自分がどのような本を読むべきなのかと迷う人が多い。多摩大学大学院経営情報学研究科教授の堀内勉さんは「それは自分にしかわからないはずだが、現代は自分が何をしたいかわからない人が多い。もっと自分の『内なる声』に忠実に生きればわかるはずであり、その手助けをするのが読書だ」という――。(第1回/全4回)

※本稿は、堀内勉『人生を変える読書 人類三千年の叡智を力に変える』(Gakken)の一部を再編集したものです。

具体的な目的にかなう本は紹介できるが…

「どんな本を読めばよいですか?」

講演会やセミナーなどで、ビジネスパーソンや学生など、さまざまな方とお会いするたびに、必ずこのような質問をいただきます。

そのように聞かれる私はじつはかなり当惑している、というのが正直なところです。もちろん、お尋ねの意図が明確な場合には、できるだけその質問の意図に沿った形でお答えするようにしてはいますが……。

たとえば「ファイナンスの教科書で何かよいものはありませんか?」と聞かれれば、その方がファイナンスを勉強する目的や、現時点でのファイナンスの知識などを考慮したアドバイスを差し上げることはできます。ファイナンスの初心者ならまずはこの基本書を、ある程度の実務経験を積んだ上級者ならこの実務書を、という具合にです。

もし、みなさんが何か具体的な目的にかなう本を求めているのであれば、各分野に定番といわれる本がありますから、それぞれの分野にくわしい人に聞いたり、書評などを参考にしたりすればよいでしょう。

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「どんなものを読めばよいですか?」への答え

ただ、もっと一般的な質問として、「どんなものを読めばよいですか?」と聞かれてしまうと、簡潔に答えるのは難しくなります。

なぜなら、その方がどのような人で、これまでどのような人生を歩んでこられたのか、その中でどのような考えや価値観を身につけて、いまはどのような気持ちで生きていて、何を求めていらっしゃるのかをまったく存じ上げないからです。

非常に突き放した言い方をしてしまえば、「本当にそれが聞きたいのであれば、自分自身の胸に手を当てて聞いてみてください」としか答えられないのです。もちろん、それでは何も答えたことにはなりませんが……。

さはさりながら、「どのような本を読めばよいですか?」と聞かれる機会があまりに多いので、なぜそのような質問が多いのだろうかと、自分なりにその理由を考えてみました。「どのような本を読めばよいかは、どう考えても自分にしかわからないことのはずなのに、どうしてほかの人にそれを聞こうとするのだろうか?」と。

その結果、むしろそうした問いの多さこそが、いまの時代がはらむ深刻な問題を浮き彫りにしているのではないかと思うようになりました。

つまり、

「自分が何をしたいのかがわからない」
「自分が何をするべきなのかを、誰かに教えてもらいたい」
「自分が何を好きなのかがわからない」
「自分が何を好きであるべきなのかを、誰かに教えてもらいたい」

という姿勢が、世の中に広く蔓延していることの表れなのではないかと思い至ったのです。

何を読むべきかは自分自身に聞くしかない

さて、冒頭の「どんな本を読めばよいですか?」という質問に戻りましょう。

こうした質問はどこから来るのでしょうか?

つまるところ、それは、

「あなたはこれがきっと好きなはずですよ」
「これがあなたにぴったりのものですよ」
「これを選ばないあなたは損をしていますよ」
「あなたが何を好きなのか私が教えてあげましょう」
「私の言うとおりにしていれば大丈夫ですよ」

という、人々の不安と欲望を駆り立てる、現代資本主義社会が持つ病理が根底にあるからなのではないでしょうか。

「どんな本を読めばよいですか?」という質問に対して、私は「それは自分自身に聞くしかない」と答えましたが、本当はみなさん、もっと自分の「内なる声」に忠実に生きればよいだけのことなのです。

しかし、人々の欲望を駆り立てる、あるいは不安を煽る現代資本主義社会というシステムがそれを強力に阻んでいて、いまの世の中を生きる多くの人が、他人がよいと思うものを探し求めて右顧左眄うこさべんしているうちに、いつの間にか自分が何を求めているのか、そして自分が誰なのかさえわからなくなってしまう……。

そのような、私たちの自己感覚を失わせてしまう現代資本主義社会の病理に、私は大きな危機感を抱いています。

そして、そうした「自分が誰なのかがわからず、ふわふわと漂っているような状態」から抜け出すためのひとつの手段として、読書があるのだと考えています。それはいわば、自分が「正気であるため」の手段、つまり「自分が自分であるため」の命綱と言ってもよいでしょう。

ハートを持つ人のイメージ
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子どもにはどんな本を読ませたらよいか

ちなみに、『読書大全』という本を出版して以来、親御さんから「子どもに本を読ませるにはどうしたらよいでしょうか?」「子どもにどのような本を読ませたらよいですか?」といった質問を受けることも多くなりました。

でも、「どのような本を読ませたらよいか?」の前にまず、「子どもとは何か?」についてお話ししたいと思います。

子どもは「小さな大人」という不完全な大人ではなく、子どもは子どもであるとして、「子どもの発見」をしたのが、『社会契約論』(岩波文庫)で有名なジャン=ジャック・ルソーです。

ルソーは、『エミール』(岩波文庫)という教育論の本の中で、子どもの自発性と内発性を尊重する教育論を展開しています。

私の教育論の立場は、このルソーの考え方に近く、人には本来的に自らを発達させる能力があるという前提のもとで、子どもの能力を引き出す環境を整えてあげることが教育の役割だと考えています。ちなみにルソーは、子どもが小さいうちは本による教育よりも自然と接することのほうが重要だということを言っています。

何を読ませるかの前に子どもの教育をどうするかが先

これに対して、たとえばイギリスのパブリックスクールでは、伝統や社会規範に従うことに重きを置いた教育が行われています。個人の自由を重んじる一方で、共同体的な価値観にも重きを置いていて、ルソーの自然主義的な教育論とはかなり趣を異にしています。

イギリスの教育については、自らがパブリックスクールで学んだ英文学者の池田潔の『自由と規律――イギリスの学校生活』(岩波新書)や、パブリックスクールで教鞭を執った経験を綴った松原直美の『英国名門校の流儀 一流の人材をどう育てるか』(新潮新書)が参考になります。

「子どもにどのような本を読ませたらよいか?」という質問に対する直接の答えにはなっていませんが、そのような質問を問う前に、これらの本も参考にしながら、そもそもお子さんの教育についてどう考えるのか、一度、ご家族で話し合ってみることをお勧めします。

子どもが頭に本を乗せているイメージ
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読書は自分を導いてくれる「灯火」

結局のところ、自分の答えというものは「自分自身で考えるしかない」ということなのですが、そうはいっても突然、「それでは自分で考えてください」と言われたところで、果たして何の取っ掛かりもなしに考えることはできるものでしょうか。

ここに、読書というものが存在する意味があります。

なぜなら、ただ「考える」といっても、人間は「考える材料」と「考える枠組み」がなければ、ものごとをきちんと考えたり、思考を発展させたりすることができないからです。ものを考えるために、私たち人類は、文字と本というものを発明しました。そして私は、読書こそが、「考える材料」を集め、「考える枠組み」を構築する手段としてもっとも優れたものなのではないかと考えています。

本を読めば、人間にはじつにさまざまなものの見方や考え方、価値観があることがわかり、それら人間のさまざまな思考の軌跡を、読書を通じて容易に追体験することができるからです。

そのようにして、「考える材料」を自分の中にどんどんインプットし、自らの血肉としていくことで、自分の頭で「考える」ためのベースができていきます。

そうした「考える」ための指針、あるいは自分を導いてくれる「灯火」として、読書を活用すればよいのです。

まるで現代人が書いたかのような『自省録』

古代ギリシアや古代中国などの古典をいま読んでみても、2000年以上前のことであるにもかかわらず、私たち人間の考えることは、驚くほど変わっていないことがわかります。自分の人生、倫理や道徳、家族や対人関係、組織や社会の問題、お金の問題……と、人間が悩み苦しんでいることは、じつはいつの時代でもほとんど変わりません。

たとえば、「哲人皇帝」と呼ばれ、ストア派の哲学者でもあった第16代ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの『自省録』には、次のような一節があります。

堀内勉『人生を変える読書 人類三千年の叡智を力に変える』(Gakken)
堀内勉『人生を変える読書 人類三千年の叡智を力に変える』(Gakken)

各人は束の間のこの今だけを生きている。それ以外はすでに生き終えてしまったか、不確かなものだ。人格の完全とは毎日を最後の日のように過ごし、激することなく、無気力にもならず、偽善をしないこと。お前が怒りを爆発させたとしても、それでも彼らは同じことをするだろう。もはや善い人とはいかなるものかを論議するのはきっぱりやめ、実際にそのような人間であること。(岸見一郎『NHK「100分de名著」ブックス マルクス・アウレリウス自省録――他者との共生はいかに可能か』NHK出版)

『自省録』はマルクス・アウレリウスの日記であり、他人に読ませるために書かれたものではないため、わかりにくい部分や整合性がとれていない部分もたくさんあります。

しかしながら、自身の思索や内省を綴ったこの日記を読むと、まるで現代人が書いたのではないかと思うほど、いまを生きる私たちの悩みや苦しみに通じる部分が多いことに驚かされます。原著以外にも、哲学者の岸見一郎による解説がついた『NHK「100分de名著」ブックス マルクス・アウレリウス 自省録――他者との共生はいかに可能か』などのテキストがありますから、ぜひ一度、手に取ってみてください。

「困難に直面したとき、人はどう生きるべきか?」

そうした根源的な問いに対して、まさしく時空を超えて、考えるヒントを与えてくれる、私の愛読書のひとつです。

本を開いているイメージ
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人間の悩みには一定のパターンがある

こうした何百年、何千年もの時空を超えて生き続けている本を読むと、人間にとっての悩みや苦しみにも、一定のパターンがあることがわかります。そして、それにどう応えるかについても同様です。

もちろん、私は、そこに書かれている幾多の知恵を、単純になぞるべきだといっているわけではありません。いまここに生きている自分という存在が、運命によって突きつけられた命題に対して、実際にどのように対峙たいじしていくのか、そのことを、人類が蓄積してきた本というものを通じて学び、「自分ならどうするか?」を考え抜くこと……それこそが読書の意味なのだと思うのです。

他人の言うことを鵜呑みにしろというのではなく、一人で悩んでいるのでもなく、人類が積み重ねてきた「集合知」をうまく使ったらどうですか、ということです。