子どもがいる女性と子どもがいない女性の間の溝を埋めるには、どうしたらいいのか。アメリカに住む、作家で歴史学者のペギー・オドネル・ヘフィントンさんは「私は当初、母親とノンマザーの『内戦』の片棒を担ぐような本を書こうとしていた。しかし、両者は同じ『塹壕』に入っている。互いに助け合ったほうがいいに決まっている」という――。(第2回/全3回)

※本稿は、ペギー・オドネル・ヘフィントン『それでも母親になるべきですか』(新潮社)の一部を再編集したものです。 

口論する人たち
写真=iStock.com/DragonImages
※写真はイメージです

コロナ禍で教えられたこと

2020年1月末、私はシールプレス社と契約を結び、アメリカ史において子どものいない女性に関する、私が言うところの「活気と多様性」、つまり彼女たちが下した選択、彼女たちが生きた人生、達成したことについての本を出版することになった。しかし6週間も経たないうちに、私はトイレットペーパーをインターネットで探したり、バーチャルで授業をする方法を学んだり、自宅からビデオで誕生日パーティに参加したりすることで頭がいっぱいになってしまった。

春の間ずっと、不安と孤独で胃が縮む思いだったし、学生たちがさまざまな種類の危機を乗り越えるのを手助けすべく頑張っていた。しかし、私のパンデミックがいかに大変だったとしても、子育て中の知人が体験したパンデミックとは比べものにならなかった。調子がいい時に与えられていたわずかな支援も得られず、彼女たちはかろうじて毎日を乗り切っていた。

この2年間に私は多くのことを教えられた。これほどの抗議の声があるにもかかわらず、いかに母親や家族、子どもたちへのケアが少ないかを思い知ったのだ。

そこには、奇妙な政治的行き詰まりがある。表向きは乳幼児の弁護を理由に、連邦最高裁判所がローの判決を破棄する機会を与えた訴訟はミシシッピ州で始まったが、この州は、生まれた乳幼児のケアが上手ではないことが証明されている。ミシシッピ州の乳幼児死亡率は全米でワースト1位なのだ。

非営利団体「セーブ・ザ・チルドレン」によると、同州の未成年者の4人に1人近くが飢餓を経験している。州知事のテイト・リーブスは、「ローが覆ったら、州は母子のケアに専念する」とツイートしている。なぜ、人を助けるのに、中絶法が変わるのを待たねばならないのかと、あるコメンテーターは尋ねた。

この本を書こうとした理由

この本を書くのに費やした年月が私の心を柔らかくし、とりわけ私の人生に関わってくれた母親たち、両親たちに対しての態度が和らいだ。そもそも私が、子どものいない女性の価値や功績について書きたかったのは、自分たちのことをもっと評価してほしい、と思ったからでもある。

私は、子どものいない人、とりわけ女性たちに降りかかるさまざまなことに、いらいらし、腹を立てることさえあった。特に職場では、親が保育園の送迎や夕食に出かけた後、ひとりでイベントの後片付けをしたり、誰かの産休のために自分の仕事が大変になったり、保育の手配がうまくいかなかった誰かの作業を肩代わりしたり。子どもがいないからといって、私が忙しくないわけでも、疲れていないわけでも、大切な用事がないわけでもないのにと、苦々しく何度も思った。

しかし、リサーチと執筆を重ねながら、周りの親たちが苦労しているのを見ているうちに、このような考え方は、単に狭量で不親切であるだけではないと気づいた。

もちろん、その両方である上に、危険でもあるのだ。なぜなら、この考え方は、あまりにも簡単に、もっと別の、大きく重要な事柄へと紛れ込んでしまうからだ。

なぜ私の税金は、公立学校や危険な若者のためのプログラム、困難な家庭のための住宅プロジェクト、幼児教育の取り組みに使われなければならないの? 子どもを産むと選んだのは私ではない――あなたでしょう。

人種紛争のピクトグラム
写真=iStock.com/hachiware
※写真はイメージです

「私vsあなた」以外の選択肢

過去の女性たち、この本のページに登場する女性たちは、私に教えてくれた。私の時間vsあなたの時間、あなたの子どもvs私に子どもがいないこと、私の選択vsあなたの選択、といった考え方が、唯一の選択肢ではないことを。

今の時代に、子育て中の親たちが苦労している姿を見ながら、そんなことはあり得ないと確信した。

私たちが互いから後ずさりすることで、全員が孤立し、母親と子どものいない女性との間に溝ができている。この溝は、私たちの人生がまったく別のものである場合にのみ意味をなすものだ。

しかし、そうではない。環境、政治、文化など、私たちすべてに訪れる危機を乗り切るには、次世代を、親がひとりで背負うべき個人的なものではなく、私たち全員が取り組むべきプロジェクトと考えなければならない。

「同じ穴のムジナ」だった

シーラ・ヘティが言うところの、母親とノンマザーの「内戦」の片棒を担ぐような本を書くところだったと考えると、私は身がすくむ思いだ。もし塹壕があるのなら――そのような状態に見えるのは確かだ――私たちは一緒にその中に入っている。互いに助け合ったほうがいいに決まっているのだ。

この本は、ある疑問から始まった。「なぜ、アメリカ人女性は子どもを産まないのか?」その答えは簡単ではない。これまで見てきたように、そこに至る歴史があり、多くの出来事がこれまでに刻まれてきた。

そして、現在の子どものいない状況は――選択なのか、運命なのか、その中間なのか――たとえその原因を正確に特定できたとしても、また、そもそもそれを解決することが必要であり、有益であると同意したとしても、解決できるものではない。

50年前に比べて2倍の時間をかけている

今日、女性が子どもを産まない理由は新しいものではなく、言い訳でもない。それは、自分たちを取り巻く世界の状況を冷静に見つめた結果なのだ。

ペギー・オドネル・ヘフィントン『それでも母親になるべきですか』(新潮社)
ペギー・オドネル・ヘフィントン『それでも母親になるべきですか』(新潮社)

私たちは、かつてのアメリカ人に比べて、多く働き、多く引っ越し、コミュニティが少なく、つながりが薄い。現代の子育ての要求は高まるばかりで、今日の母親は、50年前に比べて子育てにほぼ2倍の時間を費やしている。しかも、家の外で働く母親が激増しているのだ。

今日の女性が、30年前、70年前、100年前と比べて妊娠することが難しくなっているのは、出産年齢が上がっている(現代生活のプレッシャーを一因として)だけでなく、環境要因によって、すべての人の、とりわけ男性の不妊が増えたせいでもある。

そして世界的にも歴史的にも、女性に教育や職業上の機会が開かれると、出生率が低下してきた。もし私たちが現在と同じような未来を望むのであれば、地球上の人間の数が減ること――石油を燃やしてゴミを作り、地球の裏側で育てられた肉を食べる人が減ること――が必要となる。

しかし私たちは、人生でどの道を進むかを、より自由に選ぶことができるようになった。そして、選べる道が多ければ多いほど、より多くのものを残すことができる。

「なぜ」よりも「どうしたら」の問い

皮肉屋になっているときの私は、正しい質問は「なぜ、アメリカ人女性は子どもを産まないのか?」ではなく、「なぜ」、いや、いったいどうやって「産めばいいのか?」であると思う。

楽観的になっているときの私の質問は、もっと生産的だ。「これから私たちはどうすればいいのだろう? 資源に乏しい地球、時間やお金に追われる生活の中で、子どもたちが与えてくれる喜びや希望や活力を否定することなく、産み出す新しい命を少なくするには、どうしたらいいのだろう?」

子どもを産むか産まないかの差がそれほど大きくなく、どの子どもについても3人以上の大人が子育てに関わり、母親であることが仕事と生活に押しつぶされることを意味せず、母親でないことが次世代の子育てに無関係であることを意味しない。そんな未来が想像できるだろうか?

理論家のダナ・ハラウェイは「もしも、新しい子どもを作ることが、拡大した共同体にとって、真の喜びの行為であり、重要な、日々の責任になったらどうだろう?」と問いかける。「自分の体から生まれる赤ちゃん」を超越して考えなければならない、とハラウェイは書いている。