冬でも半袖で、靴下を履かない81歳
扉を開けると、眩い光を背にした元気な笑顔に迎えられた。一般社団法人おせっかい協会会長、高橋恵さん。小柄な身体に溢れんばかりのパワーがみなぎり、人を惹きつける魅力的なオーラを持つ女性だと一瞬で思う。
東京都中野区、中野駅すぐの高層マンションの一室、ここが高橋さんの自宅であり、おせっかい協会の本部だ。開放的なワンルームは、太陽の光が降り注ぐ、ひだまりのような空間。大きく開かれた窓ガラスの向こうには、迫力ある東京の大パノラマが広がる。
驚くことに高橋さんは半袖のチュニックに、足元はなんと裸足なのだ。いくら暖冬とはいえ、12月後半だ。こちらは、分厚いコートにヒートテックまで着込んでいるというのに。
「私、冬でも半袖で、靴下も履かないの。いつも、こんな感じ」
高橋さんは、こともなげに笑う。この日は地方から来たメンバーが数人おり、「いつも、こうなんですよ」と笑いながら相槌を打つ。何だろう、ここに流れるあたたかさ。高橋さんのことなら何でも知っているとばかりに、まるで家族のようだ。
人が何と言おうが、いいと思える生き方を
対面した高橋さんの指には、大ぶりなアイボリーのバラの指輪。そして、鮮やかなピンクのネイルがパッと目に飛び込んでくる。81歳という固定観念が、心地よく崩される。
「私、歳を取るの、やめました。皆さん、やめればいいんです。今月は、これにしたのよ。2月8日に82歳になるから、『2882』って描いてもらったの」
誘われて足元を見るや、ド派手なピンクのネイル、しかも両方の親指に、黒で、「28」と「82」の数字が描かれている。
「トウモロコシの季節は黄色にして、海外に行く時は相手の国旗をネイルに入れるの。そうすると、喜んでもらえるから。こうやって、皆さん、楽しめばいいんですよ。誰にも迷惑をかけないし、いくつになろうが、人が何と言おうが、いいと思える生き方をしないと。世間体とか、常識とかに囚われすぎると、自分の人生を苦しいものにしちゃうんですね」
いきなり放たれる連続パンチに、圧倒される。明るくパワフル、まるで太陽のような存在だ。
母は26歳の時に3児を育てるシングルマザーとなった
それにしても、取材で味噌汁を振る舞われたのは初めての経験だった。大根、牛蒡、人参、里芋、カボチャまで入った具沢山の味噌汁は、相手を思う愛情そのもの。麦味噌の甘みがほっこり、やさしく染み渡る。
「これはもう、何年も前からずっと。時間があると作っておくの。あるといいでしょ。宅配便屋さんがくると必ず、お茶とお菓子をあげるの。みんな、喜んでくれる。楽しいこと、うれしくなることをしてあげると、相手は喜ぶ。ここは、そういう場所でもあるの。だって私は、人生のフルコースを生きてきたから、今度は与えることをしていきたい」
人生のフルコース……、何と斬新な響きだろう。結婚、出産、子育て、離婚、会社経営、孫育て、再婚、死別、これが、高橋さん自身が味わってきた、「人生のフルコース」だ。
高橋恵さんは1942年、戦時下真っ只中に、三姉妹の次女として生まれた。3歳の時に父親が戦死し、戦後の混乱期に、母親は26歳でシングルマザーとなった。貧困に喘ぐ生活の中で、3人を育てることが難しく、高橋さんは遠い親戚に預けられ、理不尽な日々を送ることとなる。このつらい日々を支えたのが、母親が何度も語ってくれた一つの言葉だ。
つらい日々を支えた言葉
「天知る 地知る 我知る」
「後漢書」楊震伝に、「天知る、神知る、我知る、子知る」という言葉がある。他人は知るまいと思っても、悪事はいつか必ず発覚するということ。
高橋さんの母は誰も知るまいと思っても、隠し事は天の神様が知っている、地の神様も知っている、そして自分が一番よく知っているという話を何度もした。高橋さんは続ける。
「同時に誰も見ていないと思える良い行いも誰かが見ている。良い行いは宇宙銀行に貯金されている、私はそう思うことにしているんです」
ここに、おせっかい協会を立ち上げた原点がある。
広告代理店で紅一点ながら、トップセールスに
高橋さんはその後、親戚での生活から東京に戻り短大を出た。姉が短大を出してくれたのだという。
短大卒業後、広告代理店に勤務。高橋さんは自分から希望して、営業職に就いた。社員57人中、女性は1人。そこで、トップセールスを記録する。1960年代当時、決して、女性が働きやすい時代ではなかったはずだ。
「とにかく、何でも楽しんで仕事をすれば、いくらでもできる。売れない、できないという方向ではなく、トランプだって52枚の中にエースは必ず4枚あるのだから、52件も回らないで、できないと決めるのはおかしい。こんなふうに考えて仕事をしていると、どういうわけか、みんな、うまくいくの。見返りを求めない、損得を考えない。まずは気持ちが大事。お金の力ではなく、人間は感情の動物だから、心の力を動かすこと。相手が喜ぶであろうことを、一生懸命にしてきただけ」
悔しい気持ちは川柳にぶつけた
会ってくれた人には、その日のうちに礼状を書く。きっと、そのほうがうれしいだろうから。そうやって、相手に喜んでもらえるように努力した。営業の現場では時に、つらいこともある。
「意地悪をされたり、見下されたりすると、私もあなたを見させてもらっていますよという気持ちで、川柳を作っちゃう」
その川柳が、これだ。
「見知らぬセールスマンに見せる素顔こそ、その人の素顔なり」
嫌なことも、川柳にして楽しんだという高橋さん。負の感情に囚われることを徹底して避け、笑いに転じた。
「そうすると、こういう人にならないように気をつけようと思うでしょ。だから、人生のお手本探しって考えていくと、営業はつらくはない。そうやって営業の成績が上がると、今度は飛び込み営業が趣味になっちゃう」
人と出会うことこそ、営業の現場だ。それこそが、高橋さんにとっての学びとなった。
「自分のお手本探しだと思ったら、どんな相手とでも楽しく話せる。そこで気づいたのは、営業というのは物があってもなくても、人の心を動かすことができたら成立する。私は全て、人から学ばせてもらったんです。飛び込みをすれば、いろんな人に会えるし、いろんな人から学ばせてもらえるし、やはり、人の顔を見て、人の心が動いて、それで決まった仕事は大事だと思いました」
心の力、それは今のおせっかい協会の活動にも通じるものだ。
誰が何と言おうと、女性も働かなければ
結婚して、娘が二人生まれても、高橋さんは子育てをしながらさまざまな営業職に就き、トップセールスを記録した。当時、専業主婦が圧倒的に多かった時代だ。
「当時は、女の人は家にいるものだと思っている人が多かった。女が働いても、大したことができないとされていた。でも私は母の姿を見ていますから、サラリーマンに嫁いで、もし夫に何かがあったら、女性も生きていく力をつけておかないと、一緒に死ぬようなことになってしまう、それではいけないと思ったんです。だから、誰が何と言おうと、女性も力をつけて働かなきゃいけないという思いが、私は人よりも強かったんですね」
しかし、幼い子どもを抱えて女性が働くのは、今でも多くの困難がある。だいぶ、解消されたとはいえ、保育園の待機児童問題に女性たちは悩まされてきた。
「みんな、子どもがいるからできない、子どもを預かってもらえないからできないって、仕事ができない理由ばっかり並べ立てる。私はできない理由よりも、できる理由を考えなさいと言うわけ。そうすると、いろいろなアイデアが浮かんでくる。子どもが保育園に入れないなら、子どもが好きで、子どもの面倒をみたいという人に預ければ、安心でしょ。これで、どちらも良いわけですから」
子どもたちを引き取るために起業を決意
娘が高校生になった頃、40歳の時に、高橋さんは離婚する。
「家の中に、男が二人いるような感じになっちゃったんでしょうね。やっぱり、相性もあるでしょう。できれば、別れないほうがいいと思うんですよ。でも、時と場合によっては、しょうがないこともある」
子どもを育てるためには、稼がなければいけない。高橋さんは42歳の時、娘と二人でPR会社の起業を決意する。
「子どもたちを引き取りたくて、少しでも高い収入を得られるようにと選んだのが起業でした」また、一からのスタートだ。
「小さなワンルームで仕事を始めた時、上の部屋が空いたからそこも借りて、名刺に部屋番号ではなく、『6F・7F』にしたの。そうすると、2フロアがあるように見えるでしょ。名刺を見せると、『すごいですね』って言われて。実際は一間で、自分の部屋だったりするんだけれど、そうやって嘘でない嘘をやりながら楽しんで。そういうふうに考えていったら、何をやってもできる」
当初は苦労もあったはずだが、高橋さんは吹っ切った笑顔で流暢に語る。
「コネがなくても行動力、常識がなくても知恵があって、身長がなくても体重がある。まあ、健康であれば、できるということです」
「言葉」へのこだわり
高橋さんが生み出した「名言」は数知れず。
「思い立ったら、即速行動」
「石橋を叩く前に渡り切る」
「言い訳の天才より、できる天才になってほしい」
つらい日々を支えてくれたのが母の言葉だったからこそ、高橋さんは人の心に響く言葉にこだわる。そうやって、30年かけて生み出した「おせっかい名言」がこの度、「百人一首」ならぬ、「百年一首」というカルタになった。
「誰でも、この言葉を100個覚えるだけで、人生が全然違ってきます。本当にいい言葉が、100枚。これなら遊びながら、覚えられる。言葉の力で、人をいっぱい助けてあげられるなら、私はそうしたいんです」
病院より美容院に行こう
フルコースの後半に待っていたのが、再婚だ。高橋さんは49歳で、5歳下の男性と結婚。しかし高橋さんが75歳の時、夫は他界した。伴侶との離別と死別の両方を経験するとは、まさにフルコースだ。起業した会社は娘が代表を務め、今や東証一部上場企業となった。60代は孫育て、70代になり、おせっかい協会を一人で立ち上げた。
82歳間近の今、薬どころか、サプリも補助食品も何も摂らない。手元にあるノートの細かい文字を、老眼鏡なしにスラスラ読む。
「風邪をひいても、ひいていない。健康診断には行かない。行ったら、予備軍にされるから。『病院より、美容院に行こう』です」
出たぁ〜、「おせっかい名言」。パワフルな笑顔に、その通りだと心から思う。
「80代は、一番面白いです」
確信に満ちた、高橋さんの揺るがぬ思いだ。