※本稿は、山本直人『聞いてはいけない スルーしていい職場言葉』(新潮新書)の一部を再編集したものです。
「やればできる」という謎の言葉
入社した時から知っているとある後輩が30歳になった頃、ゆっくりと話す機会がありました。そして、こんなことを言ってきました。
「それで、何が気になったわけ?」
「いや~よくハッパかける時に『やればできるんだから!』って言う人いるじゃないですか?」
「ああ、いるねえ」
「でも、問題はそこじゃないと思うんですよ」
「なんで?」
「仕事って『やってもできない』ことがあると思うんです」
「……なるほどぉ……」
「それなのに、『やればできる』って意味ないと思うんです」
シンプルですが、いいところを突いていると思います。「やればできる」が無意味だと言っているのではなく、「やってもできない」ところに注目しているのも鋭いと感じました。
「やってもできない」という事実
ちなみに、彼は営業セクションに所属しています。気になったので、その辺りの話をもう少し聞いてみることにしました。
「基本的に言われたとおりに見積もり作って、注文を受けて作業を回すことはできるんですよ。でも、商談で新しいことを提案して、先方のニーズを聞き出していくようなことは全くできないですね」
「それ、君はできてたの?」
「う~ん、いきなりはできなかったですけど、けっこう先輩がうまく引っ張ってくれたような気がするんですよね」
「じゃあ、その時のことを思い出してみればいいんじゃない?」
「そうなんです。ちょうど、その辺りを考え始めてるんですけど、周りには相変わらず『やればできる』って感じの人が多くて……」
「でも、『やってもできない』に着目したのは良かったと思うよ。『やればできる』と言われても、そもそも何を『やる』かが曖昧なんだよね、きっと」
「しかし、あれって変な言葉ですよね。わかったようなわからないような」
「まあ、ロクに勉強しない子どもに言う言葉だよね。そもそも、社会人で『やらない』ってなったら、それで終わりなんだから」
「やればできる」はおまじないと同じ
こんな会話をしたのは、相当前のことでした。相談してきた彼は、観察力もあり冷静です。その後も、いいリーダーとなっていきました。
それにしても、「やればできる」というのはたしかに妙な言葉です。よく耳にするけれど、冷静になって考えるとよくわからない言葉の典型ではないでしょうか。
先に言ったように、「そもそもやるべきことをしない」状態の人に対して鼓舞する言葉のはずです。
具体性はありませんから、いわば精神論の一種です。だから、せいぜい中学生くらいまでに説教する時の「おまじない」としてならいいかもしれません。
しかし大人の社会でこのような言葉が必要だとすると、それは相当にまずい状況なのではないでしょうか。
「為せば成る」は当たり前なのか
そして、この言い方をさらに立派にした言葉があります。それが「為せば成る」でしょう。こちらはより厳めしく、しかも出典もはっきりしています。米沢藩主上杉鷹山が家臣に示したものとして伝えられています。
そのために、訓話などでもよく引用されますが、結局「よくわからない」ことについては同じようなものではないでしょうか。
「為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり」
やはり、「やればできる、やらないからできない」ということでしょう。ちなみに「為せば成る」を辞書で調べてみると、その中には「やればできる」と書いてあるものもありました(スーパー大辞林3.0)。同じ意味といっていいわけです。
「為せば成る」については、武田信玄が同じようなことを言っていますし、中国の『書経』を出典とするなどの説もあるようです。その辺りを探ると、鷹山の「為せば成る」とはややニュアンスも異なるようですが、ここではそのことに深入りはしません。
それよりも、なぜそのような言葉が当たり前のように広まっているのか? この辺りのことを、もう少し考えてみましょう。
「とにかくやればできた」昭和
精神論というのは、とかく具体性がありません。それでも、それなりに広がったのには理由があると思います。そこで、この「やればできる」をちょっと掘り下げてみようと思います。
手がかりは「やってもできない」時にどうするか? という着眼です。
これは、実際によくあるのではないでしょうか。同じ仕事に複数の人間が取り組めば、段々と差がついていきます。誰にでも得手不得手があるのだから、当たり前です。
それは子どもの体育と同じです。一斉に走り出せば差がつくし、同時に懸垂をすれば段々と脱落していく。そういうことが、さまざまな局面で起こります。
単純なようですが、もともと持っている能力は人それぞれです。それに応じて仕事を割り当てていくことが組織の基本です。
だから、誰に対しても同じように「やればできる」と言って、みんなが「やった」としても差はつきます。それでもとくに問題がなかったとすれば、こんな理由があったからだと思うのです。
・そもそも、「やる」ことの内容が、それほどスキルを必要とせず頑張ればよかった。
つまり、いわゆる「昭和の職場」であれば、通用していた発想だと思うのです。
営業職であれば、とにかくアポをとって訪問していく。人によって差はつくけれど、コツコツ頑張ればいくつかは成約できる。そして、どうにか「同じ船」に乗ることができたわけです。
それが、今の職場では同じようにはいかなくなっています。
そして、「やればできる」だけではどうしようもないことを直視した企業は、きちんと未来を拓いていくと思っています。
それは、日本の働き方の変化と密接に関わっていくと考えます。
「できることをやる」職場に
近年、企業の雇用形態をめぐって「メンバーシップ型」と「ジョブ型」という二つの方法が話題になることが多くなりました。
多くの日本企業がおこなってきたのが、いわゆる「新卒一括採用・終身雇用」を核としたメンバーシップ型です。正社員として一つの企業のメンバーになれば、何らかの形で定年まで仕事が与えられる仕組みです。ただし、その組織の中でどのような仕事をするかは、基本的には会社が決めます。
ジョブ型は、「こういう仕事をする人を求めています」という求人が起点になります。その仕事で実績のある人を採用しやすくなりますし、学校での専攻などを活かして仕事をしたい人にはやりがいを感じやすいでしょう。これは、欧米では主流といわれています。
「属する」から「契約する」へ
実際の雇用においては、その中間のような形態も考えられますし、部分的に導入することもあります。そして、日本においてもジョブ型の雇用を取り入れていく会社が段々と増えつつあります。
そうなると、一つの領域で実績を挙げた人は、より良い待遇を求めて会社を移ることもさらに増えていくでしょう。いずれは、一つの会社に「属する」よりも、自分の能力にふさわしい条件で「契約する」という感覚になっていくと思います。
メンバーシップ型とジョブ型には、それぞれの長短があります。しかし、これからは「メンバーシップの一員になればOK」というわけにはいきません。なぜなら、その制度は日本で人口が増え続けて高度経済成長が続いた時代に確立されたものだからです。
そして、「やればできる」はメンバーシップ型の雇用だからこそ、合言葉になりえたのだと思います。
仮にジョブ型の雇用になれば、能力への要求はハッキリとしてきます。「やってできる」人も、時代とともに「やってもできない」人になるかもしれません。メンバーシップ型の企業なら、「それなりのポスト」を用意することもできたでしょう。
「学び直し」が求められる時代へ
しかし、ジョブ型であれば「できるようになる機会」を提供することが必要になります。それぞれの人が「できること」を探す時代になっていくでしょう。そこで、「学び直し」が求められるようになったのです。
最近では「リスキリング(re-skilling)」という表現になり、政府も推進していくようです。ただし、そういうカタカナ語を広めるよりも、こう宣言した方がいいのではないでしょうか。
「もう、これからは『やればできる』という発想では通用しません」
そう言われて困るのは、根性論だけで威張っているスポーツ指導者くらいだと思います。
「やればできる」という言葉への引っ掛かりを探っていけば、実はこうした働き方の大きな変化につながっていきます。何気ない言葉に違和感をおぼえたら、じっくりと掘り下げてみることで、大きな流れの変化が見えてくるかもしれません。