他の人と同じことをしていると個性は損なわれてしまうのか。スクールカウンセラーの藪下遊さんは「個性とはそんな表面的なことで押さえ込めるようなものではない。他の人と同じことをしていたとしても滲み出てきてしまうものである」という――。

※本稿は、藪下遊、髙坂康雅『「叱らない」が子どもを苦しめる』(ちくまプリマー新書)の一部を再編集したものです。

「なまはげ」が教えてくれる3つのこと

前回の記事で述べた子どもたちや親のあり様から、外界との関わり方にかなり特徴的な様子が読み取れたと思います。外界との関係の取り方について、秋田の男鹿おが地方の風習である「なまはげ」を通して考えていきましょう。

なまはげという鬼のような化け物が家に来て「悪い子はいねがー」「山に連れて行くぞ」などと怖がらせ、子どもは「お利口にします(泣)」と約束し、親も「すみません」「お利口にさせます」などと頭を下げ、ていねいに接します。

こうした一連のやり取りには、以下の事柄を教えるという人類学的な意味があると内田樹先生は述べています。

①家の外には「家の仕組み」とは異なる「外の世界」がある。
②親であっても「外の世界」を簡単には変えられない。
③なので、子どもたちは「外の世界」に合わせていくことが重要になる。
なまはげ
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「家の仕組み」がすべてではない

小さい子どもは「家の仕組み」を世界のすべてだと思っています。これは自然なことですが、成長するにつれて「家とは別の外の世界がある」ことを理解していくことが求められます。なまはげは今までの「家の仕組み」が通用しない「外の世界」を象徴する存在として登場するわけです。好き勝手していては許してもらえない「外の世界」があるという経験ですね。

併せて、そういう外の世界の仕組みは「そう簡単には変えられない」ということも学んでいくことが大切です。多くの人が共存するためにはルールや法律などの仕組みが必要で、少し窮屈でも「みんなが少しずつ我慢すること」によって、みんながそれなりに心地良く過ごすことができるように外の世界は設計されています。「外の世界」の象徴であるなまはげに対して、親が頭を下げ、ていねいに接することで子どもに「変えることが難しい外の世界がある」と伝えていくことになるわけです。

また、アメリカを代表する精神科医であるハリー・スタック・サリヴァン(一九五三)は、児童期の子どもが身につけるべきは「協力・競争・妥協」であるとしています。

学校という社会に加入することは、家庭教育のゆがみが是正されるチャンスであるとも述べています。学校社会の中で、誰かと協力したり競争とその結果に伴う感情を体験したりすること、自分の欲求について妥協することなど、家庭ではしなくて済んでいたことを学校社会で身を以て味わわされるというわけです。

「外界と調和するつもりがない」というマインド

こうした「外界に合わせる」という考え方には、かなり強い反対の声があります。「外界に合わせていては、その子どもの個性が潰されてしまう」「同調圧力によって、言いたいことも言えなくなる」など。そういう声も一理あるとは思うのですが、最近は以下のような事例に出会うこともまれではなくなりました。

バックパックを背負った女の子の後ろ姿
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「嫌がることはさせないでほしい」という園児の母親

【事例:○○ちゃんワールドを大切にしてほしい】

年中の保育園児。みんなが一緒に参加する活動であっても、自分の好きなことをしており、活動に誘っても頑として受け付けない。親に相談すると「○○ちゃんワールドがあるんだから、それを大切にしてほしい」「嫌がることをさせないでほしい」と話す。

この事例の親は、自分の子どもが周囲と違う活動をすることによって、クラスに割り当てられている数少ない保育士の一人が、自分の子どもに付きっきりになってしまうことには考えが及ばないようです。また、残りの保育士が一人当たり見なければならない園児の数が増え、それが取り返しのつかない事故につながるリスクにも興味がないのでしょう。

こういう事例に会うたびに、そもそも最初から、集団に溶け込もうとすることや、集団の中で周囲に合わせて自分を変えることを放棄してしまっている印象を受けます。いわば「外界と調和するつもりがない」というスタンスを堅持しているわけです。

もちろん、発達障害、ギフテッド、その他の特徴の凸凹など、子どもが環境に「調和しづらい」要因はたくさん考えられます。彼らが環境と「調和するつもりがあるけど、調和しづらい」のであれば、周囲の大人は彼らの特徴をきちんと把握し、困難を軽減し、その環境にいやすくするための努力を最大限していくことが重要になります。

ですが、彼らが環境と「調和するつもりがない」としたらどうでしょうか? 自分には個性があるんだ。他の人とは違う自分なんだ。そんな自分を周囲は大切にするべきだ。

自分は変わるつもりがない。そういうマインドを持っている人が、「自分に合わせて環境を変えてくれ」と働きかけてきたとしても、その要求に応じることに戸惑いを覚える方が自然ではないでしょうか。

他者と同じことをしていたら個性は育たないのか

このような「外界と調和するつもりがない」というマインドが生じる要因の一つに、個性に関する誤った認識があると私は考えています。

個性を「他の人と違うこと」だと思っている人がいます。だからこそ、「周囲に合わせること」に否定的な感情が生じるわけですし、そう信じて疑わない人ほど、学校で一斉教育をすることや、他者と同じことをすることを「個性を損なう」と考えがちです。

ですが、個性とはそういうものなのでしょうか? 他者と同じことをしていたら個性は本当に育たないのでしょうか? 私は人間の内側にある個性というものは、そんなことで損なわれるほどヤワなものだと考えていません。

さまざまな色のたくさんの人型
写真=iStock.com/JuSun
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他の人と同じことをしていたとしても滲み出る

歌舞伎や落語を思い浮かべてください。これらの「内容」はかなりの年月変わっていません。多くの役者や落語家が「同じ内容」をずっとやり続けているはずです。しかし、演じる役者や落語家によって「違い」があります。だからこそ「あの人のにらみは良いねぇ」とか「この人の人情ばなしはひと味違う」などの感想が出てくるわけです。つまり、「同じ内容」をしていても、その人の「らしさ」や「個性」が滲み出てくるのです。

個性とはそういうものです。他の人と同じことをしているとか、そんな表面的なことで押さえ込めるようなものではありません。個性とは「他の人と同じことをしていたとしても滲み出てきてしまうもの」なんです。

もちろん、個性の発見は一日にしてならずです。ある程度の期間、周囲と同じことをしていないと「周囲とは異なるところ」「他者とは一味違うところ」がわかるはずはありません。社会から提示されたことに取り組み、反復を繰り返すという日々が必要になりますし、それ自体は楽しいことばかりではないでしょう。しかし、こうした期間があるからこそ「他者と同じことをする中で発見された個性」を持つ人は、社会の中で「孤立していない」と言えます。

しかし、「他者と同じことをしていては個性が育たない」と思っている人は、他者との関係を重視しなくなります。他者と関わっていれば、そのぶん個性から遠のくと考えているわけですからね。ですが、他者との関係性を前提としない「個性」というものは、たとえ本当にオリジナリティのあるものだったとしても「孤立」の匂いがするものになってしまいます。

「only one」と社会と調和しないことは別物

この「個性」と同じような考え方に「only one」があります。かつて「世界に一つだけの花」という歌が大流行しましたが、そのあたりから爆発的に広がったように記憶しています。「自分はonly oneだ」「うちの子はonly oneなんだから」という声に対して、現代では非常に異議を唱えにくい風潮があります。

しかし、「only one」であることと、社会と調和しようとしないことや、社会からの要求に応えないことは別なはずです。唯一の自分であっても、大勢の中の一人であるという事実は変わりません。その事実を無視し、社会の中で「only one」として振る舞えば振る舞うほど、社会からは「調和しない人」として扱われる恐れがあります。その扱われ方は、おそらく「自分はonly oneだ」と主張する人が望むそれとは大きく隔たりがあるものになってしまうことでしょう。

虫眼鏡で拡大された人型
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「only one」と「one of them」のバランス

精神科医の中井久夫なかいひさお先生は、人間の精神的健康の条件として「only one=唯一の自分」であるという自覚と、「one of them=大勢の中の一人」であるという自覚のバランスを挙げています。これらは互いに矛盾するものですが、その矛盾をそれ以上詮索することなくいられる状態が重要であるということです。

個性の尊重であれ「only one」であれ、重要なのはバランスです。個性を尊重するあまり集団への調和を軽視してもいけませんし、「only one」であることに重きを置くあまり「one of them」であることを受け容れられないようでは困るわけです。

薮下遊、髙坂康雅『「叱らない」が子どもを苦しめる』(ちくまプリマー新書)
藪下遊、髙坂康雅『「叱らない」が子どもを苦しめる』(ちくまプリマー新書)

私は、このような個性や「only one」についての偏った社会の風潮が、本書の第2章の冒頭で挙げている「思い通りにならないことに耐えられない」といった子どもの状態を招いていると考えています。幼いころから「個性尊重」「only one」という主題を中核に据えて育てられてきた子どもたちが、いざ学校という「外の世界」に出立するにあたり、調和の難しさ、環境への不快を訴えるのは自然と言えば自然です。

また、「個性尊重」や「only one」が変質して、子どもの否定的な側面から目をらす盾となってしまったならば、子どもたちは「こころの奥底にある自信の無さ」を共有される機会も得られず、また、その自信の無さを覆い隠すように「万能的な自己イメージ」を前面に押し出すことも無理がないと言えるのではないでしょうか。

・内田樹(2011)『「おじさん」的思考』角川文庫
・Sullivan,H.S.(1953)『The Interpersonal Theory of Psychiatry』中井久夫・宮﨑隆吉・高木敬三・鑪幹八郎(訳)(1990)『精神医学は対人関係論である』みすず書房
・中井久夫・山口直彦(2004)『看護のための精神医学 第2版』医学書院