※本稿は、柏耕一『笠置シヅ子 信念の人生』(河出書房新社)の一部を再編集したものです。
出生について「父を知らぬ陽かげの子」と綴ったシヅ子
どんな平凡な人生にも、ドラマの一つや二つはある。まして笠置は、一世を風靡した大スターである。
「私の半生には幾つもの因縁がついてまわっております。誠にわれながら宿命の子だと思います。(中略)その因縁の一つは、私も、私のたったひとりのエイ子も陽かげの子なのです。生れながらにして父を知らぬ不幸なめぐり合わせは、奇しくも母子二代にまたがっているわけです」
この文章は笠置シヅ子の唯一の自伝的著書『歌う自画像私のブギウギ傳記』(昭和23年刊)の書き出しである。
人気絶頂時の華やかな大スターとしては、およそ似つかわしくない告白ではないか。「陽かげの子」という表現は、たとえそれが事実だとしても、いまも昔も人気商売のスターなら避けたいフレーズであろう。
こうした表現をこだわりなく平気でつかう笠置には、その飾らない人柄と自信が見てとれる。
以下、自伝に詳細に綴られていく彼女の複雑で因縁めいた半生は、華やかな大スターの陰の部分である。
笠置は大正3年(1914)8月25日に、四国の香川県大川郡相生村(現・東かがわ市)に生まれている。
1914年といえば、第一次世界大戦(イギリス・フランスなどの連合国と、ドイツを中心とした中央同盟国との戦争。1918年に終戦)が勃発した年であり、アジアの端っこに位置する日本の四国にあっても、世界をおおう重苦しい空気とは無縁ではなかった。
非嫡出子として生まれ養子に出されたからこそスターに
笠置の出生は、誰にも望まれぬものだった。というのも生母は、近在の富農の家で女中奉公をしていた。笠置は、母とその家の若い跡取り息子との間にできた結晶だった。母はまだ18歳か19歳だった。
しかし、結果的にはたかが奉公人の小娘と、「白塀さん」と呼ばれるほど白い土塀がつづく旧家の家柄からして、身分違いの私通だった。
その後、母は富農の家長から因果を含められて暇を出された。奉公先から遠からぬ引田町の実家に身を寄せた娘は、女児シヅ子をひっそりと産んだ。
元来、虚弱だった父も、笠置が生まれた翌年に22か23歳の若さで死んだ。
この引田町というのは播磨灘に面する港町で、醬油醸造で栄えた古い町並みがいまも残る。町の西側を清流が流れ、榛の木の樹陰にシヅ子の生家があった。この女児が、曲がりなりにもその地で成人していたとすれば、後年の笠置シヅ子は誕生しなかったはずである。
まだ10代の実母は乳が出ず、里帰り出産した養母が授乳を
さて、どんなことが笠置の運命の転換点になったのだろうか。それは乳児をかかえて賃仕事をして、家計を切り盛りしていた笠置の実母が、乳の出が悪かったことにあった。
乳呑児に一日じゅうピイピイ泣かれては、仕事もはかどらない。そんなとき、亀井うめという大阪に嫁いでいた女性が、出産のため引田町の実家に里帰りしていた。次男を無事に生んだうめは、どういう経緯があってかはっきりしないが、親切にもシズ子のために哺乳を買って出てくれたのである。
後年、笠置はうめのことを「義侠心がある」と評しているが、そんな心で授乳を引き受けたのだろう。
うめは、引田町の多額納税者でメリヤスと手袋工場を経営する中島家当主の妹だった。人情家で世話好きのうめは、大阪で薪炭や米・酒をあつかう仕事をしていた亀井音吉と所帯を持っていて、すでに長男もいた。
哺乳が2カ月もつづいた頃には、情も移り手放すのが惜しくなるのは人の常である。うめにとっては男の子二人に女の子だから、余計そんな気持ちが強くなってきたのかもしれない。
笠置は養母うめのことを「義侠心がある」と評した
いっぽう、生母としてみれば若い女の身空で乳児をかかえ、田舎町で生計を立てていくという境遇は、今日でも決して楽ではないであろう。ましてや時代は大正である。
たぶん、親のすすめもあったのだろう。生母は、笠置を手放す決心をしたのである。
いっぽう、裕福というほどではないうめが、笠置を「可愛いから」「情が出て」という理由だけで、夫に相談もせず養子にするのだろうか。
この点に関して笠置は、養母の気持ちを自伝の中でこう推量している。
「養母の気持ちは今もってわかりません。決して私が別れ難ないほど可愛らしい子供だったとは思えませんので……」
と書くが、それでも持病の心臓脚気があるうえ、実の子の育ちもいまひとつで、何かのときの頼みに自分をもらう気になったのかもしれない……と想像する。
筆者の考えるところ、どれも間違いではないだろう。いまと違って子どもは労働力という時代でもあった。
笠置が生まれて半年たつ頃、うめは同年生まれの次男の正雄といっしょに、彼女を大阪へ連れて帰ることとなった。
養母はシヅ子に血のつながりがないと知られたくなかった
実子として笠置に愛情をそそぐうめには、大きな悩みがあった。娘に出生の秘密を知られることだけは、何があっても避けたかったのだ。
二人がずっと大阪にいれば問題はないが、うめはことあるごとに香川の実家に帰らなければならない。
相生村の「白塀さん」の家にも、大正4年(1915)に亡くなった跡取り息子の法事があるので毎年、出席していた。そのうちうめは、物心がついた娘のミツエに、出生にまつわる隠し事がいつバレるかと、大いに怖れるようになった。そのためうめは、ミツエが8歳になって以降は「白塀さん」の法事にも顔を出さなくなった。親せき縁者にも固く口止めしたことはいうまでもない。
7歳くらいだったか笠置には、父の位牌が飾られた「白塀さん」の仏壇の前で、お得意の「宵や町」を踊り、参会者に拍手された記憶が残っている。老いた祖父の目には、涙がにじんでいるように笠置には見えた。
ある日、笠置は養母がひた隠しにしていた出生の秘密を知ることになる。
笠置は自伝にこう書く。
「私はお蔭で大阪の松竹歌劇に入るまで、なんの疑惑も懊悩もなく、ただやさしい養母に甘えるだけ甘えて平和に過ごしてきましたが、18歳の秋に、とうとう私の秘密を知ってしまいました。多感な娘ごころに、これは大きな衝動でした」
香川で貧しい暮らしをする実母との一度きりの対面
笠置に実母がいたことが、なぜ彼女に知られることになったのだろうか。
笠置が18歳の夏のこと。松竹少女歌劇の団員だった彼女は、気管を悪くして休団していた。そこで養母は、笠置と8歳下の弟の八郎を連れて、郷里からさほど遠くない白鳥という白砂青松の海辺に避暑をかねて出かけたのである。
そんな折に、うめは兄の中島から「今年は白塀さんの息子の十七回忌だから唯一血のつながっている娘の静子を連れて出席するよう、白塀さんから強く頼まれている」と強要されたのである。
うめは抵抗したがかなわず、娘だけ法事に出席させて、大阪に残した夫からの矢の催促で八郎と共に帰阪した。
その結果、笠置は法事の席で、事情を知る年寄りが自分に向かって話す無神経な言葉で、「白塀さん」の家とは血のつながりがある、という疑念を抱くに至った。
中島の家にもどった笠置は、叔母を問い詰めて実母の存在を知ることとなった。
養子に出された人が実の親を追い求める強い気持ち
実父母を求めるこの気持ちは、他人にはうかがい知れないものがある。笠置は自伝で、その苦悩と逡巡を率直に書いている。笠置の舞台上での底抜けの明るさは、この闇の深さとも関係あるに違いない。
笠置に強談判されて、叔母が打ち明けた結果、彼女の心は晴れたのだろうか。決してそうではなかった。その複雑な胸中を自伝において、こう吐露している。
「私はやっぱり聞かなければよかったと後悔しました。血肉をわけた母がきのう同じ法事の席に連らなり、またこの近くに住んでいるとわかると、どんな意外な事実を聞こうとも、いまの養母に対する気持ちは変わらぬという自信で聞き出してきた私の身構えがぐらついてきたのです」
18歳の娘である。揺れる娘心が手に取るようだ。このあと笠置は、近在に住む実母と対面を果たすことになる。
実母に会おうとする決断には、理由づけが必要だった。
人間の本能として、実母を求めることは自然の感情である。とはいえ、養母うめに対する後ろめたさもある。
なにしろ養母は、実母の存在をこれまで笠置に、ひた隠しに隠してきたからである。笠置も、養母のその気持ちは痛いほど理解できた。
笠置は心の中で、こう折り合いをつけた。
シヅ子が百日咳にかかったとき懸命に看病してくれた養母
自分が百日咳で生死の境をさまよったとき、帯をひと月も解かずに看病してくれたお母さん、娘が死ねば自分も死ぬといってくれたお母さん、どんな人が出てこようと、お母さんはたったひとりだ……と。
半面、はたして実母はどんな人なのだろう、どんな人が出てこようが、自分さえしっかりしていれば問題はないはず……。
あれこれ考えるうちに笠置は、実母と会うことで母に対する気持ちの変化はないと確信したのだろう。実母を知りたいという気持ちに、功利的なものは一切ない。実母との対面は、後にも先にもこのとき一回きりである。
仕立てを生業とし、6歳くらいの男の子がいて、笠置への負い目を見せる実母と会い、笠置は、これはこれで得心したのではあるまいか。
実母と養母との間で揺れる心というよりは、実母と養母への自分の距離感を確認して、心の平安が得られたといっていいかもしれない。
実母との別れに際し、笠置の手には金無垢(純金)の置時計の入った小箱が握られていた。実母いとが、生前の夫(笠置の実父)から贈られたものだった。