「子どもは欲しくない」と言ったのに対し、「そんなこと思うなんておかしいよ」と言われた……。こんな時には、どのように返したらいいのか。関西学院大学の社会学部教授、貴戸理恵さんは「世の中にはいろんな人がいて、いろんな評価軸があり『普通の人』がどこかにいるわけではない。相手が無自覚に使っている言葉を問うことから、新しいコミュニケーションを展望することができるのではないか」という――。(第2回/全3回)

※本稿は、貴戸理恵『10代から知っておきたい あなたを丸めこむ「ずるい言葉」』(WAVE出版)の一部を再編集したものです。

「女性であれば子どもを欲しがるのが普通」なのか

「多様性が大事」といわれるようになりましたが、いまだに「普通の人生」「普通の感覚」という名の幻想が一般の共通理解として押し付けられることは、まれではありません。このシーンでは「女性であれば子どもを欲しがるのが普通」として、それに当てはまらない言動は「おかしい」とされています。

「それが普通」という決めつけは、非都市部や年配の人たちに多いように思われがちですが、若い人たちのあいだにもけっこうあるような気がします。わたしは大学に勤めていますが、「親に感謝するのは普通でしょ」なんていう学生さんもいます。

でも、いわゆる「普通」は、実際にはずっと昔から続いてきた不変の価値でもなければ、平均的な像でもないことが多いのです。たとえば「女性であれば子どもを欲しがるのが普通」といういい方は、「産む性である女性には母性が備わっている」とする考え方に基づいています。けれども「母性」は、決して絶対不変のものではなく神話に過ぎないことがわかっています。

「育児専業の母」が「普通」ではなかった前近代

近代より前の時代では、庶民の女性は農業を営んだり家業を手伝ったりして働いていました。子どもを産んでも、育児に専念できるような状況ではありません。では農作業をしているあいだ乳幼児はどうするかというと、一応危なくないようにかごの中に入れられるなどして、基本的には放置です。少し育って6歳くらいになると、できる範囲で家業を手伝わされたり奉公に出されたりして、親元を離れる人も多くいました。

学校は? 義務教育が敷かれるのは学制が発布される1872年以降です。それより以前は、みんなが一定年齢になったら必ず行くような学校はありません。一部の商人や農民は「寺子屋」などで学ぶことがありましたが、そうでない場合は地域社会から勝手に生きるすべを学んで育っていきます。貴族や武家など身分のある人びとは、日常の世話は乳母に任せていますから、母親は産むだけです。また、前近代では乳児死亡率が高く、子どもは栄養失調や感染症でよく死にました。過酷な環境で一家が生き抜くために、親による子殺しや子捨て、人身売買もめずらしくありませんでした。

そういう状況では、ぷくぷくしたほっぺたの子どもが「ママー」と駆け寄り母親がぎゅっと抱きしめる、みたいな日常は「普通」ではありません。

母性は自然の本能ではない

「適齢期で結婚して子どもを2~3人産み、主婦として家事とケアを一手に引き受ける女性」が一般化したのは、日本では戦後になってから。第一次産業から第二次産業に転換していく高度成長期のことです。「子どもを愛しケアする母」はさまざまな歴史・社会的条件が整わなければ存在できないのであって、母性は女性に備わった自然の本能などではないのです。

かつては「3歳までは母の手で」といういわゆる「3歳児神話」がありましたが、1998年の厚生白書では「合理的な根拠は認められない」と否定されました。

同様に、「親に感謝するのは普通」といういい方も相対化することができます。「機能不全家族」「毒親」といった言葉があるように、残念なことに、この世のすべての親が我が子を愛するに足る能力や資源を持っているわけではありません。なかには愛し方がわからず暴力をふるってしまう親もいるのです。そういう親に「感謝しないこと」はおかしいどころか、子どもが自分で自分の存在を大切にするうえで、たいへんまともなことでしょう。

母親が台所で赤ちゃんと一緒に料理
写真=iStock.com/monzenmachi
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あたりまえを疑う

2016年、女優の山口智子さんが「子どもを産んで育てるのではない人生を望んだ」「後悔はない」と語り話題になりました。2022年には、O.ドーナトの『母親になって後悔してる』(鹿田昌美訳、新潮社)という、そのものずばり「母親になったことを後悔している」女性たちにインタビューした研究書がベストセラーになりました。実際、現代の日本社会では望む・望まないにかかわらず、子どもを持たない人生を生きる女性は増えています。「子どもが欲しくない/いなくてもいい」という人を「おかしい」としてしまう態度は、単にデリカシーがないばかりでなく、そうした現状に対する知識不足の結果でもあります。

当然のことですが、世の中にはいろんな人がいて、いろんな評価軸があり、「普通の人」がどこかにいるわけではありません。自分の感覚を「普通」、異なるものを「おかしい」といってしまう背景には、自分がどういう人間でどういう感覚の持ち主なのかをきちんと考えたことがない、という現実があるのだと思います。

ひるがえって、「わたしは普通ではない」と日常生活のなかで感じさせられる人は、必要に迫られて「自分とは何か」を懸命に考えます。結果として、自己を知り、「あたりまえ」とされる価値を疑い、多様な他者への想像力を持つ――つまり世界を広げていく可能性に、より開かれていくことがあるのです。

抜け出すための考え方

「おかしいよ」「普通じゃないね」といわれたら、「普通って何?」と相手に聞いてみましょう。

かつて、タレントで作家の遙洋子さんがフェミニストの上野千鶴子さんのゼミにもぐって書いた『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』(2004、ちくま文庫)という本がありました。論争に強い学者に、相手を論破するやり方を学ぶという内容ですが、その最後に出てくるケンカの仕方の10カ条に、「○○って何?」と相手が無自覚に使っている言葉を問う、というものがあったのを思い出します。これは相手の考えの足りないところをつき、無知を暴いていく方法。きっとウザがられるでしょうが、高い確率で「もういいよ」と相手のほうから話題を変えてくるので、少なくともケンカには勝てます。

ともあれ、より重要なのは、簡単に他人を「おかしい」と断定する人は、他人を理解しようとしていないばかりでなく、自分自身についてもきちんと考えられていないのだという現実を、相手に突き付けることです。相手が無自覚に持っている「普通」という想定を揺るがせることができれば、そこから新しいコミュニケーションを展望することができるでしょう。

もっと知りたい関連用語

【近代家族論】

家族と聞いてわたしたちが思い描くのは、「働いて家計を支えるお父さん、家で家事や育児をするお母さん、愛され保護され教育される子ども」という像でしょう。近代家族論は、こういう家族が「いつの時代にもどんな地域にも普遍的に存在していた」わけではなく、近代という時代に固有のものだったことを、社会史や歴史人口学などの手法で実証的に明らかにしました。近代という時代に現れた家族だから「近代家族」。近代が揺らげば「近代家族」も揺らぐのは当然、ということになります。

貴戸理恵『10代から知っておきたい あなたを丸めこむ「ずるい言葉」』(WAVE出版)
貴戸理恵『10代から知っておきたい あなたを丸めこむ「ずるい言葉」』(WAVE出版)

たとえば、E.バダンテールというフランスの哲学者は、『母性という神話』のなかで、18世紀のパリでは多くの子どもが里子に出されるなど産んだ母親のもとでは育てられておらず、「母性愛」は普遍ではないとしました。また、P.アリエスというフランスの歴史学者によれば、中世ヨーロッパには愛情をもって保護されたり教育されたりする「子ども期」は存在せず、6歳くらいになるとその身分に属する大人と同じような生活をする「小さな大人」として認知されていました。

日本では、社会学者の落合恵美子さんによる『21世紀家族へ[第4版]』(2019、有斐閣選書)が有名です。硬派な歴史人口学の視点から、「日本では、近代家族が庶民にまで行きわたったのは1960年代だった」という衝撃の事実が明らかになります。そんなわずかな歴史しかないものを、「大昔からニンゲンは、男女で愛し合って家族をつくって子どもを守ってきたのよねー」と雑な感覚でとらえてきたとは何事かと、初版を読んだとき20歳だったわたしはぎょう天しました。

より現代的な分析では、社会学者の筒井淳也さんによる『結婚と家族のこれから』(2016、光文社新書)がおすすめです。「女性も男性も仕事も家庭も」という共働き家族は理想形に見えますが、多くの限界を抱えていることがよくわかります。