※本稿は、神垣しおり『逃げられる人になりなさい』(飛鳥新社)の一部を再編集したものです。
私たちは「その日の苦労」で手一杯
「校長」という仕事は決断しなければならないことも多く、日々悩みの連続です。
だからこそ、心に留めているのが、「明日を思い煩わない」ということです。聖書に、こんな言葉があります。
その日の苦労は、その日だけで十分である。
マタイによる福音書6章34節
実際、「その日の苦労」で手一杯なのですから、明日は「明日の自分」にまかせればいいのです。そう思うと、少し気が楽になります。
まだ起きていない未来のことに煩わされなくていい。目の前にある問題に、ただ集中していけばいいのだ。この言葉からはいつも、そんなエールを受け取っています。
考えてみると、日常的なことから世界情勢まで、私たちのまわりには、すぐには解決しない問題のほうが多いのではないでしょうか。仕事や人間関係の調整などの身近な問題でも、なんらかの手を打ったあと変化が起きるまでには、それなりに時間がかかるものです。
「スルーする」ことを意識する
その一方で、人の時間や能力のキャパシティは限られています。
すぐに解決しない問題やネガティブなニュースに反応し、感情を揺さぶられすぎると、本来やるべきことがおろそかになりかねません。
もちろん、そういった感情をバネにして行動できる人もいるでしょう。しかし私自身は感情移入しすぎないよう、気分の切り替えを意識しています。
たとえば、新聞やテレビのニュースは毎日チェックしますが、紛争のニュースや事件記事などを延々とみることはありません。問題はきちんと認識しながらも、「スルーする」ことを意識しています。「ごめんなさい」と心の中で手を合わせながら、あえて深入りせず、状況の好転を祈り、自分にできるほかのことをします。
とくに今は、情報過多の時代です。どんな情報をどのようにキャッチするかを意識することはとても大事なことだと思います。
また、仕事や人間関係で解決に時間がかかる問題も、あえて脇に置き、「今は、ちょっと休もう」「少し静観しよう」と考えます。そうすると、自然に状況が動いたり、気持ちを立て直したことで別の道がみえたりすることもよくあります。
すぐに変えられないことを受け入れるのも、また心のすこやかさを保つために大事なのです。
どんなときも逃れる道はある
カリスマ性や統率力があるわけでもない自分には務まらないと、一度はお断りした校長職でした。しかし、引き受けたからには全力で取り組むと決め、多くの方に助けられながらここまで進んできました。
けれど今でも「ほかの方であれば、もっとよい選択ができたのではないか」「あのときの判断は正しかったのだろうか」という思いは残ります。また、元来の自信のなさが顔を出し、試練を前にひるみそうになるときもあります。
それでもどうにか進んで来られたのは、「あなたには逃れる道も備わっている」という聖書の言葉があったからです。
コリントの信徒への手紙一 10章13節
前半の「乗り越えられない試練はない」という部分はよく聞く言葉ですから、もしかするとあなたも聞いたことがあるかもしれません。また、つらいときや苦しいときに、この言葉で自分を鼓舞した経験があるかもしれません。
しかし、その次の「逃れる道も備わっている」と教える部分が、私にとっては大きな支えとなりました。自信のない私を強くし、困難のときに勇気をもって前進する力をくれました。
違う道を選んでもいい
人がなにかを選択するとき、「この道でがんばるしかない」と考えると逃げ場がなくなります。でも、どんなときも進む道はひとつではなく、さまざまな道があるのです。そう知っていれば、安心してチャレンジできます。
もちろん、「逃れる道」があるからといって、自分の力を試すこともなく逃げればいいといっているわけではありません。
わが学園の前理事長シスター渡辺和子が著書『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎)でおっしゃっているように、自分が置かれた場所で咲こうと努力するのは尊いことです。私もそうできるよう、必死で進んできました。
その過程で、時にくじけそうになる心を支えてくれたのが、この言葉だったのです。
「逃れる道」はすでに備わっているのですから、まっすぐ進まず、違う道を選んでもいい。あるいは、今の道をひたすら前進すれば、その先で思わぬ方向に道がひらけているかもしれない。
だから、試練と向き合ってみよう。そう思い定め、自分がやると決めたことに取り組むことができました。
試練が訪れたとき、「逃れる道」をみつけるためには、時にはひと休みすることです。先を急がず一歩ずつ進むことです。
そうやって進んでいけば、その先に必ず自分という花を咲かせる道があります。
聖母マリアでさえ母になることに戸惑った
実は聖母マリアも、あの有名な「受胎告知」の場面でキリストの母になることを拒否しています。光臨した天使に「あなたは、キリストの母になるのだ」と告つげられ、「どうしてそのようなことがありましょうか」と拒んだのです。
当時、マリアは16歳か17歳だったといわれていますから、突然のお告げに戸惑い、そう答えたのも無理はありません。
しかしそのあと、マリアは落ち着きを取り戻し、こういいました。
「Let It Be(仰せのごとくわれになれかし)」
わかりやすくいうと、「お言葉どおりになりますように」という意味です。
ジョン・レノンの歌で有名な「Let It Be」は、キリストの母になるという運命を受け入れたとき、マリアの心の中から湧いてきた言葉でした。
聖母マリアでさえ、みずからの運命を受け入れるために、考え、咀嚼する時間が必要だったのだ。そう考えると、少し救われる思いがします。
迷う自分を否定しない
なにかを依頼されたとき、自分には無理だと感じたり気が進まなかったりしても、実際に、断るのはためらわれるものです。「断ると、嫌われるかもしれない」「せっかくいってくださっているのだから」という思いが湧いてきます。相手への申し訳なさや罪悪感を覚えるからでしょうか。
しかし、自分の心を正直に感じてみましょう。
そして、もし答えがNOなら、その感覚に素直に従い、一度は相手に問い返してもいいと思います。
それでもなお、やるべきだと思うのなら、それは「神の思し召し」と受け止め、承諾してみる。そういった方法もあるのではないでしょうか。
私自身も、校長職を一度拒否したからこそ、「仰せのごとく」と受け入れる姿勢が整いました。神様が「やりなさい」とおっしゃっているのかもしれない。そう考え、引き受けたのです。
迷ったり拒んだりする自分を否定せず、いったん認める。その上で、「それでも、やってみよう」「やはり、やるべきだ」と判断したら受け入れる。そうやって、自分の素直な心と向き合いながら進んでいくと、新たな世界や可能性が広がっていきます。