※本稿は、堀内勉『人生を変える読書 人類三千年の叡智を力に変える』(Gakken)の一部を再編集したものです。
ふと手に取った『幾山河――瀬島龍三回想録』
ふと手に取った一冊が、瀬島龍三の『幾山河――瀬島龍三回想録』(産経新聞社)でした。
どのような経緯でこの本を手にしたのかは、いまとなってははっきりと覚えていません。私の父が軍人だったこともあり、陸軍大学を主席で卒業して大本営という日本軍の中枢にいた超エリートである瀬島龍三が、11年にも及ぶシベリア抑留を経て、その後、伊藤忠商事の会長にまで上り詰め、さらには中曽根政権のブレーンとして行政改革で中心的役割を果たしたという波瀾万丈の人生に興味を持ったからだと思います。
瀬島龍三は、山崎豊子のベストセラー小説『不毛地帯』(新潮文庫)のモデルにもなった、とても毀誉褒貶の激しい人物でした。ただ、私が興味を持ったのは、彼のドラマチックな出世物語ではなく、彼がシベリア抑留時代を回顧した部分です。
初めて本に激しく心を揺さぶられた
その一節に、「人間性の問題」という次のような文章があります。
自身が空腹のときにパンを病気の友に分与するのは、簡単にできることではない。しかし、それを実行する人を見ると、これこそ人間にとって最も尊いことだと痛感した。
「自らを犠牲にして人のため、世のために尽くすことこそ人間最高の道徳」であろう。
それは階級の上下、学歴の高低に関係のない至高の現実だった。
私は幼少より軍人社会に育ち、生きてきたので、軍人の階級イコール人間の価値と信じ込んできたが、こんな現実に遭遇して、目を覚まされる思いだった。軍隊での階級、企業の職階などは組織の維持運営の手段にすぎず、人間の真価とは全く別である。
それまで銀行というピラミッド社会を生きてきた自分も、こうした人間の真実に気づかないまま、「会社内の階級=人間の価値」と信じ込んできたのではないか? そんな自分の内面というのは、本当は何もない空洞にすぎなかったのではないか?
そうした思いが心の中で渦巻いていました。
このとき、身につまされながら読んだ『幾山河』は、私の心に染み入るように深く強く入り込んできました。本を読んで、これほど激しく心を揺さぶられた体験は、生まれて初めてのものでした。
こうした出会いを「運命の一冊」というのかもしれません。あるいは、現代風に言えば、セレンディピティ(運命的出会い)とでもいうのでしょうか。
ただ、いま振り返ってもう少し冷静に考えてみると、それはたんなる抽象的な出会いではなく、そのときの自分の心の状態、つまり心構えがその本との出会いを待ち受けていたということのような気がします。
本との出会いも、まさに恋愛のように、出会いのタイミングが重要です。そして、それぞれの人にとって、そんな「いまの自分にとっての一冊」が、きっとどこかにあるのではないでしょうか。
本は芋づる式に出会える
このように、心の鍵が開いた瞬間にあなたを待ち受けている本に出会うことができれば、そこからは芋づる式にさまざまな本との出会いが待っています。
『幾山河』の次に、私はヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』(みすず書房)を読みましたが、これもまた別の意味で頭を殴られるような衝撃を受けました。
フランクルはユダヤ人の精神科医で、ナチスドイツ時代のユダヤ人強制収容所での過酷な生活を生き抜き、解放直後に著した同書は、世界の人々に衝撃を与えると同時に、世界的なベストセラーになりました。
人間はつねに「 生きる」という問いの前に立たされている
その中に、私が衝撃を受けた、以下のような文章があります。
人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない(後略)。
ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。
つまり、私たち人間は、つねに「生きる」という問いの前に立たされている。そして、それに対して実際にどう答えるかが、私たちに課された責務だというのです。
それまでの私は、自分の身に降りかかる不幸を嘆いてばかりいました。「なぜ自分だけがこんな目に遭わなければならないのか?」「どこで道を踏み外してしまったのか?」「あのときにああすればよかった……」と、ひたすら自分の運命を呪っていました。
つまり、自分の周りで起きていることすべてを他人や環境のせいにして、自らを省みることをしなかったのです。
同じ内容の本も読む人の姿勢や心持ちで意味が変わる
フランクルの『夜と霧』について少し触れたいと思います。
じつは、この『夜と霧』という本を、私は大学生のときに一度読んでいました。ただ、当時は、誰かに勧められて読んだものの、強制収容所のあまりの凄惨さに、つらすぎて全部を読み切れませんでした。正直に言えば、あまりにも多くの人がただただ死んでいく様子に耐えられなかったのです。
当時の印象はその程度のものでしたが、37歳になって読み直したときは、これを自分の身に照らし合わせて、食い入るように読みました。これが本の不思議なところで、書かれている内容はまったく同じなのに、読む人の姿勢や心持ち、置かれている環境などが変わることで、本の持つ意味がまったく変わってくるのです。
たとえば、以前の私のように、試験のために本を読むというのは、ある意味では「人から評価してもらう」にはどうしたらよいかを考え、そのために一生懸命本を読むということです。つまり、「自分が何をしたいか」に思いが至っていません。
でも、他人のことはどうでもよいから、「自分はどう思っているんだ?」と考え、そこに焦点を当てて本を読み始めると、本の読み方がまったく変わってきます。「この本を読みなさい」と言われて読む本と、自分の心のアンテナに引っかかって、「この本、おもしろそうだ」と感じて読む本とでは、まったく別の体験なのです。
出会いのタイミングが重要
出会いのタイミングも重要な要素です。これは人についても言えることですが、「このタイミングで出会わなければ、この人とは付き合っていなかっただろう」、あるいは「別のタイミングで出会っていれば、本当はこの人とは仲よくなれたかもしれないのに」ということは、誰しも覚えがあるでしょう。
それと同じで、私も37歳のときに深く悩み、考え、苦しんでいなければ、『幾山河』や『夜と霧』には出会えていなかったでしょうし、その後も「自分だけの一冊」に通ずる入口は閉ざされたままだったかもしれません。
つまり、自分の側に受け入れる準備ができていなければ、どんなによい本であっても素通りしていってしまうし、「自分だけの一冊」には巡り合えません。逆に、本気で求めていれば、そうした本と不意に出会うことがあるのです。