※本稿は、塩田雄大『基礎から身につく「大人の教養」NHK調査でわかった日本語のいま 変わる日本語、それでも変わらない日本語』(世界文化社)の一部を再編集したものです。
大したことのない話なので「割愛します」
Q:「それほど重要な内容ではないので、割愛します」という言い方は、おかしいのでしょうか。
A:「割愛」のもともとの意味を考えると、「それほど重要な内容ではないもの」についてこのことばを使うのは、ふさわしくないことになります。ですが現代では変化がかなり進んでいて、伝統的な意味・用法を意識している人のほうがむしろ少数派です。
「割愛」は、「“愛”着のあるものを、泣く泣く“割”って断ち切る」、つまり、ほんとうはぜひとも紹介したいものごとを、時間やスペースの制約から、いたしかたなく省略することを言うことばです。本人は、非常に重要だと思っているものごとなのです。
現代の「割愛する」の意味
ところが、現代での「割愛する」は、このような本来の意味からは外れた文脈で用いられることが非常に多くなっています。対象物に対してさほど執着もなくて、単に「省略する」「省く」と言えば済むような場合にも、よく使われています。
ウェブ上でおこなった調査では、伝統的な用法よりも、新しい用法を支持する人のほうが多いことがわかりました。もはや「割愛」に関しては、もしかすると「もともとは“たいへん重要なこと”に限って用いていた(しかし、現代では必ずしもそうではない)」というように説明するのがふさわしい段階に至っているのかもしれません。
最後にオチを用意しておいたのですが、今回は割愛します。
「つかぬこと」は「つまらないこと」?
Q:「つかぬことをうかがいますが」というのは、どういう意味なのでしょうか。
A:「これまでの話の流れとは直接には関係のないことを尋ねますが」という文脈で使うものです。最近では「つまらないことを尋ねますが」というニュアンスで用いられることも多くなっていますが、これは伝統的な使い方ではありません。
日本語の「つく」は、意味・用法が非常に広い動詞です。「つかぬこと」の場合は、「つく」が【付随する】という意味で使われていて、全体として【関係のないこと】を表します。
たとえば、次のようなものです。
「オヤ、和尚さん。こんにちは。いつも和尚さんは顔のツヤがいいね」
「ウム、お互ひに、まア、達者でしあはせといふものだ。ところで、つかぬことを訊くやうだが、お前さんはこの一月ほど、牛がでて、そのなんだな、蹴とばされるやうな夢をみなかつたかな」(坂口安吾『土の中からの話』1947年)
このように「つかぬこと」が【関係のないこと】という意味で用いられた例は、江戸時代からあります。
ところが、【つまらないこと】を表す使い方も多く見られます。ウェブ上でおこなったアンケートでは、「『つかぬことをうかがいますが』には『つまらないことを聞きますが』という意味がある」というのを支持する回答が、若い年代にはやや多いことがわかりました。
【つまらないこと】を表す使い方は、「つかぬこと」の「用法が変化しつつある」ことの反映だと考えることができますが、一方でこれは「伝統的な用法ではない」ことを知っておく必要があります。おそらく、「愚にもつかない〔=ばかばかしい〕こと」からの連想がはたらいているのではないかと思います。
「ちなみに」は「関連がある」という意味
関連して、「ちなみに」の使い方にも注意が必要です。「ちなむ」は[関連がある]という意味で、「ちなみに」で「これまでの話の流れと関係のあることを付け加えて言うならば」という文脈で用いるのが伝統的です。あくまで「付加情報・参考情報」という位置づけであって、一番重要なことを言い表す場合にはふさわしくないことがあります。特に、相手に何かを尋ねるときに使うのには注意が必要です。たとえば「ちなみに、どれがおすすめですか」は、「(その考えに従うかどうかはわかりませんが)いちおう『参考情報』としてうかがっておきます」というような悪印象を与えかねないので、ちなみにご注意を。
「せいぜいがんばって」と言われて嫌な気分に…
Q:上司から「せいぜいがんばって」と言われて、嫌な気分になりました。
A:「せいぜい」には、もともとは悪い意味はありませんでした。しかし近年では意味の変化が進んでいるので、使う場合には(そしてそれを聞き手として解釈する場合にも)注意が必要です。
「せいぜい」は、漢字で「精々(精精)」と書きます。字を見ても想像されるとおり、「がんばって」「一生懸命」「力を振り絞って」というのが、本来の意味です。
「ソップも牛乳もおさまった? そりゃ今日は大出来だね。まあ精々食べるようにならなくっちゃいけない。」(芥川龍之介『お律と子等と』1920(大正9)年)
「上等のかつおぶしを、せいぜい薄く削り、わさびのよいのをネトネトになるよう細かく密におろし、思いのほか、たくさんに添えて出す。」(北大路魯山人『夏日小味』1931(昭和6)年)
このように、「せいぜい」はもともとは積極的な意味で「がんばって」という意見を示すものでした。これに対して、時代が下ると「(まあ、がんばったところで)たいしたことはないだろうが」というような、マイナスのニュアンスが伴うようになってきたのです。
解釈は年代差がある
ウェブ上でおこなったアンケートでも、「せいぜい」の解釈をめぐって年代差があることが見て取れます。「せいぜいがんばってください。」という言い方に対して、60歳以上の人たちでは「『いやみ』または『応援』の、どちらのつもりで言っているのかは、その場面によって異なる」という回答が4割程度を占めているのですが、20代ではわずかに2割程度です。
若い人たちの間では、「いやみとして言っている(言った人に、純粋に応援する気持ちはない)」という回答が、圧倒的に多いのです。
ぼくは、ほかの人から「ま、これからもせいぜいがんばって」と言われても、凹んだりしていません。あ、この人は伝統的な日本語を守っているんだな、と尊敬するようにしています。