※本稿は、貴戸理恵『10代から知っておきたい あなたを丸めこむ「ずるい言葉」』(WAVE出版)の一部を再編集したものです。
「どうなっても知りませんよ」
このお母さんは、すごいと思います。「PTAは任意ですよね」って、なかなかいえることじゃありません。
ある小学校で、PTAから4月に配られる文書を見たことがあります。
「子どもひとりにつき一度以上はPTA役員を務めてもらいます。○月○日の役員決め総会に必ず出席のこと。出席できない場合は委任状を提出してください。免除対象の場合は事前に申告してください。無申告・無断欠席の場合、役員に選出されたら引き受けてもらいます」
その脅迫的な書き方に、思わず「こわい」とつぶやいてしまいました。1年生の親は、先輩親から「働いているなら地域活動委員がいいよ、会合が土曜日だから」とか、「低学年のうちに済ませておくのが得策。6年生で学年委員になると、運動会のダンスのときみんなの前でお手本を踊らなきゃならないのよ」などとアドバイスを受けていました。「じゃあ○○委員かなぁ」などと思案する1年生の親たちに、「そもそも加入するか・しないかを選べる」という前提はありませんでした。
「子どもが人質」だと躊躇してしまう
けれども、じゃあこのシーンのようにいわれて、それでも「わたしは入りません」といえたでしょうか?
「全員参加のポイント制」とは、PTAの係に重要度によって点数を付け、「何点以上」などとノルマを決めておくやり方で、「負担の平等」を確保するためにしばしば行われています。だからこの発言は、「みんな苦労しているのに、ひとりだけ負担を引き受けないんですね?」ということを意味します。
ここで「やりません」と押し通せば、「勝手な人」と親同士の人間関係から外されるかもしれません。地元のしがらみがあったり、仕事と生活圏が重なっているという人は難しいでしょう。
また、「卒業式のお花」を持ち出すのは「加入しないと、あなたの子どもがのけ者にされますよ」という脅迫です。PTA関連ではしばしば「子どもが人質」という言葉を聞きます。自分は何と非難されてもいい、という人だって、子どもに不利益があるとなれば躊躇するのではないでしょうか。
なかなか言えない「わたしは入りません」
これらを考えると、この母親が希望通り断れるかどうかは、心もとない気がします。PTAを取材する新聞記者の堀内京子さんは、小学校の説明会でひとりの母親として、多くの保護者や教師の面前で手を挙げ、「PTAは入退会自由ですよね?」と質問したときのことを次のように書いています。
「新聞記者の仕事をして20年、社長会見や大臣会見で食い下がることはあった。でも人生の中で、あのPTA説明会でのたった一つの質問ほど、口が乾かわき、舌が思うように回らなかった経験はない」(『PTAモヤモヤの正体』2021、筑摩選書)。
知識・スキル・経験のある人でさえそうなのですから、「よく知らないけどなんとなくイヤだなぁ」と思っている一般の保護者が断るハードルはどれほどでしょう。「参加は任意。だからわたしは入りません」は、それ自体は正しいけれども、なかなかいえない言葉なのです。
互いの監視はだれのため?
「どうなっても知りませんよ」という言外の意味を持つ、この言葉の背景を考えてみましょう。
そこにあるのは、相互監視の抑圧です。別にこのセリフをいっている人だって、やらなくて済むならPTAなんてやりたくなかったかもしれないのです。もちろん楽しんで、やりたくてやっている人もいるかもしれませんが、そういう場合は断られたって「あらそう、やればおもしろいのに」くらいのもので、「どうなっても知りませんよ」なんて圧力をかけることはないでしょう。自分だってイヤだけど「負担は平等に」という「掟」に逆らわずやってきた、という人が、「ひとりだけ楽をするのは許さない」と隣の人に監視のまなざしを向けるのです。
ところが、それをやってもその人に得はありません。自分の負担が減るわけではないのですから。江戸時代の五人組や、第二次世界大戦下の隣組に明らかなように、相互監視の制度によって利益を得るのは、「掟」を定めるより上位の権力です。この場合、一番ずるいのは、「どうなっても知りませんよ」と互いを監視する個々の人ではなく、自分は何もしなくても目的を達成できる上位権力なのです。
PTAの場合は、「よーし、保護者に互いを監視させて効率よく支配してやれ」と考える「わかりやすい権力者」がどこかにいるわけではないかもしれません。でも、PTAという組織は、実はピラミッド型の全国組織で巨額のお金を動かしており、全体像がわかりにくいところがあります。そこには「保護者の無償の労力提供によって教育支出を抑えながら、それを『子どものため』といいくるめる構造」を、見て取ることができるかもしれません。
抜け出すための考え方
だめなのは「負担を避けるあの人」ではなく「負担を強いてくる構造」です。そう考えると、「互いの足を引っ張りあうのではなく、構造を見通す」という道が見えてくるのではないでしょうか。このシーンの登場人物たちは対立しているように見えますが、実は同じ構造のなかでともに抑圧されており、社会を変えるニーズを持っている人たちなのかもしれません。
「こういわれたら、こういい返せばよい」というような簡単な対処法はありません。でも、引いた視点から自分が巻きこまれている状況を見すえ、どのような仕組みのなかでみんながしんどくなっているのかを考えることはできます。「みんなイヤだけど引き受けている」のはなぜでしょう。みんなが引き受けなくなったら、困るのはいったいだれでしょう。そもそもPTAとは、いったい何のための、だれのための組織なのでしょう。
「みんなイヤだけど引き受けている」なら、その「みんな」と監視しあうのではなく連帯し、一緒に制度を変えるという方向性だってあります。実際に、PTA改革が進められ、活動内容をしぼって任意参加にするといった改革が行われるケースも増えてきています。
もっと知りたい関連用語
【PTA(Parents & Teachers Association)】
2010年代以降、PTAの問題は、メディアやSNSなどを通じて知られるようになりました。たとえば、共働き世帯のほうが優勢なのに平気で平日の昼間に設定される会合。貴重な有休を使って学校に集まり、折り紙を折っているワーキングマザーはめずらしくありません。そして抑圧的な役員決め。免除してもらうために「病気」「介護」などの事情を会員の前で話させるところもありますが、個人情報保護の観点からNGです。極めつけが、「任意だけど実質的には強制加入」という慣習。法的には何の根拠もありません。
近年では、任意加入の原則を明示したり、活動をスリム化して「やりたい人だけがやる」とするなど、改革事例も見られるようになりましたが、課題が多いのも現実です。
また、PTAは、各学校単位のPTAの上に地域ごとの連合会があり、さらに上に日本PTA全国協議会がある、というピラミッド型の組織で、そうした構造もさまざまな問題をはらんでいます。
そのひとつが、お金の問題です。上部団体のPTAは補助金の受け皿になったり、保護者が支払う会費が「上納」されたりと巨額のお金が動くのに、その流れは不透明です。
ジェンダー不平等の問題も深刻です。会員のほとんどが母親なのに、会長や上位団体になるにつれ男性が増えます。母親たちは、子育てと仕事に追われながらPTA役員を引き受け、対外的に発信する場では「長」である男性を立てています。そのうえ「動員」されて興味もないのに参加した講演会で「ぞうきんは手縫いしろ」などといわれた日には、たまったものではありません。
子どもの学校に親が関わることは、大切です。それは学校が地域に開き、多くの人との交流のなかで子どもが学び、育つことを支えるでしょう。そうした環境を整備するためにも、問題を直視し、適切に対応することが求められます。