※本稿は、小西一禎『妻に稼がれる夫のジレンマ 共働き夫婦の性別役割意識をめぐって』(ちくま新書)の一部を再編集したものです。
生気を失い議員秘書を辞めた夫
「妻のほうが自分より稼いでいる男たち」として、渡辺さん夫妻(五〇代前半)にインタビューを試みた。
「もう、すべて投げ出したい。俺はもうダメだ。死にたい」
ある日の夜、夫の異変に気付いた妻は翌朝、病院の精神科に連れて行った。生気を失った夫に対し医師が下した診断は、深刻な適応障害だった。有無を言わさず、即緊急入院が決まり、まるで「独房」のような空間に押し込められ、三日間ほど強い薬を飲まされた。危険な状態がその後も続き、入院生活は約一カ月に及んだ。
退院後、妻をはじめ周囲と話し合った結果、「仕事をするのは当然無理だ」と判断し、ひっそりと議員秘書の仕事から離れた。選挙による民意の結果、市議に当選した妻を辞めさせるわけにはいかない。政治の現場を知る渡辺さん(五〇代前半)は、その選択肢は検討すらしなかった。妻のキャリアを優先する形で、渡辺さんが主夫になり、妻の政治活動を傍らで支える道を選んだ。
渡辺さんが、離職を余儀なくされ、家事育児を全面的に担う主夫になるきっかけとなった適応障害の発症は突然訪れた。「いきなり、パーンとはじけた感じ」(渡辺さん)と振り返るように、周りはまったく気付かなかった。
活躍する妻と落選した夫
入院の前年、渡辺さんは初挑戦の選挙だった県議選で落選した。同じ年、市議二期目の当選を果たした妻は活躍を続け、連日忙しく走り回っていた。
渡辺さんは、落選から数カ月後、参院議員秘書となったが、議員の要求に的確に応えられず、叱責や罵倒を繰り返された。人間同士、折り合いの悪さもあった。落選し、秘書の仕事がうまくいかないという負の流れが続いていたなかで、異変に見舞われるのは、時間の問題だったのかもしれない。
義父義母からの容赦ない叱責
落選した渡辺さんが秘書に就任してから四カ月後、双子が誕生していた。当時、上の子どもは二歳。渡辺さんはその後、自宅で子どもの面倒をみる傍ら、当時はまだ珍しかったテレワークに移行した。自宅で文書を作成したり、指示を出したりする仕事に努める一方、永田町の議員事務所には週一回ほど出向いていた。
実の娘が政治活動にいそしむなか、仕事をしながら育児を続ける渡辺さんに、義父、義母からは「ちゃんと、できてるのか」と叱責が飛んでくる。
あらゆることが積もり、一気に爆発した。
議員秘書兼主夫の兼業主夫から、妻を手伝いながらの主夫に転じた渡辺さんは以後、九年間、家事育児に専念し、政治家の妻を支え続けた。その間、何度も複雑な思いを抱くこととなる。
稼げない自分が「ふがいない」
県議選に落選、適応障害が理由で秘書を辞め、家事育児に専念する生活が始まった。共働きではないため要件を満たせず、一歳未満の双子は保育園に預けられなかった。長女を延長保育がある幼稚園に通わせ、義両親の助けも得て何とか日々を過ごしていた。
妻とは、「できる範囲で、家のことをやってね」みたいな感じで始まったんですね。退院した直後で、仕事ができるような心持ちではありませんでした。だからといって、家事、育児がスムーズにできたかといえば、全然だめだったんですけど。
もう、モヤモヤどころじゃありませんでした。モヤモヤどころか、ふがいない自分に対する不満です。その状況が、ずっと続いていました。何とか、家事育児をやっとったという感じですかね。収入なしっちゅうのがね、僕の心の中で、何て言うんかな、うーん、ストレスにしかなってませんでしたね、明らかに。
父親は稼ぐものという深層心理
渡辺さんが自らをふがいなく思う最たる理由は、父親として無収入に陥ったこと。完全に収入が絶たれた我が身に直面したとき、知ることのなかった深層心理が浮かび上がった。
落選して、いろいろな経緯で辞職して、自分で自分に、ダメ人間っていうレッテルを貼っていました。落選し、お金を稼げていない、情けない、そういう感情っすね。
で、どんどん自分を責めていました。
その時思ったのが、意外と自分って、めちゃめちゃ家父長制思想だったんだなっていうことでした。外で稼げない自分がふがいなくって。自分は無収入で食わせてもらっている立場で、日々やっていることは、子どもの世話、台所での食事作り、家事。
情けなく思いました。やけになりました、はい。
バリバリ働く妻に抱いた悔しい気持ち
家父長制思想に染まっていた心中には、「女たるもの、洗濯も掃除も料理もパーフェクトにやるべきだし、それをやるのが女だ」という考え方がすっかり根付いていた。
外で市議の仕事をこなす妻に対し、渡辺さんは家の中での家事・育児が生活の中心だ。男は外で稼ぎ、家族を養うものとする固定観念を持っていたという現実を突き付けられた。
「俺が変わらなきゃいかん」という覚悟
「パパ、また、怒っているの?」
当時四歳の長女から突然言われたのは、主夫に転じて、一年ほど経ったころだった。
ほぼ同じ頃、妻から手紙を受け取った。渡辺さんが家庭で見せる態度に対し、「あなたが何を考えているのか分からないのが辛い。このままだと、安心して仕事に行けない」と、これまで抱えてきた辛い心情を切々と綴った内容だった。渡辺さんは、自分の態度が、子どもも妻も悲しませているのだと知り、がく然とした。そして、決意を新たにした。
「このままじゃ、ダメだ。俺が変わらなきゃいかん」と覚悟を決めた。
気持ちを切り替えて充実した日々に
気持ちを切り替えてからの渡辺さんは「毎日がハッピーだった」と振り返る。
ある時期から、空いている時間を活用して、妻の市議活動を裏方として支え始めた。妻が県議に当選した後は、より前面に出てサポートするようになり、政務調査費の会計作業や日程管理を担当する秘書業務を担った。地方議員には公費で人件費を負担する公設秘書制度がないため、妻からの支出で月三万円の収入を得た。収入がゼロの専業主夫ではなく、収入がある兼業主夫に転じ、ストレスを抱えることもなく、充実した日々を送っていた。
「○○ちゃんのパパは、何で仕事してないの」の一言
とは言え、昼夜とも妻を支え、子どもを育てるというライフスタイルをどう見られているのか、周囲の視線が気になることはなかったのだろうか。
具体的なエピソードが、二つ挙げられます。一つ目は、県議選に落選した後、久々に再会した高齢の男性支援者から、こんなことを言われました。「いつまで遊んでんだ」と。双子が生まれて、主夫になった時です。妻の仕事を手伝っていたので、ショックでしたね。「こっちは遊んでねえんだけど」っていう思いです。
もう一つは、長女が四歳か五歳の頃でした。延長保育がある幼稚園に入れていたんですが、その日は延長ができず、午後二時に迎えに行きました。長女は、いつもより帰りが早いこともあり、「パパ、友達とお庭で遊んでから帰りたい」と言うので、「いいよ」と応じて、園庭で遊ぶのを見ながら、遊び終わるのを待っていました。
平日の午後二時、園庭にいた男性は渡辺さんだけで、他は女性ばかり。話し相手もいないため、園庭の隅っこで、ずっと新聞を読んでいた。
子どもははっきりと口にするので、自分がどう見られているかが分かってしまう。片や、迎えに来ていたママたちは、口にこそしないものの、何を考えているかは分からない。
「仕事はどうしているのか、とか言われてるんじゃないか」と、視線が気になって仕方がなかった。
良き理解者に救われた
一方で、良き理解者にも恵まれた。
渡辺さんは、彼女らに自分たちの夫婦役割を詳しく話したことはなかったため、夫が育児を全面的に担っていることを知らなかったはずだという。「ひょっとしたら、不思議に思われたり、興味深く思われていたりしたのかもしれませんが」と振り返った。迎えだけでなく、参観日に出向くのも渡辺さんの役割だった。
幼稚園への迎えや行事の参加は女性がするものという、アンコンシャスバイアスに基づく思い込みとは無縁な先生に「本当に救われました」という。