※本稿は、柏耕一『笠置シヅ子 信念の人生』(河出書房新社)の一部を再編集したものです。
笠置より23歳下、美空ひばりは11歳で笠置に出会った
のちに笠置シヅ子は、美空ひばりとの確執を世間から面白おかしく邪推されるのだが、そもそも二人には、どのような出会いがあったのだろうか。
ひばりは昭和23年(1948)5月の小唄勝太郎公演に出演している。これは横浜国際劇場の一周年記念公演でもあり、笠置の「セコハン娘」を歌って好評を博した。ひばりはその後、横浜国際劇場の準専属になる。
美空ひばりは当時、11歳だった。同年10月、人気絶頂の笠置が横浜国際劇劇場に出演し、ひばりが前座を務めることになった。二人はここで初めて顔を合わせることになった。
昭和32年(1957)刊のひばり20歳目前での初めての自伝『虹の唄』には、その時のひばりの気持ちが次のように綴られている。
「ある日、笠置シヅ子先生がお出になることになりました。私が一番尊敬している先生です。うれしさに胸が一ぱい。笠置先生はいろいろ親切に面倒を見て下さいましたし、私のような子どもと一緒に写真を撮って下さいました」
『虹の唄』には二人が並んで写る写真が掲載されている。この文章には、ひばりの笠置に対する悪感情など微塵もない。
ひばりは笠置のブギの持ち歌を歌って天才歌手と騒がれた
しかし、それから14年後に刊行の『ひばり自伝』では、笠置との初めての共演の話題はすっぽり抜け落ちている。笠置の持ち歌を歌って芸能界へのチャンスをつかんだひばりの経歴からすると不自然ではある。
服部良一は、ひばりのことは当然よく知っている。昭和24年(1949)にひばりが日劇に出演した際には、母の喜美枝からこんな挨拶をされている。
「この子は先生の曲が好きで、笠置さんの舞台は欠かさず見ています。どうぞ、よろしくお願いします」
服部は喜美枝の挨拶を受けながら、ひばりのことを「横で、ピョコンと頭だけを下げてニャッと笑った少女に、ぼくは不敵な微笑を感じた」と感想を述べている。
ひばりはお客には人気があって、「豆ブギ」とか「小型笠置」とか呼ばれている。
ひばりの11歳当時の「東京ブギウギ」を聴くと、低音と高音のメリハリのある艶やかで巧みな歌唱に驚かされる。とても子どもの歌とは思えない。服部も舌を巻いたという。
天才の片鱗ではなく、すでに天才そのものである。
いっぽう、笠置はひばりに果たして、どんな感情を抱いていたのだろうか。知られた言葉としては、服部に語った言葉ひとつしかない。
「センセー、子どもと動物には勝てまへんなあ」
大スターの笠置がひばりをいじめたという逸話の真相
年配の方の中には、笠置の持ち歌であるブギを歌う11歳の美空ひばりを、笠置シヅ子が何かといじめた……などと記憶する人もいる。真相はどうなのか。
これに関して生前の笠置が、自伝はもちろん雑誌等のインタビューにも答えた記録はない。しかし『ひばり自伝』には、そのへんのことが詳しく綴られている。
ひばりは昭和23年(1948)、高知県での旅公演で九死に一生のバス事故に遭い、なかば引退状態だったが、ひょんなことから横浜国際劇場に出演することになった。そこからは、とんとん拍子に日劇小劇場、日劇大劇場出演とステツプアップしていった。
日劇大劇場出演は昭和24年1月、歌手・灰田勝彦主演の「ラヴ・パレード」で、これに三人三様の娘がからむという趣向である。
ひばりは三人娘の末っ子で、主人公の恋のキューピッド役を演じ、劇中で笠置の持ち歌「ヘイヘイブギー」を歌うことになっていた。そのため、ひばりはこの歌の作曲者・服部良一のもとに3日間通ってレッスンを受けていた。
事件が起きたのは初日の幕が開く5分前のことだった。日劇近くの有楽座で公演中の笠置から、「わたしの持ち歌である『ヘイヘイブギー』を歌うことはまかりなりません」とクレームが入ったという。
ひばりの公演初日に笠置が「ヘイヘイブギー」を歌うなと禁止?
ひばり自身、「心臓がとまるような」申し入れだ。演出家を含め鳩首協議をしたものの、そう簡単に結論は出ない。その場面と歌をカットするわけにもいかない。ひばりは悲しくなって涙をポロポロ流しながら「それではやめます」というしかなかった。作曲者の服部良一が許可しているのになぜ? という思いもあった。
ひばりの母・喜美枝も「そう、それではおろさせていただきます」と同調する。ひばりがよく歌っていたブギと正反対の「星の流れに」のような曲では、そもそも芝居が成立しない。
「困ったなあ……」という関係者の中の誰かから「もう一度、有楽座へ電話してみよう」という声が上がった。関係者が事情をよく説明したせいか「笠置さんは態度が軟化して『ヘイヘイブギー』はダメだが『東京ブギウギ』ならいいといってます」となった。
ひばり自身は「東京ブギウギ」では、バンドと音合わせもしたことがない。それもオーケストラボックスにいるバンドと曲の出を、ぶっつけ本番で合わせるのは至難の業である。
事実、ひばりは本番では出だしの「トオキョ」の演奏に遅れてトチッている。
「ひばり自伝」に書かれているが、事実という確証はない
――と、筆者は昭和46年(1971)刊の『ひばり自伝』に即して、以上のエピソードを紹介したが、どうやらこれは確証のもてる話とはいえないようだ。なにしろひばりは、当時(昭和24年1月)まだ11歳である。この出来事にしても、ひばり本人が笠置から直接、電話を受けたわけでもない。人気絶頂期の笠置自身が、ひばりが日劇で何を歌うかまでチェックするとは考えにくい。
「ヘイヘイブギー」に関する申し入れが、ひばりサイドにいったとしても、それは笠置側の関係者の誰かがしたことではないか。たとえば笠置のマネージャーとか興行関係者……などと考えるのが自然であろう。
「いじめ」と呼ばれる話は、こういった一連の顚末が、関係者の口から世間に伝わったのではないか。『ひばり自伝』も一役買っているということか。
だから、笠置はひばりを毛嫌いしているとか、いじめたなどというイメージの一因になったのであろう。
いくら人のよい笠置でも、こんな話が世間にひろまれば、一度くらいは反論するはずだが、調べた限りそんな形跡はない。
笠置本人にしてみれば身に覚えのない話だから、気にもならなかったはずである。
たしかに当時、持ち歌が一つもなかったひばりにとっては、困惑する出来事だったため、話がいたずらに大きくなった気がする。笠置は裏も表もない性格なので、迷惑極まりない話に違いない。
この一件に関しては、「ヘイヘイブギー」の歌詞のように「あなたが笑えば私も笑うヘイヘイ」とはいかなかったのである。
昭和25年のアメリカ公演でもひばりに楽曲の使用禁止命令が
米軍占領下ではあったが昭和25年(1950)にもなると、日本人の渡米が目立つようになってきた。政治家、文化人、芸能人がその流れにいた。美空ひばりや笠置シヅ子もその中のひとりだった。
ひばりは、日系二世部隊の記念塔建設資金募集の名目で、昭和25年5月にハワイやアメリカ本土で公演を予定していた。
翌6月には、笠置や服部良一などの一行も4カ月をかけて、アメリカ興行を実施する手はずとなっていた。そこにはおそらく、見聞をひろめたり観光の要素もあったようだ。
二つの公演がクロスすることになったが、ひばりの渡米公演に重大な問題が降りかかってきた。ひばりサイドに「服部良一の全作品を歌っても演奏してもならない」と、日本音楽著作権協会から通知状が送られてきたのである。
笠置・服部サイドからのひばりへの嫌がらせだったのか
後年、ひばりは「その時、わたしの持ち歌は『悲しき口笛』と『河童ブギウギ』しかなかったので、本当に途方に暮れてしまいました」と振り返っている。
これを笠置・服部サイドの嫌がらせととるかは微妙である。渡米前の笠置たちにしてみれば、なにしろ自分たちのヒット曲を先にひばりに歌われては興行価値に響いてくる。オリジナル歌手としては、心中穏やかでいられまい。
日本著作権協会に手を回したのは服部ではない。服部の名前でそれを強行したのは、勧進元の興行会社と思われる。会社にしてみれば、興行の名目はどうであれ利益を出さなければならない。
この問題は、笠置とひばりが帰国後も、しこりとなって残った。
昭和42年(1967)の「月刊文藝春秋」10月号に笠置の娘エイ子が、この問題に関して次のような寄稿をしている。いちばん説得力のある話ではないだろうか。
笠置のひとり娘・エイ子が語った事件の真相
「私の知る限り、母が(直接には母ではなくて、周りの音楽関係者かもしれません)自分の歌を歌わないでくれと、ひばりさんに申し入れたのは、昭和25年5月、ひばりさんのハワイ公演の前のことです。そのころのひばりさんはまだ持ち歌が少なく、ハワイ公演でも母のヒット曲を歌う予定になっていました。
これが国内であれば、もともとは母が歌ってヒットしたものだと誰もがわかります。しかしハワイではそうもいきません。実は母も、同じ年の秋ハワイ公演を予定していたもので、ハワイの人に誤解を招くようなことはやめていただきたいと申し上げたわけで、話合いはつかないまま、ひばりさんはハワイで一連のブギを歌いまくりました。
著作権料さえ払えば、誰の曲を歌おうとかまわないのではないか、という考えもあるかもしれません。そこから母の『意地悪説』が出てきているのでしょう。しかし同じ世界で仕事をしているもの同士礼儀というものがあるのです。後にゴッドマザーとまでいわれたひばりさんの母喜美枝さんが、当時そのあたりのことがよく分っていなかったことは仕方がないことかもしれません。
しかし、母が腹に据えかねたのは、当時のひばりさんのマネージャーに対してでした。この人は以前から母とは顔見知りだったのです。ですから、事前に母に対して根回しのようなことが出来たはずなのに、一切それをしなかったんです。
このように母は意志が強く、何事に対してもきびしくけじめをつけ、筋が通っていなければ気のすまない人でした」
力道山のはからいでひばりと服部良一は和解したが…
後年の話だが、ひばりによると、彼女は力道山と親しくしていた。プロレス界のスーパースター力道山がひばりの大ファンで、ひばり母娘にリングサイドの席をとったりしていた。
あるとき、そのへんの事情を知っている力道山は、彼が主催のパーティーで、わざと服部の席の前にひばり母娘の席を設けた。
それを目にしたひばりは「仰天して、逃げ出そうとしました」と回顧している。たいして力道山は、しらばっくれて「どうしたんだ」とひばりに聞いている。
そのやり取りを昭和46年(1971)刊行の『ひばり自伝』では、次のように書いている。
「リキさん。わるいけど、あたし帰るわ」
「席か?」
「ええ」
「何馬鹿なことを言ってるんだ」
「だって……困るもの」
「そんなこと言わないでこい。おれにまかせておけ。責任持つから」
そういうと力道山は、ホールで踊っている服部にひばりを引き合わせた。
すると服部は踊りながらひばりに「あれはおれの意志でしたことではない。わかってくれ」と謝ったそうである。ひばりは、これが服部との和解と自分を納得させた。
ひばりも大スターになったが、笠置とは仲直りできなかった
しかし、笠置に対しては、すでに押しも押されもしない大スターになったひばりは、「笠置さんと、そんなことで、仲直りできないままですが」と、記すのみである。
いっぽう笠置にしてみれば、そんなひばりの気持ちは心外だったに違いない。笠置は雑誌などでも、ひばりとのことを直接、語ることはなかった。ひばりへの本心をもう知るすべはない。
まあ、子ども時代のひばりは人気者だが、孤立無援でもあった。だからこそ頼るべき人物は母の喜美枝しかいなかった。
詩人のサトウハチローからは、笠置のものまねで人気を得たひばりへ「ゲテモノを倒せ」などという物騒なアジ文まがいの攻撃をされていた。
「そういうゲテモノは皆が見に行かなければ、自然とほろびるではないか。だから見に行くな。そんなものをはびこらせておくことは芸能界として、大先輩のこの両者(笠置シヅ子・服部良一)に対して申しわけないことだ」
まだ12歳ほどの子どもにとって、サトウハチローの無神経な文章はつらいものがあっただろう。
こういう背景もあって、笠置が与り知らぬこととはいえ、ひばりは彼女に対して、いつからか平静をよそおえなかったのかもしれない。これは両者にとって、不幸なことであった。