころか、夜食の準備をしたりして受験勉強をサポートしてくれた。
必修科目の憲法では「国務大臣の権限を論ず」などの出題が
司法科の筆記試験は必修科目と選択科目に分かれている。必修科目は憲法、民法、商法、刑法から1科目を選択する。また、選択科目は哲学、倫理学、心理学、社会学、国史、国文及漢文、行政法、破産法、国際公法、民事訴訟法、刑事訴訟法など様々なテーマの中から2科目を選択するようになっていた。
ちなみに、昭和8年(1933)の試験問題が現存しているので一例を紹介すると、必修科目の憲法は「国務大臣の権限を論ず」「租税に関する憲法上の原則を論ず」、民法は「信託行為を説明すべし」「民法第四百十六条を説明すべし」という出題がされている。また、選択科目の国際公法は「条約は如何にして成立するか」「戦争が通商に及ぼす影響如何」、民事訴訟法は「訴の客観的併合を説明すべし」「判決の既判力を説明すべし」というものだった。記述式で問いに対する深い理解や知識が求められている。
無事に筆記試験をパスしたが、口述試験は女子の合格例なし
受験直後には泣き崩れてしまったが、無事、筆記試験に合格した嘉子は二次の口述試験へと進む。筆記試験では判断のできない対応力や言葉の説得力が求められる。試験官と向きあって会話形式でおこなわれる試験は、引っ込み思案な者にはかなりのプレッシャーだ。
筆記試験に合格した者ならば簡単に解るような解答が、とっさに答えられずしどろもどろになったりする。失敗要因の大半はそれだろう。アクシデントに対して即応力を欠くところを露呈してしまった嘉子は大丈夫だろうか。
前年の試験で、当時は明大法学部に在学中だった田中正子が筆記試験に合格したのだが、この二次試験で不合格となり涙を飲んでいる。彼女も緊張で上手く答えられなかったのか? 『華やぐ女たち女性法曹のあけぼの』(佐賀千恵美/金壽堂出版)のなかで、筆者が田中本人にそのことについて質問したところ、
「いいえ普通に答えられました。私は当然、受かると思っていました。不合格だったのでびっくりしました」
このように語っている。本人にとってはまさかの結果、落とされた理由がわからない。試験官たちも、初の女性受験者に戸惑いそれが採点に影響したのではないか? となれば、嘉子たち女性の受験者にとってこれはかなり不利になる。
コミュ力の高かった嘉子、口述試験は余裕だったが……
しかし、筆記試験の時と比べて嘉子には余裕があった。口述試験なら自分は上手くやれる。そんな自信があった。思い込みの激しさ、それが有利に働くこともあるのか。コミュニケーション能力に優れ、物おじしない性格がこういった試験には向いている。
口述試験では緊張することなく面接官と相対しても、戸惑うことなくすらすらと受け答えすることができた。アクシデントには弱いが、勢いに乗った時には強い。上手くいったという手応えはある。悔いなく試験を終えることができた。しかし、試験場から帰ってきた彼女の顔色はなぜか冴えない。悲観し大泣きした筆記試験の時とは違って、その表情は少し怒気を帯びていた。
試験会場で女子は判事や検事になれないことを知り憤慨
嘉子が試験会場に入った時、受験生の控え室に司法官試補採用に関する告示が貼ってあることに気がついた。司法科試験合格者の中で判事や検事の職を希望する者は、司法官試補に応募して研修を受けなければならない。その募集に関するものだった。合格者の大半は裁判官や判事になることを希望するのだが、しかし、司法官試補に採用されるのは約80名。合格者の3分の1程度でしかなく、残った者たちは弁護士試補として各地の弁護士事務所で研修を受けることになる。
現代の司法修習とは違って、戦前は公務員である検事・判事の研修は国がおこない、個人業種の弁護士は弁護士会がおこなう、それぞれ別個の研修システムになっていた。また、弁護士試補の1年6カ月にもなる研修期間中は無給だったのに対して、判事や検事の卵である司法官試補には給与が支払われる。待遇にも格差があった。
女性初の裁判官を目指すキャリア形成がスタートした
しかし、嘉子が試験会場の告示を見て憤慨したのは、弁護士と判事・検事の待遇格差が理由ではない。その採用条件に「日本帝国の男子に限る」という一文を見て、納得がいかなかったのだ。
戦後になってから嘉子がとある講演会に出席した時に、
「裁判官をなぜ日本帝国男子に限るのか。同じ試験を受けて、どうして女子は駄目なのかという悔しさが猛然とこみ上げてきたことが、忘れられません」
このように語っている。高等試験の会場で目にした衝撃と怒りは、長い年月が過ぎてもけして忘れることなく、心のなかにトゲのように突き刺さっていたようだ。