西出ひろ子さんが、マナー講師を目指していた約30年前、講師のほとんどが元CAだった。視力が足りずにCAになれなかった西出さんが選んだ進路とは――。

※本稿は、西出ひろ子『突然「失礼クリエイター」と呼ばれて』(きなこ出版)の一部を再編集したものです。

客室乗務員
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突然の就職活動、憧れのマナー講師との出会い

私がマナー講師という仕事を生涯の仕事に決めたのは、ほんの偶然からでした。

就職シーズンを迎えた大学生時代。卒業後の私の就職先は、九州で不動産業を営む父親が地元でまとめてくれることになっていました。それは、あわただしく就職活動に勤しむ友人たちを横目に一人、東京での残りの学生生活を満喫しようとしていたところでした。

ある日、母から衝撃の事実が伝えられました。

「お父さんとお母さんは離婚するから、あなたが戻れる家はもうない。だから東京で就職先をみつけなさい」

急転直下、私は急遽、就職活動を余儀なくされたのです。

つらい思いを引きずりながら大学の学生課に相談しに行ったのが、私の就職活動のスタートでした。そこで紹介された面接指導の講座に先生として来られていたのが、JALの元CA(当時はスチュワーデス)、岩沙元子先生でした。

初めてお会いしたとき、その美しい姿とともに心の優しさにすっかり魅了されました。私はそのかたに一目惚れしてしまったのでした。

そのとき、私は初めてマナー講師という仕事が世の中にあることを知り、同時にマナー講師になりたいと心から思いました。

マナー講師のほとんどはCA出身者だった

どうしたらマナー講師になれるのだろう。自分なりに調べてみると、マナー講師のほとんどはCA出身者ということがわかりました。そこでJAL、ANA、JASという、当時国内にあった航空会社3社を受験することに決めました。

それから岩沙先生も講師陣に加わっているスチュワーデス専門学校に通い始めました。ところが、ネックになったのが視力です。私の目は裸眼で0.02しか見えません。合格基準の0.1にはほど遠かったのです。それでもあきらめきれず、視力回復センターという施設に通って視力強化にも努めました。

一方では、視力検査表の記号の配列をすべて記憶するという、今思えばあきれてしまうほどの努力もしました。人はこれを涙ぐましい努力だと言ってくれますが、一番上の段さえ見えれば、後は記憶でしのげると思ったのです。ところが一番大きな最上段の記号さえ、目を細めなければ判別がつかない。試験官から「目を細めちゃダメ!」と注意され、結果は案の定、不合格でした。

スチュワーデス専門学校の先生方たちからは、外資系の航空会社をすすめられましたが、英語が苦手だった私はあきらめざるを得ませんでした。

社会人のスタートは議員秘書から

それからは20枚ほどの履歴書と就職雑誌を抱えて、一般企業を回る日々。卒業式が近づくころには、いくつか内定をいただくことができましたが、マナー講師になりたい気持ちに変わりはなく、将来を考えて結局、すべて断りました。内定をいただいた企業には本当に失礼をしてしまい、今でも申し訳なく思っています。

そのような状況を見て、スチュワーデス学校の校長から「あなたは秘書として生きていきなさい」と、国会議員の秘書職を紹介してもらうことになりました。私は晴れて、参議院議員の秘書として社会人の仲間入りをすることになったのです。

分厚い書類を整理している女性
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あわただしく就職活動に勤しんでいるあいだ、両親の離婚協議は難航していました。たがいに自分の立場でしかものを言わない二人を見て「なんて美しくない人たちなんだろう」と嘆いていました。あの当時、人の美しさとは何か、ということについて、とことん考えました。

世の中には自分とまったく同じ考えの人なんていません。たとえ相手が言っていることが自分の考えかたとは相いれないものであっても“受けとめ”てあげる気持ちを持っている人が、人として“美しい”のではないか……。そう思うようになっていったのも、両親の醜い争いを見ていたからでした。

そんな悲嘆のなかにいた私にとって岩沙先生は、人としての理想に一致していたのだと思います。それほどに岩沙先生は外見も内面も美しい人でした。私がマナーに「内面の美」を重視し、追求してきたのはその影響を受けているからだと思います。

秘書時代に学んだスキル

私が秘書についた人物は、当時、参議院議員だった小野清子先生。元オリンピックの体操選手で、スポーツ・文教関係の役職を歴任され、小泉純一郎氏が内閣総理大臣のときには入閣もされています。

秘書の仕事をこなしながらも私の頭のなかは、マナー講師になったときにこの経験をいかに役立てるかを考えていました。もちろん、議員の小野清子先生のことはリスペクトしていましたし、お仕えする気持ちは持っていましたが、見るもの聞くものすべて、自分がマナー講師になったときにはこうしようああしよう……と思っている自分がいたのも事実です。さらには、当時はまだ両親の離婚騒動の渦中でもあり、何かと迷惑をかけてしまいました。

代理で会食に出席することも

小野清子先生から学んだことは山のようにありますが、とくに話しかたについては大いに学ばせていただきました。と言っても、先生から直接指導を受けたわけではありません。小野清子先生はスピーチの名手でした。私は話しかたの勉強など一度もしたことはありませんが、今も周囲の方々から間のとりかたが絶妙だとよく言われます。私自身はそのような技術も知らなければ、何かを意識しているわけではなく、自然にそうなっています。社会人になりたてで毎日のように小野清子先生のスピーチを聴く機会に恵まれたおかげで、私の体のなかに自然に先生のお話のリズムがしみこんでいたのでしょう。

先生のスケジュールはいつもいっぱいで、時には同日時に会合が重なったりもしました。そういうときは、第一秘書や第二秘書の先輩が代理で出席するのですが、ときには社会人1年生の私でさえも代理でパーティーや会合に出席し、先生の代わりにごあいさつをすることもありました。そういうときに備えて、先生の迷惑になることは絶対言わないように、また先生の秘書として恥ずかしくないように、ふだんから自分なりに努力していたように記憶しています。

付箋を利用した手帳
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バブル絶頂期に、ひとり暮らし、就職先のない落ちこぼれの私を拾ってくれた先生には、本当に感謝しかありません。そして、こんな私を温かく支えてくれた諸先輩方にも感謝の気持ちでいっぱいです。職場は、温かい家族のような人間関係であったことは、当時、両親が離婚裁判中で、実家のことで心を痛めていた私を救ってくれました。私が今、自社でスタッフたちに「家族を最優先で仕事をしてね」と声をかけ、スタッフたちをファミリーと言っているのは、社会人1年目で体験した環境に起因しています。母性あふれる小野清子先生、本当にありがとうございました。

目標は27歳でマナー講師として独立すること

議員秘書のあとは、あるジャーナリストの秘書としてその道を追究しました。ここでは「本物の秘書とはこういうことだ!」という、まるで小説やドラマ、映画に出てくるような秘書としての役割と仕事を経験させてもらっていました。こちらでも先生をはじめ、スタッフの皆さんにお世話になりました。心から感謝しています。

20代半ばから、仕事をしながら本格的にマナー講師になるため学ぼうと、憧れのマナー講師・岩沙元子先生のご自宅兼サロンに片道2時間かけて通い始めました。さらに将来のために勤務先からの支援を受けながら、簿記会計の知識を学び、資格を取得しました。その会社にも社長にも本当に感謝しています。ありがとうございます。20代で転職をくり返した私でしたがもともと、27歳で独立をすると決めていたのです。

突然の父の訃報

予定通り、私は27歳でマナー講師として独立を果たしました。ですが、独立してすぐに仕事をいただけるほど世間は甘くありません。私は並行して派遣社員として商社で働くことにしました。じつは、派遣社員になったのも、マナー講師として力をつけるための修業でした。

西出ひろ子『突然「失礼クリエイター」と呼ばれて』(きなこ出版)
西出ひろ子『突然「失礼クリエイター」と呼ばれて』(きなこ出版)

当時の私は、名の通った大手企業から依頼をいただくことが、マナー業界での一つの成功であると思っていました。そのチャンスを逃がさないためにも、大手企業の仕事がどんなものか、身をもって知っておくことが必要だと考えたのです。簿記の資格を持っていたので、それをアピールして、伊藤忠商事の本社で派遣社員として採用してもらいました。

しばらくはウィークデーに派遣の仕事をし、週末に細々とマナー講師の仕事をするという二足のわらじで生活を維持していました。航空会社出身者でないことは、明らかにハンディキャップでした。何か箔をつけなければと、とり組んだのが、秘書検定試験です。

秘書検定準一級の二次試験では面接や実技の試験がありました。ある日突然、思ってもみない朗報が届きました。この試験で日本秘書検定協会連合会会長賞をいただくことができたのです。

この検定試験では筆記試験と面接試験の両方があり、どちらも優れた成績を収めた者が選ばれます。その面接で、議員秘書やジャーナリストの秘書の経験が大いに生きました。賞をいただいたのが29歳のとき。この受賞を機に、マナー講師としてやっていく自信を身につけることができました。

亡き父に日本一のマナー講師になると誓った

苦しいなかにも自分の道を貫くことができたのは、じつは父の支えがあったからです。

周囲の人が皆、マナー講師になることを反対するなかで、唯一、父だけは「やりたいことをやれ」と背中を押してくれました。だから表彰式では晴れ姿を父に見てもらいたかったのですが、会場には父の姿はありませんでした。なぜならその直前に、父は自ら命を絶ってしまったから……。

私は硬く、冷たくなった父に、日本一のマナー講師になると誓いました。その気持ちは、29歳のときから今日に至るまで、私の胸のなかにずっとあります。